カフェキュウビの日常1話5
もや言い合いが始まりかけたが──
「静かにせい」
椿が穏やかに翌日から、光太の新しい生活が始まった。
午前8時──いつもより少しだけ早起きして、光太はカフェキュウビへと向かう。
朝の空気はまだ少し冷たく、浜町の街には通勤や通学の人々が行き交う。
水天宮の裏手にひっそりと佇む古民家風のカフェは、どこか時間の流れが違って感じられた。
店に着くと、まずは店の前を箒で掃く。
落ち葉や風に吹かれた紙くずを片付けながら、近所の常連たちと挨拶を交わす。
「おはよう、若いの」
「今日も頑張ってるねぇ」
「頑張りなよ」
最初はぎこちなかった光太も、次第に店に馴染んでいった。
9時の開店と同時に、椿が店の奥からふわりと現れる。
今日は煙管ではなく、湯気の立つコーヒーカップを手にしていた。
「光太、注文が入ったらな、客の目を見て挨拶するんじゃ。言葉より目がものを言う」
光太は接客に自信が持てなかったが、店に来る客は常連が多く文句を言う客はほぼいないのでその点は気が楽だった。
客が来たら注文をとり、料理ができたら運び、食べ終えた食器を下げて洗う。
椿の指導は厳しくもどこか優しさがあった。
午後の暇な時間──いわゆる“アイドルタイム”には、椿からコーヒーの淹れ方を教わる。
ドリップの速度、豆の種類、温度の違いで変わる味の奥深さはとても複雑だったが、学ぶことの楽しさを思い出し、もっと知りたいと思った。学校の授業はあんなに退屈だったのに。
光太はコーヒーの世界に、少しずつ魅了されていった。
そんな日々が、静かに、だが確実に積み重なっていった。
──そして、数日が過ぎたころだった。
突然、猫の喧嘩のような声が裏通りに響き渡った。
ギャーギャーという高い鳴き声に続いて、ガシャーンとゴミ箱が倒れる音、カラカラと自転車が巻き込まれるような騒音。
その中に混じって、犬のような低い唸り声まで聞こえる。目を見開き、眉間や鼻筋にシワが寄る「これ以上近づくな」という表情をしているのが容易に想像できる。
「な、なんですか今の……?」
光太は思わず目をぱちくりさせ、カウンター越しに椿へと尋ねた。光太とは対照的に落ち着いている。
「やれやれ、しばらく大人しくしておると思ったら、またか……」呆れて物が言えないという感じ。
椿は、コトリと煙管をテーブルに置き、ため息まじりに呟いた。
「え、なにか知ってるんですか?」
「そうら、そのうち転がり込んでくるぞ」入口に視線を送る。
その言葉が終わらぬうちに、カフェのドアがバンッ!と乱暴に開いた。
次の瞬間、もつれ合う2匹の毛玉が店内へと転がり込んできた。
「お前が出ていけッ!」
「なに言ってんだ、ここはウチらの縄張りだっての!」
声を張り上げながら、前足でひっかき合い、後ろ足で蹴り合い、椅子を倒し、テーブルをひっくり返し、ついには棚の砂糖壺まで床にぶちまける始末。
光太は唖然として見つめた。
──狸と狐。しかも、しゃべってる。
「ど、動物……じゃない? 妖怪……?」
ここは都会のど真ん中。
極稀に狸などの野生生物が迷い込むことはある。
しかし、そんなことがあればニュースになるほど珍しいことだ。
そして、狸一匹ならまだありえるが狐と狸二匹同時に現れ、喧嘩をするなど有り得ない。
もっと有り得ないのは、人の言葉を喋っていることだ。
動揺する光太の横で、椿はすっと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
「……喝!!」
その声は店中に響き渡り、空気を震わせ、光太の鼓膜に突き刺さった。
まるで鐘を至近距離で鳴らされたような、耳鳴りのような鋭い一喝だった。
直後、暴れていた狸と狐は、手足をピーンと伸ばしたまま床に倒れ、白目を剥いて口から泡を吹いている。
完全に、のびていた。
「し、死んだ……?」
光太が小声で呟く。
椿はひょいと近づき、煙管で毛玉たちの頭をつんつんと小突いて微笑んだ。
「死んでなどおらん。気絶しておるだけじゃ」
「あ、ああ……よかった……」
光太はほっと胸を撫で下ろした。
──椿ならそれくらいのことは、やりかねない。そう思えたから。
店の中は、完全に嵐が去った後のような有様だった。見るも無惨な光景に、これを片付けるのは自分なのだろうと考えた。
光太は、気を失っている狸と狐を一匹ずつ引きずるようにして、奥の居間まで運んだ。
ちゃぶ台の脇にそれぞれを寝かせ、ぺたぺたと額に水を含ませた布を当てる。
ちゃぶ台の上には椿が用意した冷たいお茶が二杯置かれていた。
「……ふぅ……」
光太がようやく息をついた頃、先に狸の方がむくりと身体を起こした。
続いて狐の方も目を開け、周囲を見回してから──椿の顔を見て固まった。
「ひ、ひいっっっ!!」
2匹はほぼ同時に短く悲鳴を上げると、ボンッという小さな破裂音を立てて姿を変えた。
もやのような煙に包まれたかと思うと、その場には人間の姿があった。
狐は、光太と同い年くらいの少女になっていた。
真っ白な肌に、つり目ぎみの大きな瞳。ポニーテールのように結ばれた栗色の髪には、どこか野生的な気配が残る。
制服風の服を着ていたが、微妙に和装の意匠が混じっており、まるで舞台衣装のようだった。
一方、狸は肩までかかるボサボサの髪に、無精ひげをたくわえた中年の男に変わっていた。
年のころは三十代といったところだが、その髭を剃って整えれば意外と若く見えるかもしれない。
着物に腹巻という出で立ちで、やたらと腹だけが出ている。
──いや、そもそもこの2人(?)、たぶん見た目だけの話じゃない。
妖怪だから、本当の年齢は何百年も生きてる可能性だってあるよな。
光太はそんなことを考えながら、ちゃぶ台越しに2人を見つめていた。
椿はふんわりと微笑みながら、2人にお茶を勧めた。
「落ち着いたかの?」
狐と狸──いや、化けた2人は、おそるおそる湯呑みに手を伸ばした。
狐の方をキヌ、狸の方を権助というらしい。
狸の男も渋々と頭を下げた。先ほどまでの暴れっぷりが嘘のように、二人とも正座をして静かに茶をすすっている。
どうやらこの二匹──いや二人は、椿には逆らえないようだった。光太にもそれくらいは分かった。
あの一喝がよほど効いたのか、それとも過去に何か思い出したくもない出来事でもあったのか。とにかく、今のところ再び暴れる気配はない。
椿が湯呑みを指で回しながら、静かに口を開く。
「で?何が原因でこんな馬鹿騒ぎを始めたんじゃ?」
キヌと権助は顔を見合わせて、ちらちらと椿をうかがいながら、ぽつぽつと語り始めた。
狸と狐──この二種の妖怪は、古来から仲が悪い。
縄張り争いも、騙し合いも、昔から日常茶飯事だったらしい。
とはいえ、近年はお互い数を減らしていたこともあり、さほど衝突することもなかった。
そんな中、権助は水天宮の近くでうどんの屋台を始めた。
数日遅れて、キヌも同じ場所で蕎麦の屋台を出した。
偶然か必然か──二人はそこでバッタリと鉢合わせた、というわけだった。
「そっちこそ後から来たくせに先輩面して、感じ悪いんだからっ!」
「バカ言え、俺がこの界隈でうどん茹でて何年経つと思ってるんだ!先に名乗り出たのは俺じゃい!」
また一言、そう言っただけで、空気が凍りついた。
2人はビクリと震え、再び姿勢を正して沈黙する。
光太はその様子を見て思った。
椿は確かに狐の妖怪のはずだが、同じ狐であるキヌに特別な肩入れをする様子はない。
中立の立場から、淡々と物事を見ているようだった。
もしかしたら、同じ種族という意識すら薄いのかもしれない。