カフェキュウビの日常3話17
光太が目を覚ましたのは、事件から二日後の朝だった。
「しまった、バイト」
気づけば丸一日、昏々と眠っていたらしい。
慌ててカフェキュウビに連絡を入れると、
椿からの返事は意外にも穏やかだった。
叱られる覚悟でいた光太は、少し拍子抜けする。
きっと椿も、光太の疲れを察していたのだろう。
光太は慌てて支度をしてキュウビに向かった。
今、光太はキヌと並んでカウンターに座っている。
カウンターの向こうでは、椿がサイフォンを使ってコーヒーを淹れていた。
ガラスの中でゆらめく泡と、ぼこぼこと小さく鳴る音が心地よい。
事件の夜とは打って変わって、穏やかな時間が流れていた。
「ミケは……あの後どうなったんですか?」
光太が尋ねると、椿は静かに答えた。
「あぁ、あの猫又――いや、ミケは買い物横丁の診療所に預けてある」
「そうですか……」
光太は胸を撫でおろした。命に別状はないらしい。
「夢で見たと言っておったな。それは、よくあることなのか?」
椿は炎を細め、サイフォンの球体を覗き込みながら問う。
「いえ、今回が初めてです」
「ふむ……」
椿は何かを考えているようだった。
その横顔を、光太は黙って見つめる。
自分の中で何かが変わりつつある気がしていた。
サイフォンの中で、コーヒーが沸き立つ音がした。
ふわりと広がる香ばしい香りが、張りつめていた空気をやわらげていく。
三人はその泡の動きを、しばし無言で見つめた。
キヌは何か言いたそうにしていたが、
空気を読んで、唇を結んだままだった。
香りと沈黙のあいだに、ようやく日常が戻ってきた――
そんな気がした。
からん――
カフェキュウビのドアに取り付けられたカウベルが軽やかに鳴った。
「ごめんくださいまし」
椿がゆるやかに視線を入口へ向ける。
そこに立っていたのは、まるで絵本の中から抜け出してきたような少女だった。
黒と白のフリルが幾重にも重なったゴシック・ロリータのドレス。
頭には黒いボンネットハット。
レースの隙間から覗く瞳は少し吊り上がり、自信に満ちている。
その目元には、泣きぼくろがひとつ。
可憐でありながらも、どこか人を試すような気配があった。
「紅茶はございますの?」
澄んだ声でそう尋ねる。
椿は軽く首を振った。
「すまない、紅茶はやっておらぬのじゃ」
「あら、残念ね」
少女は小さく肩をすくめ、店内をゆっくりと見回した。
ステンドグラス、木製の柱、飾られた古いレコード――
ひとつひとつを吟味するように目で追い、小さく呟いた。
「とても、いいお店ね。……また寄らせてもらいますわ」
上品に会釈をすると、少女は踵を返した。
その後ろには、黒いメイド服を着た侍女が静かに従っている。
二人が去っていく背中を、椿はじっと見送った。
やがて、侍女の姿を見て「ほう」と小さく目を見開いた。
「どうしたんですか、椿さん?」
光太が尋ねる。
椿はどこか愉快そうに微笑んだ。
「あの侍女、かなりできるな」
光太はゴスロリの少女ばかりに目を奪われており、侍女の方はろくに見ていなかった。
からん――
再びカウベルが鳴る。
入れ違いで、平次が入ってきた。
「なんだぁ、あの二人組」
「平次か。お主も気づいたか」
「そりゃあ、あれだけ殺気出してりゃな」
「ゴスロリの方は見るからに主人じゃ。この街では見ぬ顔。
侍女の方は……たぶん、初めての土地で警戒しておった。そんなところかの」
「へぇ。で、その主人のほうは?」
「――全く読めんかった。大物なのか、天然なのか、まだ未知数じゃの」
「なんか最近、騒がしいねぇ……」
平次は肩をすくめ、やれやれとタバコに火をつけた。
「カプチーノで」
煙の向こうで、椿はわずかに笑った。
カフェキュウビの午後は、再び静かに――しかし、確かに新たな波の予感を孕んでいた。
三話完




