カフェキュウビの日常3話9
生まれたばかりの私は、非力で、目もまだはっきり見えず、ただ助けを求めて鳴くことしかできなかった。世界は冷たくて粗い布に包まれているようで、空気は私の小さな体をすり抜けていくばかりだった。耳に届くのは遠くで滴る水の音と、ときおり近づいては離れる足音──それと、どこか遠い人の声が濁って重く響くだけだった。
雨が降っていた。細かく鋭い雨粒が、無情にも私の体温を奪っていく。濡れた産毛が皮膚に張り付き、寒さが骨の芯まで染み込むように広がる。腹が鳴る。小さな腹の中で何かがひもじく鳴り、声が出るたびに喉がつぶれていくのが分かった。泣くこと以外に選択肢はなかった。泣けば誰かが来てくれるかもしれないと、幼い本能がそう囁いたからだ。
もうどれくらいたったのだろうか。泣いても足音は近づかない。灯りも来ない。雨だけが延々と続き、私の心は薄い鉛色に閉ざされていた。鳴き声は次第に弱く、呼吸も浅くなっていった。冷たさは重なり、瞼は鉛を貼り付けられたように重くなる。暗闇は音も色も奪い去り、世界は狭く、やがて小さく折り畳まれていった。
もしあの時、空腹のカラスや野良犬に見つかっていたら――そう思うと、体が震えた。外の世界は優しくない。小さな体を囲むのは、無関心と危険だけだ。私には誰も守ってくれないのだと、あきらめに近い思いが胸に忍び寄る。まだ何も知らないはずの私の頭の中で、「もう終わりなのかもしれない」と、淡い諦めが芽を出してしまった。
それでも鳴く。声が枯れても、喉が裂けそうでも、私は鳴き続けた。鳴くことは最後まで私に残された行為であり、希望の糸だった。目を閉じたまま、塗れた土の匂い、鉄のように冷たい空気、遠くでクリンクリンと転がるような何かの響き──そういう断片だけがあって、それらを頼りに世界の輪郭を掴もうとした。
眠気が優勢になり、体はますます力を失っていく。こんなに早く終わるはずのない小さな命が、だんだんと薄れていくのがわかった。喜びも悲しみもなにも知らないまま、私は世界から零れ落ちる。目の端で何かがぼやけ、冷たさの影が濃くなっていった。そのとき、ふいに、暖かい感触が私を包み込んだ。
「おやおや、かわいそうに」
耳に届いたのは、私だけに向けられた特別な言葉だった。少ししゃがれた声。それでも、不思議と胸の奥まで染み込んでくるような、優しい響き。冷え切っていた体に、灯をともすように温もりが広がっていく。それは、私のためだけに用意された世界でひとつの言葉だった。
硬かった世界の輪郭が、ふっと和らいだ。小さな胸に伝わる鼓動が、まるで別の存在の鼓動と重なった。誰かの手が、柔らかく、懸命に私を抱き上げたのだ。手の温もり、布の匂い、人の息遣い──それはあまりにも強い現実で、私の怯えた体はぎゅっと縮こまったまま、知らず知らず目を閉じた。
その後のことはぼんやりとしている。気がつけば明かりがあり、声があり、見知らぬ匂いと柔らかな場所があった。暖かさは続き、傷ついた体はゆっくりと癒えていった。私はやがて自分で歩き、餌を捕ることを覚え、買い物横丁の路地を散歩するようになった。けれど、あの冷たい雨の夜と、抱き上げてくれた暖かい手の匂いは、いつまでも消えずに私の中に残っている。
ある日、通りを歩いていると、ふとその匂いが風に乗って鼻をくすぐった。私は踵を返し、匂いの方へ、ただひたすらに向かっていった。追えば追うほど、胸の奥がざわつき、何かが目を覚ますようだった。
私は夢中で匂いを追った。
角を曲がった先に、ひとりの老婆の姿があった。間違いない――あのとき、私を抱き上げてくれた手の主だ。
姿や声をはっきり覚えてはいなかった。それでも、この匂いだけは忘れるはずがない。胸の奥から懐かしさが溢れ、気づけば涙が頬を伝っていた。
老婆はタバコ屋を営んでいた。私は迷わず近づき、そのまま店に上がり込んだ。やがて彼女を「婆さま」と呼ぶようになった。どうやらひとりで店を切り盛りしているらしい。タバコを売りながら、細々と暮らしていた。
婆さまは、私のことを覚えていないようだった。けれど、そんなことはどうでもよかった。こうして一緒にいられるだけで幸せだった。私は店の手伝いをし、ときには買い物にも付き添った。
婆さまはきれい好きで、よく私を洗おうとするのが少し苦手だった。だが、それも日常の一部だった。雨宿りしていた子どもを中に入れて菓子を振る舞った日もあったし、子どもが私を追い回して押し入れに逃げ込んだこともある。
一度だけ、婆さまの息子と名乗る男が現れた。働きもせず、金をせびりに来ただけのろくでもない男だった。どうしてこんなに人の良い婆さまから、あんな子が生まれるのか――世の中は不思議だとそのとき思った。
そうして、月日が流れた。
幸せな日々だったが、やがて婆さまは体調を崩すことが増えていった。




