カフェキュウビの日常1話3
光太の家は日本橋の浜町にある。
昔ながらの住宅やマンションが入り混じる、静かな下町の一角だ。
近くには浜町公園がある。
今の季節──四月、春の風に乗って、桜の花びらが舞い始めている頃だろう。
川沿いまで歩けば、墨田川が穏やかに流れている。
橋を渡れば江東区、川を上流へたどれば墨田区、両国や蔵前のあたりへ出る。
光太は、新大橋通りへと出る。新大橋通りは浜離宮のあたりから築地、八丁堀、茅場町、浜町を通り江東区へ続く道だ。
浜町から水天宮はさほど離れてはない、もうすぐ水天宮だ。
昨日の夕方、狐の神輿と遭遇したのは、まさにこのあたりだった。
その記憶がふとよみがえるたび、心の奥がふわふわした、なんとも言えない気持ちになる。
「ほんとに……夢じゃなかったのかもな」
だけど光太の足取りだけが、少しだけ現実から浮いているような感覚がある。
道を一本折れて、裏路地に入る。
ぬくもりのある石畳に、昨日の雨の名残がかすかに残っていた。
使えるのかどうか手動の井戸まである。
その奥に、看板のない一軒家がひっそりと建っていた。
古い木造の建物。
少し色あせた雨戸。
窓には、薄く白いカーテンがかかっている。
玄関の前で立ち止まると、なぜか心臓の鼓動が少し早くなった。
「……ここ、だよな」
チラシと住所は一致している。
でも、それ以上に、空気の密度が違った。
現実と非現実の境目に踏み込んでしまったような、妙な感覚。
光太は、扉にそっと手をかけた。
カラン……と小さな鈴の音が鳴る。
その瞬間、光太は「カフェキュウビ」の空気の中に、足を踏み入れた。
――15-3. 店内の描写と椿との再会
ドアを開けた瞬間、空気が変わった。
木と珈琲の香りが、ふんわりと鼻をくすぐる。
光太はゆっくりと一歩、足を踏み入れた。
床は年季の入った無垢の木で、足音が軽く響いた。
壁にはレトロな時計やアンティーク調のランプ、そして一面に並ぶジャズのレコード。
昭和時代のレトロな純喫茶。光太は昭和生まれではないがどこか懐かしさを感じた。
窓際にはボックス席が並ぶ。
光が差し込む先には、ステンドグラスがはめこまれていた。
それは九尾の狐を描いたもので、陽の光を受けて尾の部分が七色にゆれていた。
「……うわぁ……」
思わず声が漏れる。
カフェに入ったというより、“異界”に足を踏み入れた感覚。
けれど、不思議と怖さはなかった。むしろほっとする。
「来たか」
その声に、光太はびくりと肩を震わせた。
カウンターの奥、いつの間にかそこに立っていたのは、昨夜の女性。
銀髪を肩で揺らし、紫がかった和装風のブラウスに黒のロングスカート。
細長い煙管を指先でくるりと回している。
「……あ、あの、昨日の……」
「うむ。昨日会ったな」
女性はゆっくりとカウンターから出てくる。
その仕草も歩き方も、どこか雅で静かだ。
「ようこそ、カフェキュウビへ。妾がここの主──椿と申す」
「……椿さん」
「良う来てくれたな」
椿は小さく微笑むと、すっと椅子をすすめた。
「まあ、まずは座るがよい。おぬしの話も聞かねばならぬし、妾の話もいろいろとな」
光太は促されるまま、椅子に腰を下ろした。
まだ現実感はないが、店内のあたたかな空気が、不思議と緊張を和らげてくれる。
――15-4. 妖怪とコーヒーと、ゲイシャの香り
光太はカウンターの椅子に腰を下ろした。
目の前には磨かれた木目のカウンター、向かいには椿。
椿はカウンター越しに立ち、煙管をくるりと回して、薄く微笑む。
「改めて、妾のことは椿と呼んでくれ」
「はい……椿さん」
「薄々感じておるかもしれぬが……妾は、狐の妖怪じゃ」
「……妖怪?」
光太は思わず繰り返した。
妖怪──って、あの“妖怪”だよな。
漫画やアニメに出てくるやつ。化け狸とか、ろくろ首とか。
そんなもの、現実にいるわけ……
「妖怪なんて、いるわけない」
椿が言葉をかぶせてきた。
光太はハッとした。
もしかして、心を読まれた?
「……心が、読めるんですか?」
「ふふっ、さてどうじゃろうな。ただ、心なんて読まなくても、顔にそう書いてあったわ」
椿は少し嬉しそうに煙管をくゆらせた。
ゆらりと吐き出された煙が、くねくねと宙をさまよい、ふっと消えていく。
「昨日の、アレ……なんなんですか?」
光太はずっと気になっていたことを口にした。
「あれは『狐の嫁入り』という儀式じゃな。まあ、祭りのようなものと考えてくれ」
「狐の嫁入り……晴れてるのに雨が降るってやつですよね?」
「左様」
椿はうんうんと頷いた。
「昔はもっと大々的にやっておったが、今はああしてひっそりと行っておるのじゃ」
「ひっそり……ですか?」
「うむ、人が妖怪を信じれば信じるほど、妖怪の力も高まる。逆に信じる者が減れば、妖怪の力も弱まっていく。──妖怪とは、か弱き存在なのじゃよ」おいおいと泣く素振りをした。
椿の顔が少しだけ真面目になる。
「昔はのう、人と妖怪の距離はもっと近かった。『神隠し』を知っておるか?」
「はい、名前だけなら」
「突然、人が消えてしまうことを神隠しと呼ぶが、あれはな。山に迷った子供を、天狗が神通力で家までひとっ飛びに送った──その名残よ」
「天狗って……いるんですか?」
「おるぞ。愛宕山の太郎坊、鞍馬山の僧正坊、飯縄山の三郎坊などな」
「そんなに……」
光太はポカンとした顔になった。
「妖怪の話は、またゆるりと聞かせてやろう。──まあ、話を戻すとじゃ。昔はたくさんおった妖怪たちも、今では数を減らし、ひっそりと暮らしておる。妾もな、かつては大陸のほうで大暴れしておったが、今ではこうして下町で、コーヒーなんぞ淹れておるわけじゃ」
「……な、なるほど……」
光太が素直に信じてしまうので、椿はとうとう笑い出した。
「くっくっく……いや、すまぬ。馬鹿にしておるわけではない。嬉しくての」
椿は袖から白いハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「嘘……なんですか?」
「嘘ではないよ。ほんとうの話じゃ」
椿はまだくすくす笑いながらも、やわらかく言った。
「今どき、こんな与太話を信じる者が珍しくてな」
椿は一拍おいてから、ふと思い出したように言った。
「ああ、すまん。何も出しておらなんだな。──コーヒーでよいか?」
「え? あ、はい。お願いします」
一瞬遠慮しようとしたが、光太はうなずいた。
こういうときは、素直に好意を受け取るものだと、どこかで聞いたことがある。光太だって自分がなにか差し出したら受け取ってもらったほうが嬉しい。
椿はくるりと後ろを向き、棚のほうへ歩いていく。
背筋はすっと伸びていて、動きに無駄がない。
ガラスの瓶が並んだ棚。そのひとつひとつに、手書きのラベルが貼られている。
「ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ……」
光太が知っている名前もあるが、聞いたことのない豆もあった。
「そうじゃな。せっかくだから、これにするかの」
椿が手に取った瓶のラベルには、こう書かれていた。
──ゲイシャ。
「……ゲイシャって、芸者のこと……じゃないよな?」
心の中で呟いたが、もう驚かないように気をつけた。
椿は豆を少し手に取り、石臼のような手挽きミルでゆっくりと挽き始めた。
ガリガリ……ガリガリ……。
その音とともに、ふわりと香ばしい香りが漂いはじめる。
「ゲイシャはの、パナマという国で作られておる豆じゃ。なかなか高級な豆でな、華やかで繊細な香りが持ち味じゃよ、紅茶のような風味でコーヒー好きでも驚く」
「へえ……」
椿はその豆をネルフィルターに丁寧に入れ、沸騰寸前の湯を少しずつ、細く細く注いでいく。
お湯が豆に染み込み、蒸気とともに、ふくよかな香りがふわっと店内に広がる。
その動作はゆったりとしていて、見ているだけで時間の流れが変わるようだった。
やがて、一杯のコーヒーが光太の前に置かれる。
「はい、どうぞ。──カフェキュウビ、初めての一杯じゃ」
カップは小ぶりで、どこか西洋風。けれど、模様には和の趣がある。
光太はそっと手を伸ばした。
指先に感じる温もりと、鼻先に届く香り。
不思議と、心が落ち着いていくような気がした。
一体いくらくらいするのだろう、などど考えながら恐る恐る口をつけた。
光太はそっとカップを持ち上げた。
指先に伝わる陶器のあたたかさ。
鼻を近づけると、なんともいえない香りが広がる。
果物の皮をむいたときのような、爽やかで明るい香り。
それがふわりと、鼻の奥に届く。
おそるおそる、ひと口。
──ほんのりと甘い。けれど、砂糖のような甘さじゃない。
「……あ、これ……」
声にならない驚きが口から漏れた。
苦いかと思っていたのに、ちっとも苦くない。
どこか紅茶にも似た優しさがあり、舌の奥でほんのりと酸味が跳ねた。
「なんだろ……これ、コーヒーなのに、軽い……けど深い……」
飲み込んだあと、口の中に残る余韻がまた面白い。
香りが鼻に抜けて、まるで何か花の蜜でも吸ったような感覚が残る。
「……おいしい」
素直に、そう呟いていた。
椿は煙管を片手に、にこりと笑った。
「ふふ、気に入ったようじゃな。そちは、感覚が素直でよい」
「これ、ほんとにコーヒーなんですか?」
「うむ。だが、コーヒーにもいろいろある。苦くて濃いだけがコーヒーではないのじゃよ」
光太はもう一口、今度はゆっくりと口に含む。
甘さ、香り、酸味、あたたかさ。
それが不思議に、今の自分の気持ちとよく馴染んでいた。
さっきまで、よく知らない場所で緊張していたはずなのに。
いつのまにか、少しだけ心がほぐれていた。
――15-5. 身の上話と採用の返事
ゲイシャの香りがゆっくりと鼻に抜け、光太の緊張は少しずつほどけていった。
椿は煙管を手に、カウンターの向こうで静かに微笑んでいる。
光太は、ふとカップを置いた。
「……なんか、すごいですね。これ」
「気に入ったかのう?」
「はい。今まで飲んだコーヒーと全然ちがう……なんかこう、しみるっていうか……」
「ふむ、味にはその人の心がよう出るものでな。今日は“しみる日”じゃったか」
椿はどこか嬉しそうに、煙をひとくゆらせた。
その言葉に背中を押されたように、光太はぽつりぽつりと語り始めた。
学校のこと。
なんとなく馴染めなかった教室の空気。
ゲームとネットに逃げていた日々。
スマホを止められて、バイトでもするかと家を出たこと。
不登校になった理由を、誰かにきちんと話すのは初めてだった。
椿は途中で口を挟むこともなく、ただ静かにうなずきながら聞いていた。
ときどき、「うんうん」「なるほどの」と相槌を打つ。決して光太の話の邪魔をしない絶妙なタイミングで。
目を閉じて、深く呼吸をするように話を受け止める姿に、不思議と心が落ち着いた。
気づけば、時計の針はここに来たときよりもだいぶ進んでいた。
店に入ってから、もう40分以上が経っている。
バイトの面接にしては、あまりにも長い。
光太はそわそわしながら、椿の方を見た。
「……あの、面接って、こんな感じでいいんですか?」
椿は目を開け、ひとつうなずいた。
「よいと思うぞ。妾はだいたい話してみて、肌で決めるからの」
「じゃあ……」
「では、明日から働くということでよいかな?」
光太は一瞬、ぽかんとして聞き返した。
「……え、採用ってことですか?」
椿はくすりと笑った。
「もちろんじゃ」
「なんか……早いですね」
「そち、器用ではないが、素直じゃ。それがいちばん大事じゃて」
そう言うと、椿は棚の奥からエプロンを一枚取り出し、くるりとたたんでカウンターに置いた。
「明日は朝の八時に来るがよい。まずは掃除と皿洗いからじゃな」
「……はい!」
返事が少し大きくなったのは、自分でも意外だった。
だが不思議と、声の出し方を思い出したような気がした。
こうして、橘光太のカフェキュウビでのバイト生活が、静かに始まったのだった。
翌朝、午前七時五十分。
約束の時間より十分早く、光太はカフェキュウビの前に姿を現した。
少し緊張した面持ちで戸を開けると、カウンターの奥から椿が顔を出す。
「おはよう。よく来たな。──とりあえず、奥に着替えを用意してあるから、それに着替えてくれ。脱いだものは籠に入れておけ」
「はい」
カウンター奥の障子を開けて案内されたのは、こぢんまりとした和室だった。
畳の部屋の中央には丸いちゃぶ台が置かれ、奥には昭和の香りが漂うブラウン管テレビと、真空管ラジオ。
そのさらに奥には、二階へと続く急な階段が見える。
竹で編まれた籠が、部屋の隅にぽつんと置かれていた。
──ここに脱いだ服を入れるのだろう。
用意された茶色いエプロンには、どこかゆるいタッチの可愛らしい狐のイラストがプリントされていた。
光太は上着を脱ぎ、Tシャツの上からエプロンをかけた。
「妾は仕込みをするので、まずは店先の掃き掃除をしてくれるかの」
椿の声に促され、光太は外に出て箒を手にする。
まだ朝の冷たい空気が残る道端には、小さな落ち葉やホコリがたまっていた。
ザッ、ザッ……と掃き始めると、足元にいた雀たちが迷惑そうに飛び立っていった。
「ごめん……邪魔したな」
掃除を終えたころ、初老の男性が声をかけてきた。
「おや、新人さんかい?」
「はい。今日からここで働くことになりました」
「そうかい、そうかい。頑張りなよ」
ニコッと笑って、男性はそのままカフェへ入っていった。
光太もあとを追って店に戻ると、椿がその男性と世間話をしていた。
どうやら常連客らしい。
その後もぽつりぽつりと客が訪れた。
若い女性、サラリーマン風の中年男性、手をつないだ老夫婦。
誰もが当たり前のように店へ入り、椿と挨拶を交わす。
注文の言葉は少ない。
ある者は何も言わずに座り、ある者はただ「いつもの」と一言だけ。
それだけで、椿は迷いなくコーヒーや軽食を用意していた。
光太はその横で、指示された料理や飲み物を運ぶ。
最初はぎこちなかったが、徐々に手つきも慣れていった。
ランチタイムが終わる頃、ようやく客足が落ち着いた。
「初日から大変じゃったな。──昼休憩じゃ」
椿が声をかける。
「奥にナポリタンがあるから、食べてくれ」
「ありがとうございます……!」
靴を脱いで、居間に上がる。
ちゃぶ台の上には、すでにコーヒーとミニサラダ、そして湯気を立てるナポリタンが置かれていた。
赤く艶やかなソースの匂いが、たまらなく食欲をそそる。
具はピーマン、玉ねぎ、ウインナー。
太めのパスタに絡んだケチャップが、懐かしい匂いを放っていた。
フォークを手に取り、ひと口──
「……うまっ」
ほんのり甘くて、酸味のあるケチャップが麺によく絡む。
具の歯ごたえもちょうどいい。特にウィンナーは皮がパリッとしていて、ひと噛みするとなかから肉汁が口の中いっぱいに広がる。
どこか昔のお弁当に入っていたような、だけど今ここにしかない味。
光太は思わず笑ってしまった。
「いただきます」
手を合わせて、ナポリタンを夢中で食べ進めた。
食事を終えたころ、椿がふらりと部屋に入ってきた。
右手には自分用のコーヒー、左手には長く細い煙草。
椿はちゃぶ台の向かいに腰を下ろすと、湯気の立つカップに口をつけ、ふうっと煙を吐いた。
「……椿さん、何も食べないんですか?」
そう尋ねると、椿はくすっと笑って答えた。
「妾はの、仕込みの合間に、味見と称してつまみ食いをしておる。──腹は、あまり減らんのじゃよ」
「なるほど……」
そういうものなのかもしれない。母も料理を作っているとそれだけでお腹いっぱいになることがあるという。
その横顔は、どこか満ち足りていて。
光太はなんだか少しだけ、この場所に居心地の良さを感じた。