カフェキュウビの日常1話2
翌朝。空は晴れている。
四月とはいえ、まだ朝は肌寒い日もある。
光太はスウェットの裾をつかんで、体を小さく震わせた。
寝起きのまま、気だるさを引きずって階段を降りる。
朝ごはんを求めてキッチンへ向かうが、誰の姿もない。
どうやら母親は、すでに仕事へ出かけたようだった。
冷蔵庫を開けると、昨夜のカレーが冷凍用のタッパーに移して残っていた。
コチコチのカレーをレンジで温め、炊飯器の残りご飯にかける。
味に変化をつけるため、ウスターソースを少しだけ垂らした。
──ウスターソースには、さまざまなスパイスが入っている。
それがカレーと絶妙に合う。
香りにコクが増して、味に深みが出るのだ。
光太は、たまにこうして“味変”しながらカレーを楽しむ。
食後、なんとなく窓を開けてみた。
ひんやりとした空気が流れ込み、ちゅんちゅんと雀の鳴き声が微かに聞こえる。
雀たちがぶわっと一斉に飛び立つ。猫にでも遭遇したのかもしれない。
あたりは急に無音になる。
玄関の方からカタっと物音が聞こえた気がした。
光太は玄関の鍵を開け、そろりとドアを少しだけ開ける。
何事もなさそうなので少しほっとした。
しかし、足元に何かが落ちているのに気づいた。
クラフト紙のチラシ。
ポストからこぼれたのか、それとも風で落ちたのか──
拾い上げてみると、少し風変わりなフォントで印刷されていて、チラシからは微かに香木のような香りがした。
──カフェスタッフ募集──
【店名】カフェキュウビ
【勤務地】中央区蛎殻町・水天宮裏
【勤務内容】調理補助・配膳・清掃など
【条件】年齢・経験不問。
“見える方”歓迎。
好奇心と胃袋の丈夫さがある方、なお良し。
【連絡先】03-××××-××××
「……?」
光太は眉をひそめた。
“見える方歓迎”という一文が、妙に引っかかる。
昨日、偶然迷い込んだ住宅街で見た狐の行列が、ふと頭をよぎった。
いやいや、まさか。
そんな都合のいい話があるわけが──
と思いつつ、目は自然とチラシの住所へと吸い寄せられていた。
蛎殻町・水天宮裏。
……昨夜、あの神輿を見た場所の、すぐ近くだ。
光太はチラシを持ったまま、しばらく玄関に立ち尽くしていた。
雨上がりの朝。
どこからともなく、昨日のあの笛や鈴の音が、ふわりと聞こえてくるような気がした。
第二章:再会とカフェキュウビ
――14. 固定電話での連絡(修正版)
光太は、チラシを手に自室へ戻った。
スマホは、やはり圏外のままだったのでベッドに放り投げた。
「……しゃーないか」
しぶしぶ階段を降り、リビングの隅に置かれた家の電話機に目をやる。
灰色の、昔ながらのプッシュ式固定電話。液晶表示もある、ごく普通のタイプだ。
最近は、母がたまに病院や宅配の連絡に使うくらいで、光太自身が触るのは何年ぶりだろう。
ボタンを押すたびに、懐かしい気分になる。
チラシを見ながら、ゆっくりと番号を押す。
Trrrrrrr......Trrrrrrr......と呼び出し音が数回鳴ったあと、落ち着いた女性の声が応答した。
「はい、カフェキュウビです」
少し低めの、澄んだ声だった。
どこか聞き覚えがあったが、それが誰なのかすぐには思い出せなかった。
「あ、あの……バイト募集のチラシを見て、電話しました」
自分でも驚くほどぎこちない声だった。
「はい、ありがとうございます。お名前、うかがってもよろしいですか?」
「橘です。橘光太です」
「橘光太さん、ですね。ご希望の面接日時などございますか?」
「えっと……今日とかでも、いいですか?」
少し間をおいた後、
「ふふ……行動が早いのう。よい心がけじゃ」
その一言で、記憶がつながった。
口調が、ほんの少しだけ変わった。どこか古風な響き。
「……もしかして、あの……」
「うむ。昨日は失礼したな」
「やっぱり……夢じゃなかったんだ」
「夢と現は、紙一重。とくに“逢魔が時”にはのう」
「……」
「どうした?聞いておるのか?では、ひとまず一時間後、来られるかの?」
「あ、はい。大丈夫です」慌てて返事をした。受話器の向こうで微かにくすりと、笑ったような気がした。
「うむ。待っておるぞ」
通話が終わり、光太はしばらく受話器を見つめていた。
まさかあの“狐の神輿”の女性と、こんなふうに再会するとは思ってもいなかった。
「……行くか」
軽く寝癖を直して、黒のパーカーにベージュのパンツをはく。
鏡の前で一度深呼吸してから、光太は玄関の扉を開けた。
太陽の光が街を照らしている。
春の静かで暖かい空気だった。
「……よし」
光太は玄関でひとつ小さく息を吐いた。
パーカーのフードを軽く直し、スニーカーの紐を締め直す。
面接、といっても特別な準備をしたわけではない。
制服か私服かと迷ったが、結局いつも通りの格好にした。
肩にかかった緊張感を振り払うように、軽く首をまわす。
昨日の雨はすっかり上がって、空気はしっとりと柔らかい。
ポケットに入れたチラシをもう一度取り出し、店名と住所を確認する。
──「カフェキュウビ」中央区蛎殻町・水天宮裏。手書き風な可愛らしい地図も書いてある。
見慣れたはずの地名が、今は少し異世界めいて感じられる。
光太は玄関のドアを開けた。
湿ったアスファルトの向こう、昨日見た狐の神輿が歩いていた路地のことを思い出す。
本当にあれは現実だったのか。狐につままれるとはこのことだろうか。
チラシがなければ、やっぱり夢だったと思い込んでいたかもしれない。
でも、電話口のあの声。
そして今、自分の足が勝手にそっちへ向かっている。
「……ま、行くだけ行ってみるか」
ひとりごとのように呟いて、光太は歩き出した。少しわくわくとした気持ちと、どうなってしまうのかという不安を抱えて。
春の風が、昨日と同じ道を静かになぞっていた。