カフェキュウビの日常3話15
ミケは突然、頭を抱えた。
「う……うぅぅぅ……!」
苦悶の声を上げ、握っていた太刀を取り落とす。
刃が地面に当たって鈍く響いた。
椿は警戒を解かぬまま、わずかに距離を詰めた。
「どうした? 貴様……何を――」
「やめろぉ……誰だ……!」
ミケは苦しみに顔を歪め、頭を掻きむしる。
足元がふらつき、やがて蹴り上げた太刀がカランと音を立てて椿の方へ滑っていった。
椿は目を細め、慎重にそれを見下ろす。
「……これは?」
月光に照らされたその刀身は、禍々しく光を返していた。
刃文はまるで鋸の歯のように波打ち、見る者を切り裂く意志そのものを宿している。
そこから滲み出る妖気は、空気を粘つかせ、地を揺らすように重かった。
(……魅入られるな。)
椿は自らに言い聞かせ、視線を逸らした。
このまま見続ければ、己でさえ取り込まれる――そんな確信があった。
再びミケに目を向けると、まだ頭を抱えたまま、ふらふらとよろめいている。
「……よく分からぬが、好機じゃな。悪く思うなよ。」
椿は槍を構え、力を溜めた。
その刹那――
ひゅんっ。
風を裂く音。
椿の目が見開かれた。
太刀が宙に浮かび、まるで意思を持つかのように一直線に飛んでくる。
「――ッ!」
驚異的な反射で身を翻すも、肩口を深々と斬り裂かれた。
熱い痛みが走り、赤い血が着物を染めていく。
「くっ……油断したか。」
太刀は宙に留まり、ゆっくりとミケの前へ戻っていった。
まるで主に命令を下すように、鈍い光を放ちながら浮遊している。
“握れ。斬れ。”――そんな声が聞こえる気がした。
椿は深く息を吐いた。
「なるべく穏便に済ませたかったが……やむを得まい。」
彼女は首にかけていた首飾りを引きちぎった。
その瞬間、白い妖力が椿の身体から爆ぜるようにあふれ出た。
空気が震え、周囲の小石が弾け飛ぶ。
髪は逆立ち、口元から鋭い牙がのぞいた。
爪は獣のように伸び、瞳孔は縦に裂けて金色の光を放つ。
夜の闇が、狐の王を迎えるように沈黙する。
「椿の名によって命じる――」
彼女は槍を大きく構え、蒼白い妖気を纏わせた。
「いまこそ古の盟約により、我に力を与えよ――
天下三名槍がひとつ、蜻蛉切!」
槍が鳴いた。
まるで意志を持つかのように震え、空気を裂く。
風が逆巻き、地面に円を描くような圧力が走った。
白い狐火が周囲に灯る。
椿の身体がその炎に包まれ、光が夜を塗り替える。
「さあ、来るがよい――猫又。」
その声音には、威厳と悲しみが混ざっていた。
椿は猫又の命を奪う覚悟を決めていた。
もはや、これ以上この存在を放置しておくわけにはいかない。
決めたからには、せめて苦しまぬよう一撃で仕留める――それが彼女の流儀だった。
一度、静かに目を閉じる。
そして、開いたときにはもう迷いはなかった。
決意に満ちた瞳がまっすぐに猫又を射抜く。
椿は槍を振り上げ、月明かりの下で刃が閃いた。
「――待ってください!」
その声が夜気を裂いた。
光太が、猫又の前に立ちはだかっていた。
槍の穂先が彼の額のすぐ前で止まる。
ほんの一寸でも遅ければ、光太もろとも真っ二つだった。
「なっ……! 死ぬ気か!」
耳を打つ怒声。
椿が、心の底から怒鳴ったのを光太は初めて聞いた。
その声に全身が震え、耳鳴りのように余韻が残る。
胸の奥がひやりと凍るようだった。
恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもの椿がいた。
表情は厳しいが、先ほどの殺意の刃は消えている。
その瞳には、確かに温もりが宿っていた。
椿は黙って光太の言葉を待っている。
光太は猫又を振り返った。
「お前……ミケ、なんだろ?」
ミケは返事をしなかった。
ただ、怯えたように光太を見つめていた。
光太はそっと彼女を抱きしめる。
すると、ミケの身体から太刀が音もなく抜け落ちた。
かしゃり、と乾いた音を立てて地面に転がる。
「な、なんで……?」
ミケの瞳が大きく揺れ、そこから大粒の涙がぼろぼろ落ちた。
椿は困惑したように眉を寄せた。
「ミケ? どういうことじゃ……?」
光太はゆっくりと息を吸い、震える声で言った。
「わかりません……でも、夢を見たんです。」
「夢じゃと?」
「はい。――お婆さんと猫の夢です。
一緒に暮らしてて、幸せそうで……でも、お婆さん、死んじゃって……」
椿は静かに光太の話を聞いた。
風がやんで、夜の世界がふっと静まり返る。
「だから……悲しくて、寂しくて……どうしようもなくて。
――それで、ただ探してただけなんです。」
光太は泣き崩れそうな声で言った。
「ミケ……寂しかったんだよな。
婆さまがいなくなって、ずっと……悲しかったんだよな。
でも、死んだ人はもう戻らないんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、ミケの瞳が大きく見開かれた。
次の瞬間、声を上げて泣き出した。
その泣き声は、夜の闇を切り裂くほど悲しく――けれど、どこか優しかった。
光太の胸が締め付けられた。
まるで心に何本もの矢が突き刺さるような痛み。
それでも光太はミケを抱きしめ続けた。
ミケの心の中に、光太の想いが流れ込む。
婆さまとの記憶――優しい笑顔、温かな手のひら、あの日の雨音。
それらが光となって、彼女の胸を満たしていく。
「ミケ……お前のことは知らない。
でも、お前の気持ちは、なんとなくわかる気がするんだ。
なぜだか、わからないけど――。」
ミケはもう何も言わなかった。
泣き疲れたのか、静かに目を閉じ、そのまま光太の胸の中で眠りについた。
さっきまであれほど暴れていたのが嘘のように、穏やかな寝息を立てている。
空気から、あの禍々しい妖気が完全に消えていた。
残ったのは、春の夜風のような静けさだけだった。
椿はしばらく黙って二人を見つめていた。
そして、ふぅ、と息を吐いた。
「……まったく、肝の冷える真似をしおって。」
けれどその声には、怒りではなく――
わずかに、安堵が混じっていた。




