カフェキュウビの日常3話12
「おいおいおい……シャレになってねぇぞ」
権助は額に汗を浮かべながら、物陰からミケの一部始終を見ていた。今は付かず離れず相手からは気づかれないでいる距離を保っている。
本来なら仲間と共に見回っているはずだったが、尿意を催し、一時的に隊を離れたのだ。
その途中――怪しげな赤い着物を纏い、三味線を手にした女を見つけた。
「これはもしや……」そう直感し、咄嗟に身を潜めたのが、ことの始まりだった。
そして目撃したのは、猫又が太刀を取り込み、狂気じみた笑いをあげる光景。
権助の背筋に冷たいものが走った。
「やべぇやべぇ……こいつ、もう手遅れなんじゃねぇのか?」
声にならない呟きを押し殺し、権助は懐から護符を取り出す。
椿に連絡を入れようと、念じた。
「姉さんですか、実は――」
しかし、その瞬間。
護符は強烈な熱を帯び、ビリッと痺れるような痛みが権助の手を走り、連絡は途絶えた。
「ちっ……」
護符の表面は黒く焦げ、煙を上げている。
物陰に潜む権助は、歯ぎしりしながら事態の深刻さを悟った。
「……こりゃあ、本格的にヤバいぞ」
夜の空気はさらに重く、ざらついた。
権助は物陰からそっと顔を出し、相手を確かめた。
先ほどまでゆらりと歩いていたミケは、不意に動きを止めていた。
――気づかれたか?
心の中でそう呟く。
ゆっくりと振り向いたミケが、にたりと笑って首を傾げる。
「……なんだぁ、お前は?」
その目は、蛇に睨まれたカエルのように権助の体を縫いとめた。
護符はすでに焼け落ち、使い物にならない。
普通なら仲間の元へ走るべきだ――だが、足は鉛のように重く、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。
ミケは何かを考える仕草を見せ、やがて声を発した。
「……そうか! お前が婆さまを隠してるんだな」
思いもよらぬ因縁に、権助は口を開けたまま呆然とした。
だが次の瞬間、ようやく状況を理解し、我に返る。
「ちっ、ふざけんなよ!」
両手を組み合わせ、印を結ぶ。
「――狸牢獄の術!」
刹那、ミケの頭上に、巨大な青銅の鐘が現れた。
ゴーン……と低く響く音とともに、鐘は落ち、ミケをすっぽりと包み込む。
「へっ……こちとら妖怪よ! 術のひとつやふたつ、使えらぁ!」
鐘は鈍い緑色に光を放ち、威容を示す。
その大きさは乗用車一台ほど。
並の力で破れる代物ではない。
「よぉーし! やってやったぞ! どうでぇい!」
権助は大袈裟に両手を広げ、虚勢を張った。
だが胸の奥底には、不安が渦を巻いていた。
――本当に入ってるのか? いや、もう出てきちまうんじゃねぇのか?
浮かれた声の裏で、権助の喉はカラカラに乾いていた。
キン――。
金属がきしむような高い音が、夜の静寂を裂いた。
「……ん?」
権助は眉をひそめ、音のした方へ目を凝らした。
暗がりの中で、大鐘は不気味な静けさを保っている。
とりあえず、異常は――ない。
だが、胸の奥でなにかがざわついた。
(気のせい……か?)
権助は煙草を取り出し、震える指で火を点けた。
一口吸って息を吐くと、白い煙が鐘の表面をかすめて流れていく。
そのとき――微かに、光が走った。
「……?」
よく見ると、大鐘の表面に一本の線が浮かび上がっていた。
斜めに――まるで袈裟斬りを受けたように、鋭く走っている。
「あん? こんな線、さっきまであったか?」
キィ……と、鉄が歪む音がした。
ズズ……っと、線の上下がわずかに――一ミリほどずれた。
金属同士が擦れ合う、嫌な音。
空気がピリピリと震える。
「おいおい、やめろよ……」
次の瞬間、ズズズッ――。
今度は一センチ、いや、それ以上。
鐘はみしりと音を立てて傾き、裂け目から淡い光が滲み出した。
そして――。
ゴォォォン!!!
地面が震えた。
鈍く重い音が一帯に響き渡り、夜の静寂が粉々に砕ける。
鐘は自らの重みに耐えきれず、ゆっくりと滑り落ちていった。
土煙が舞い上がり、権助は反射的に腕で顔を覆った。
「な、なんだよ……まさか……」
その隙間の向こうで、光が脈打っていた。
鐘の内部から、まるで何かが――呼吸をしているように。




