カフェキュウビの日常2話6
再び、二人は神社の前へとやって来た。
夜気はひんやりとして、境内の奥からはぼんやりと明かりが漏れている。
賭場の戸を開けると、相変わらず中は煙草の煙で視界が霞んでいた。鼻を刺す煙と酒の匂い。ざわめきの中を進んでいると、どん、と誰かと肩がぶつかる。
「しっ、声を出すな」
小声でそう告げたのは、お陽だった。彼女は近づくと、唇だけを動かすように囁く。
「奥で花札をしている白いイタチが平次だよ。左目に刀傷がある」
それだけ言うと、お陽はすっと人混みに紛れて消えた。
「奥……」
キヌが視線を走らせる。
「あれじゃない?」
二人は顔がはっきり見える位置まで移動した。
確かに、白い毛並みに左目の刀傷。花札の札を手に取り、仲間と何やら笑い合っている。夢中になってこちらには気づいていない。
どうやって捕まえるか、光太が考えを巡らせていると──
「あんたが平次ね。財布を返しなさい!」
キヌが、ためらいもなく平次の肩をつかんだ。
「おい、ちょっ……」
光太はしまったと思った。キヌの暴走は十分予想できていたが、もう止める暇もない。ここまで来たら、流れに身を任せるしかない。
突然肩をつかまれた平次は、「ああん!?」と勢いよく振り向き──そして目を見開き、ギョッとした表情になる。
「なんでここに!?」
次の瞬間、脱兎のごとく駆け出した。
「追うぞ!」光太が叫ぶ。
「あ、うん!」
一瞬きょとんとしていたキヌも、すぐに状況を理解し、後を追った。
すでに平次の姿は賭場の外へ消えていた。
二人は人混みをかき分け、夜の街へ飛び出した。
平次は夜の路地を疾風のように駆け抜けた。
キヌと光太もそれを追い、賭場の明かりから一気に暗がりへと飛び込む。
竹林の細い道を抜けると、バサバサと頭や体に葉っぱがまとわりつく。
「うわ、ちょっと!」キヌが顔の葉っぱを払いながら走る。
光太も髪に引っかかった枝を引きちぎり、「くそっ、待て!」と叫んだ。
塀を蹴って駆け上がり、屋根に飛び移る。瓦がガタガタと揺れるたび、家の中から「うるせぇぞ!」と怒鳴り声が響く。
「ごめんなさーい!」光太は叫び返すが、足は止めない。
平次はひらりと民家の中へ飛び込み、ちゃぶ台の横をすり抜ける。そこでは一家三人が夕飯の最中だった。
「な、なんだァ!?」父親が立ち上がる間もなく、平次はちゃぶ台を蹴倒して裏口へ。
「す、すみません!」光太は慌ててちゃぶ台を元に戻し、椀を並べ直して再び追いかけた。
狭い路地を抜けた先は、なんと銭湯。平次は迷いなく女湯の暖簾をくぐる。
「きゃーーっ!」甲高い悲鳴が上がった瞬間、キヌは反射的に光太の目を塞ぐ。
「見ちゃダメ!」
「いや、今の俺、見えてないから!」
再び裏手の梯子を駆け上がり、屋根の上へと戻る。
月明かりに照らされた瓦の上で、平次が立ち止まった。
──行き止まりだ。
「捕まえた!」キヌは勢いそのまま突進する。
「おい、危な──」光太の声は間に合わず、キヌと平次はもつれるように屋根の縁から落ちた。
下には大八車が止まっており、幸いにも布団のような荷物が積まれていた。二人はその上にドスンと落ち、怪我ひとつなく助かる。
しかし、着地の衝撃で車止めが外れる。
「え、ちょっと……動いてない?」光太の言葉をよそに、大八車はギギギと音を立てながら坂道を滑り始めた。
「うわーーーっ!」
坂の先は大きく曲がった道──そしてその下には、川が待っていた。
大八車は、ガタガタと音を立てながら坂を下っていった。
最初はゆっくりだったが、すぐに重みと傾斜に押されて加速する。
「な、なにこれ!?」
キヌは車輪の揺れに必死でしがみつく。
一瞬早く平次が飛び降りようと腰を浮かせたが、その腕をキヌががっしり掴んだ。
「離せ! 今それどころじゃ――」
「いやいや、あたしを置いてく気でしょ!」
「いや置くとかじゃなくてだな…」
そのやり取りの間にも、大八車は速度を増していく。
平次が後ろを振り返ると、坂の下はくねった道。その先に川が見えた。
「おい…やばいぞこれ!」
「え? ……え!? おちるおちるおちるーー!」
二人の顔から血の気が引く。
遠くで必死に追いかけてくる影――光太が「待てぇーっ!」と叫んでいるが、その声はどんどん遠ざかっていく。
ギシギシと不吉な音を立てながら、大八車は道の縁を外れた。
「光太ーーー!」
キヌの叫びは虚しく空に溶け、次の瞬間――
ドンッ!と車輪が段差を跳ね、
ザッパーーンッ!
大きな水しぶきが夜空に舞い上がった。