カフェキュウビの日常3話6
キヌは光太に連れられて、甘酒横丁を歩いていた。
「人形焼、ほうじ茶ソフトに、たい焼き、アイス最中、すき焼きコロッケそれから黄金芋……」
キヌは指折り数えながら、何を食べようかと真剣に悩んでいる。
「卵焼きもあるよ」
光太が何気なく言うと、キヌはハッと顔を上げた。
「あそこの卵焼きと焼き鳥は、たしかに捨てがたい……」
そんなキヌを横目に、光太はふと違和感を覚えた。
通りの向こうに奇妙な姿が見えたのだ。
和服の上から頭巾を被り、顔はよく見えない。
だが手には三味線。赤い着物には毬の模様。
そして――悲しげな声で、ぶつぶつと歌を繰り返していた。
「ばあ様はどこじゃ……ばあ様はどこじゃ……」
三味線の音色に合わせ、か細く響くその声。
最初は聞き間違いかと思ったが、耳を澄ますほどに確かにそう歌っていた。
光太は反射的にキヌを見た。だが彼女は相変わらず、食べ物の候補をぶつぶつと唱えているだけだ。
もう一度周囲を見回すと――おかしい。
さっきまで人で賑わっていた甘酒横丁から、いつの間にか人影が消えていた。
「……え?」
まばたきをして、再び辺りを見渡す。
すると、何事もなかったかのように、再び人の往来が戻っていた。
「どうしたの? ボーッとして」
いつの間にかキヌが光太の袖を引いていた。
それで我に返ったが、体の芯にはまだ妙なざわつきが残っている。
まるで一瞬だけ、別の世界に引きずり込まれたような感覚だった。
じっとりとした嫌な汗が背中を流れる。
早くシャワーでも浴びたい――そんな思いすら湧いた。
「そうだ。門前仲町の方に、美味しいカツ丼を出す店があるんだ。そこへ行こう」
光太は、どこか強引にキヌの手を引いた。
「えっ、まぁ……カツ丼も好きだけど……ちょっ」
抵抗するキヌを構わず、光太は足早に歩き出す。
ここに一秒でも長くいたくない。直感がそう告げていた。
甘酒横丁を抜け、水天宮を通り過ぎ、橋を渡り、江東区へ。
逃げるように歩き続け、ようやく光太の足が止まったのは富岡八幡宮の前だった。
「……あ、カツ丼屋、通り過ぎてた」
光太がポツリと言うと、キヌは呆れたようにため息をついた。
光太とキヌは気を取り直し、深川の公園の隣にあるカツ丼屋に腰を落ち着けた。
注文を済ませ、料理が届くまでのあいだ、光太は先ほど甘酒横丁で見た出来事をキヌに話した。
一通り語り終えたとき、ひどく喉が渇いていることに気づき、コップの水を一気に飲み干した。
「ずいぶん喉が渇いてたのね」
キヌが感心したように言う。
光太は、乾きを感じる余裕もなかったことに驚き、ようやく少し落ち着いてきたと気づいた。
「まぁ、そんなこともありえるとしか言えないわね」
キヌは肩をすくめ、大して驚いた様子もない。
「驚かないの?」
光太が問うと、キヌは首をかしげた。
「そうねぇ。実際に見たらもっと驚くかもしれないけど、見てないし。それに、見たとしても人間の光太ほどは驚かないかも」
「そうか……」
光太は少し沈んだ声を漏らした。
同じくらいの歳の女の子に比べて自分の方が怯えてしまったことが、急に恥ずかしく思えた。
そのせいか、さっきの気味の悪い光景も、少しだけ色褪せて感じられる。
「でもね、本当に“やばい”のもいるから、気をつけてね」
「脅かすなよ」
「脅しじゃないわよ。本当にやばいのはやばいんだから」
光太は黙って耳を傾ける。
キヌは真顔になり、淡々と続けた。
「例えばね、平次なんかはスリをする悪党だけど、命までは取らない。けど……怨霊とか呪いとか、“悪意そのもの”ってやつは別。ああいうのは本当に危険なのよ」
「……後で椿さんに相談しよう」
「それがいいわね」
そう言った瞬間、キヌの顔が青ざめた。
「ど、どうしたの?」
「とっくに30分過ぎてる」
「……店に戻ったら怒られるな」
二人は顔を見合わせ、思わず苦笑した。




