カフェキュウビの日常4話19
「診療所から逃げてきたのか?」
椿がそう口にした、その瞬間だった。
ミケは椿の足元をすり抜けるように走り、まっすぐ光太の元へ向かうと、するすると身軽に登って肩に乗った。
「椿さんから聞いてたけど……本当に猫に戻ってるんだな」
ミケは返事の代わりに、光太の頬に顔をすりすりと擦りつけてくる。その温もりは確かで、さっきまでの張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。
「どうした、ミケ?」
光太が優しく声をかけると、ミケは肩からストンと飛び降り、数歩先まで歩いてから振り返った。
そして、じっと光太を見上げる。
――こっちだよ。
言葉はないのに、そんな声が聞こえた気がした。
ミケは動かず、光太を待っている。
光太はどうすべきか分からず、思わず椿と久遠に視線を送った。
椿は小さく息をつき、静かに言った。
「……行ってこい」
店を預かる身として、椿はここを離れられない。それを分かっているからこその一言だった。
光太は一瞬迷ったが、ミケの方を見て、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
そのとき、
「私も行こう」
と久遠があっさり言った。
光太はその言葉に、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
何かあっても、久遠が一緒なら心強い。実力のほどは分からないが、少なくとも一人で向かうよりはずっといい。
こうして光太と久遠は、ミケに導かれるまま、店の外へと足を踏み出した。
何が待っているのかは分からない。
だが、その背中はどこか迷いのない猫の足取りだった。
「……ということがあったんです」
光太は、前を歩くミケの小さな背中を見失わないようにしながら、これまでの経緯を久遠に簡単に説明した。
診療所のこと、猫又になったこと、そして再び猫の姿に戻ったこと。
「へぇ……この子が猫又ねぇ」
久遠は感心したように言い、歩きながらミケをじっと観察する。
当のミケは、そんな視線など気にも留めず、足取り軽く先を進んでいた。
「……あ、ちょっと待って」
突然、久遠が足を止め、コンビニの方へ向かった。
光太が立ち止まって待っていると、ほどなくして戻ってくる。
「はい、これ」
差し出されたのは、温かいコンビニのカフェラテだった。
「ありがとうございます」
光太は礼を言って受け取り、再び歩き出す。
「山にいるとさ、こういうのとは本当に縁がなくなるんだよね」
久遠はカフェラテをひと口すすり、ほっと息をついた。
「何度も夢に出てきたよ。コンビニのコーヒー」
「そんなに、ですか」
「うん。普段は当たり前みたいに温かい飲み物が出てくるけどさ」
久遠はカップを見つめながら続けた。
「それがどれだけありがたいか、山にいると嫌でも分かる。火を起こすだけでも一苦労だからね」
「確かに……自然の中で火を使うのは大変そうです」
「便利さを理解するために、不便さを経験しなきゃいけないなんて、変な話だよね」
久遠は苦笑する。
「必要もないのに雪山に登ったり、自転車で日本を一周したり。人間って、ほんと面白い生き物だよ」
その頃ミケは、小網神社の前を通り過ぎていた。
金運のご利益で知られる神社は、平日にもかかわらず参拝客で賑わっている。
犬ならまだしも、猫が先頭を切って歩いているのは珍しいらしく、
スマートフォンを向ける人や、ひそひそと話す声があちこちから聞こえた。
だがミケは、そんな視線をものともせず、悠然と歩き続ける。
昭和通りを越え、さらに進んでいくと、ふいにミケが足を止めた。
「……ここ、大手町あたりですよね」
光太は周囲を見回し、高くそびえるビル群を見上げる。
「ほう……これはこれは」
久遠が、どこか感心したような声を上げた。
「久遠さん、ここ、何かあるんですか?」
「あるも何も」
久遠は目の前を指差す。
「ここは将門塚だよ」
「将門……平将門ですか?」
「そう。日本三大怨霊のひとり、平将門」
久遠は周囲のビル群を見渡した。
「こんな一等地で、しかも高層ビルに囲まれてるのに、ここだけぽつんと残ってる。不自然だと思わない?」
光太は改めて塚を見つめた。
確かに、街の流れから切り取られたような静けさが、そこだけに漂っている。
「ミケ……ここに何かあるの?」
光太がそう問いかけると、ミケは短く鳴いた。
「にゃあ」
それだけ言うと、突然踵を返し、どこかへ向かって駆け出してしまう。




