カフェキュウビの日常2話9
翌日。
あのあと水天宮からの帰り道でキヌと別れた。
最後まで大きな感情を見せることもなく、彼女は思ったより平然としていたように見えた。光太には、それが強がりなのか、本当に気にしていないのか、判断がつかなかった。
自宅に戻ると、昨日の騒ぎが夢の中の出来事のように感じられた。
ただ、少し歩き回ったせいで体のあちこちが重く、鈍く痛む。運動不足なのかもしれない、と自嘲気味に思う。
母親はもう仕事に出ていた。
光太はトースターに食パンを差し込み、やかんに水を入れて火にかける。
そのトースターは、機能的というよりはデザイン重視の品らしく、光太には正直どうでもいい代物だった。パンが焼ければそれでいい。
母親は「かわいいでしょ」と言っていた。だが、光太にはその感覚がよく分からなかった。
丸みを帯びたフォルムに、淡い水色――母親は“カリビアンブルー”と言っていた。水色は水色だろう、と光太は思う。形がどうであれ、結局は食パンを焼くための箱にすぎない。
――そもそも、色に「かわいい」とか「かわいくない」とか、そんな基準があるのだろうか。
だが光太は知っていた。
女が「かわいい」と言ったときは、否定してはいけない。
「なんで?」と疑問を返してもいけない。
ただ「かわいいね」と合わせておけばいいのだ。
パンが焼ける匂いが漂う。
戸棚からマグカップを取り出し、ティースプーンで二杯、インスタントコーヒーをいれる。お湯を注ぐと、立ちのぼる香りはどこか頼りない。カフェキュウビの濃く豊かな香りのコーヒーに慣れてしまったせいか、物足りなさを覚える。
ふと見るとカップの取っ手には細いヒビが入っていた。最初は汚れかと思い、爪で引っかいてみたが消えない。やはりヒビだ。このまま使い続ければ、ある日ポロリと取れてしまうかもしれない。
――むしろ、そうなったほうが気楽に買い替えられる。
まだ使えるものを捨てるには、それなりの理由が必要だ。
必要だと思って買ったのに家にあるものの大半は、いざなくなっても困らない気がする。中には、なくなったことにすら気づかないものもあるだろう。
そんなことを半分寝ぼけた頭で考えていると、パンが焼ける音がした。
マーガリンを塗り、かじる。カリッとした音が小さく部屋に響く。咀嚼して、コーヒーをひと口。ぬるい香りと共に喉を流れていった。
食べ終えると、光太は身支度を整え、カフェキュウビへと向かった。
店に着くと、キヌはカウンター席で両手にカップを包み、ちまちまとコーヒーを啜っていた。
「光太もこっちに来い」椿が手招きする。
「仕事はいいんですか?」光太が尋ねると、椿はふっと笑った。
「今日は珍しく客がおらんでな。早い話が暇ということじゃ」
光太は「はぁ」と曖昧に返事をしてカウンターに腰掛けた。
「何を飲む?」椿が問いかける。
「えっと……」と迷う光太に、椿は「カフェラテなどどうじゃ?」と提案する。
「じゃあ、それで」
キヌは相変わらず、両手でカップを抱えては小さな口で啜っている。昨日の騒ぎを語る様子もなく、ただコーヒーに意識を集中しているように見えた。
「昨日は大変だったようじゃな」椿は作業の手を動かしながら言った。どうやらキヌから話を聞いたらしい。光太はチラリとキヌを見たが、やはり変わらずコーヒーを飲んでいるだけだった。
「ええ、大変でした」
「まあ、とりあえず今は待つしかあるまい」
「そうですね」
しばらく沈黙が続き、やがて椿が「お待ちどう」と、涼しげなガラスのカップを光太の前に置いた。アイスカフェラテ。茶色と白の曖昧な層が重なり、見るからに涼やかだ。ひと口含むと、ミルクの柔らかな甘さがコーヒーの苦味をほどよく包んでいた。
「レコードでもかけようかの」
椿は棚から一枚を取り出し、プレーヤーにそっと置く。針が落ちると、やがてピアノの音が流れ始めた。
「ジャズですか?」光太が訊ねる。
「うむ、ビル・エヴァンスじゃ。ジャズは聴くか?」
「いや……『マイ・フェイバリット・シングス』とか『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』くらいしか」
「有名じゃな、テレビなどでもよう使われておるな」
ジャズの音色が店内に広がる。カップに口をつけるキヌ、煙管を弄ぶ椿、そして曖昧に揺れるピアノの旋律。光太には、このひとときが日常と非日常のあわいに浮かぶ、奇妙に落ち着いた時間のように感じられた。
ジャズって、喫茶店とかバーで流れている気がしますよね」
光太が言うと、椿は頷いた。
「確かにそんなイメージがあるな。やはり洒落ているという印象もあるし、歌声がないから会話の邪魔にならんのじゃろう。歌が入れば、どうしても歌詞の意味を考えてしまうでな」
「クラシックよりもラフな感じですよね。普段着というか、リラックスして聴けるというか」
「ほう……よい表現じゃな。ジャズというのは決められた楽譜に縛られず、即興で演奏するもの。そこが自由に感じられる理由かもしれん」
そのとき、キヌがカウンターに突っ伏し、腕に顔を埋めたまま小さく言った。
「……この曲、なんか好きかも」
とたんに「ぐぅ」とお腹の音が鳴る。
椿は思わず吹き出し、「なにか作るかの」とクスクス笑いながら厨房へと立った。
キヌは耳まで赤く染め、光太は気を利かせて視線を窓の外へ向ける。
「雨だ」
ガラスには無数の水滴がつき、不規則に曲がりながら下へと落ちていく。
やがて、ジューッと何かを焼く音が響いた。しばらくしていい香りが店内を満たす。
「この匂いは……アレですね」
「アレじゃな」
「パンケーキ」
「パンケーキ」
「パンケーキ」
三人の声がぴたりと重なった。
顔を見合わせた瞬間、堪えきれずに吹き出す。
「ハモった!」キヌが声を弾ませて笑った。