カフェキュウビの日常3話10
光太は夢を見ていた。
和室の畳の上、老婆が膝に猫を抱き、深いシワが刻まれた手で背中をゆっくりと撫でている。
「ミケや」
老婆が声をかけると、小さく返事をした。気持ちよさそうに目を細めている。
部屋にはただ穏やかで優しい時間が流れていた。
次の瞬間、場面は変わった。
大人たちが小声でひそひそと話している。
「婆さん、ダメかもしんねぇな」
「あら、じゃあミケはどうなるんだい?」
「どうもこうも、身内もみつからねえらしいし」
「そうかい、可哀想にねぇ……」
主のいない家で、猫だけが帰りを待っていた。
光太はそこで目を覚ました。
なんだか悲しい気持ちが胸を占めていた。心にぽっかりと穴が空いたようで、満たされないもどかしさが残る。
気分を変えたくて窓を開け、夜の外気を吸い込む。
「なんだ今のは……」
見たこともない部屋、会ったことのない老婆と猫。だが、夢とは思えないほどの現実感があった。まるで誰か他人の記憶に入り込んでしまったかのような感覚――。
自分が自分ではないような、フワフワとした違和感。経験したことのない種類の夢だった。
翌日
カフェ・キュウビに出勤すると、椿から呼ばれ、カウンターに腰をおろした。隣にはキヌがすでに座っている。テーブルの上には墨で何かが書かれた紙が二枚、きちんと置かれていた。字は達筆すぎて光太には読み取れない。
「護符じゃ。二人とも肌身離さず持っておくのじゃ。今夜やる」
椿の声はいつもの軽やかさとは違い、静かな緊張を帯びていた。光太とキヌはその雰囲気に飲まれる。
「やるって、何をですか?」光太は訊ねた。胸の奥に覚えがあることを確かめたかったのだ。
「例の猫又を捕らえる」椿の返事は短く、重かった。
「捕らえて、どうするんですか?」光太が続けると、椿の瞳に冗談は微塵も宿っていなかった。キヌは不安げに光太の服の裾をぎゅっと掴む。
椿は二枚の紙を指し示した。「その護符は、相手の顔を念じれば通信ができる。何かあったらこれで知らせよ。今夜十時から作戦開始。二人とも外を出歩くでないぞ」
三人の間に静かな決意が降りた。夜が深まるにつれ、何か大きなことが動き出そうとしていた。
光太は椿の言いつけどおり、自室でじっとしていた──はずだった。だが、胸の奥はざわつき、言いようのない不安が拭えない。あの夢の断片が、頭の隅でざわめいている。今回の猫又の件と無関係なはずがない、という思いがしつこくまとわりついた。
窓の隙間から、暖かく生ぬるい風が忍び込んできた。湿った空気は肌にまとわりつき、まるで見えない手で締め付けられるように不快だった。光太は気を紛らわせようと漫画を開いたが、ページの文字は泳ぎ、コマ割りが意味を失う。集中は遠く、耳の奥に何かが囁くように感じられた。
「光太、光太…」
誰かに呼ばれているような声。幻聴かもしれない。だが声は確かに届き、次第に輪郭を帯びてくる。眠ろうとして毛布を頭から被ってみるが、厚い布の中でも声は止まらない。目を閉じると、逆に敏感になる。その声が近づき、囁きは大きく、鮮やかに聞こえた。まぶたの裏に映るものが現実の輪郭を侵し、現実と想像の境が溶けてゆく感覚。自分が自分でなくなっていくような、頼りない恐怖が胸いっぱいに広がった。
じっとしていることが耐えられなくなり、光太は立ち上がった。知らぬ間にドアを開け、寒気の混じった夜の帳へと足を踏み出していた。外へ出れば何かが変わるのではないか、あるいは確かめられるのではないか——その思いに駆られて、光太は家を出た。
けれど、行くあてはなかった。自分は一体何をしようとしているのか――その思いばかりが頭を占めていた。
歩き慣れたはずの道が、今夜はまるで見知らぬ土地のように映る。街灯は妙に冷たく、舗道の影は濃く深い。足は前へ進んでいるはずなのに、どこか遠ざかっていくような感覚だけが残った。
どれくらい歩いたのか分からない。五分にも思えるし、一時間にも思える。同じ角を何度も曲がり、同じ道を何度も歩いているような気がした。
心の奥底で「戻れ」と叫ぶ声がする。だが、体は言うことをきかない。糸の切れた凧のように、もう自分では進む方向を制御できなかった。
なぜ、見ず知らずのものにこれほどまで心を惹かれるのか――。答えの出ない問いが胸の奥でぐるぐると渦を巻く。
夜の静寂の中、響いているのは光太の足音だけだった。
一方そのころ、椿たちは三手に分かれて町を見回っていた。
カフェキュウビを拠点に、椿のチーム、権助のチーム、平次のチーム――それぞれ二〜三名の妖怪が人間に化け、買い物横丁から水天宮周辺まで網を張るように配置されている。各チームの手には、椿が用意した護符。相手の顔を念じれば、声を伝えることができる特別な通信手段だ。
夜の町は雨に濡れ、街灯の光がアスファルトに反射していた。静けさの中で、時折、遠くの車の音や、川辺の風が吹き抜ける音が響く。
「しかし、猫又一匹に随分と大袈裟じゃないですか、姉さん」
隣を歩くカッパの妖怪が小声でつぶやいた。もちろん、人間の姿に化けている。まるでどこにでもいる会社員のような格好だ。
椿は煙管を軽く叩き、静かに答える。
「油断するな。妖怪の強さというのは、種族や見た目で決まるものではない。思いの強さ、念とでもいうべきか……その執念こそが力を生むのじゃ。死にたくなければ、侮らぬことじゃな」
その声音には、普段の椿の柔らかさはなく、冷たい鋭さが宿っていた。
カッパの妖怪は思わず息を呑む。
夜の空気が張り詰めるなか、三つのチームは、それぞれの持ち場へと散っていった。
一方そのころ、椿たちは三手に分かれて町を見回っていた。
カフェキュウビを拠点に、椿のチーム、権助のチーム、平次のチーム――それぞれ二〜三名の妖怪が人間に化け配置されている。各チームには、椿が用意した護符。相手を念じれば、声を伝えることができる特別な通信手段だ。
夜の町は雨に濡れ、街灯の光がアスファルトに反射していた。静けさの中で、時折、遠くの車の音や、川辺の風が吹き抜ける音が響く。
「しかし、猫又一匹に随分と大袈裟じゃないですか、姉さん」
隣を歩くカッパの妖怪が小声でつぶやいた。もちろん、人間の姿に化けている。
椿は煙管を軽く叩き、静かに答える。
「油断するな。妖怪の強さというのは、種族や見た目で決まるものではない。思いの強さ、念とでもいうべきか……その執念こそが力を生むのじゃ。死にたくなければ、侮らぬことじゃな」
その声音には、普段の椿の柔らかさはなく、冷たい鋭さが宿っていた。
カッパの妖怪は思わず息を呑む。
夜の空気が張り詰めるなか、三つのチームは、それぞれの持ち場へと散っていった。




