カフェキュウビの日常3話16
光太たちは気づいていなかった。
その足元――都牟刈の落ちた場所に、いつの間にか黒い水たまりのようなものが広がっていた。
それは水ではない。
月光をも呑み込み、光さえ届かぬ深淵。
まるでこの世界の闇そのものを一か所に集めたかのように、濃く、重く、淀んでいた。
静寂の中、その闇がわずかに揺らめく。
トプ……トプ……と、何かが脈打つように波紋が広がる。
そして、ゆっくりと――そこから一本の黒い手が現れた。
細く、長く、まるで影そのものが形を取ったような手。
それはまるで獲物を選ぶかのように宙を探り、
やがて、落ちていた都牟刈の柄を掴んだ。
刹那、闇が波立つ。
トプン――。
次の瞬間、太刀も、手も、すべて闇の中へと沈み消えた。
ただ、夜風だけが何事もなかったかのように吹き抜けていった。
光太が自宅に着く頃には、すでに東の空が白んでいた。
あの後――権助や平次たちが駆けつけたところまでは覚えているが、それ以降の記憶は曖昧だった。
気づけば、もう自分の家の前に立っていた。
もしかすると、誰かが送ってくれたのかもしれない。
体も心も、底の方から疲れ切っていた。
ただ眠りたい――その一心だった。
けれど、ふと脳裏にある言葉がよぎった。
「空腹、寒い、死にたい――不幸はこの順番でやって来る」
母が言っていたのか、それともどこかで読んだ本の一節だったのか。
どちらにせよ、光太の胸に妙に響いた。
食欲なんてまるでなかった。
それでも、光太は冷蔵庫から焼いていない食パンを取り出し、
無理やり口へ押し込み、牛乳で流し込んだ。
まるで動物の餌のようだった。
――けれど、食べながら、心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
温かい料理を作ってくれていた母の姿を思い出す。
「食べる」という行為は、ただ空腹を満たすだけではない。
人の心をつなぎ留める、目に見えない糸のようなものだ。
パンを飲み込んだ後、光太はゆっくりと自室に向かった。
ベッドに倒れ込むと、瞬く間に深い眠りへと落ちていった。
外では朝の光が差し込み始めていたが、
光太の世界には、ようやく静かな夜が訪れていた。




