カフェキュウビの日常一話
橘光太は、気が滅入っていた。
今日は朝から、しとしとと雨が降っている。
窓の外は薄いグレーに染まり、街の喧騒もどこか遠く感じる。
隣の家の庭には桜が咲いている。
その鮮やかな薄いピンクの色彩は、本来なら心を和ませるはずなのに、
なぜか光太の気持ちを、余計に沈めさせた。
ふと、時計を見ると、もうすぐ午後3時。
何かを始めるにはちょうどいい、けれど何もしなくても許されそうな、
そんな曖昧な時間だった——。
二階の自室の窓から外を眺めて、ため息をひとつついた。
どうして気が滅入っているのか。
気圧の変化や日照時間の減少によって、ドーパミンやセロトニンの分泌が減っているから──そんな理由ではない。いや、まったく関係ないとも言えないが、主な原因はそこじゃない。
光太を悩ませているもの。それは冷蔵庫に貼られた一枚の張り紙だ。
白地に太い黒文字で、ただひと言。
「働け」
……威圧感がすごい。
橘光太、十六歳。中央区にある高校に通っている――ことになっている。
実際のところ、学校にはもうほとんど行っていない。いわゆる不登校というやつだ。
不登校と聞くと、いじめだとか、家庭の問題だとか、何かしらの深刻な事情を想像する人もいるかもしれない。
だが光太の場合は少し違う。両親はそこそこ仲が良く、父親は長期出張で家にいないが、特に問題があるわけでもない。
成績も中の下くらいで、友達もそこそこいた。いじめられた経験もないし、教室で浮いていたわけでもない。
──ただ、なんとなく。
最初のきっかけは、徹夜でゲームをして寝過ごしたことだった。
「今日はもういいや」と学校をサボった。
それが一日になり、二日になり、三日になり……気がつけば、不登校になっていた。
最初は何も言わなかった母親も、ついに堪忍袋の緒が切れた。
Wi-Fiは止まり、スマホも圏外。PCもネットに繋がらず、電子の海は閉ざされた。
そして冷蔵庫の「働け」である。
──さて、どうする?
光太はチャンピオンのスウェットにユニクロのジーンズを合わせ、ベースボールキャップをかぶった。
玄関に置いてあったビニール傘を手に取り、外へ出る。
昼間に外出するのは、かなり久しぶりだった。
雨に濡れたアスファルトを歩きながら、近所をぐるぐると回る。
スマホが使えない今、求人サイトも見られない。
ひとつひとつの店を自分の足で確かめて回るしかなかった。
いくつかの店先に「バイト募集」の張り紙を見つけたが、どれもいまいち気が乗らない。
チェーン店の居酒屋、スーパーの品出し、コンビニの接客。どれも悪くはないが、何となく自分とは合わない気がする。働いてる姿が想像できない。
光太はどちらかというと、考えてから動くタイプだった。あれこれ考えて結局やらないことが多い。とりあえずやってみて、嫌なら辞めるという発想がない。
気がつけば、住宅街に迷い込んでいて空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
いつのまにか雨は止んでいた。まだ地面は濡れていて、空気はどこか湿っている。
「カァ」
遠くでカラスが鳴いた。
──逢魔が時。
昔から魔物や災難に遭いやすい時間。
「……帰るか」
そうつぶやいて、光太が踵を返したそのときだった。
角の向こうから、鈴の音が聞こえた。
シャン、シャン、シャン……。
それに混じって、笛の音のような音色がふわりと漂ってくる。
雅楽。お祭りや正月に神社で聞くような、あの厳かでどこか懐かしい響き。
音は次第に近づき、角の向こうに明かりがにじむ。
そして――
現れたのは、白装束を身にまとった狐たちだった。
二足歩行で静かに歩くその姿は、現実感がない。
彼ら(彼女?)は神輿のようなものを担いでいた。煌びやかな装飾、ゆらゆらと揺れる灯籠のような光。
昔どこかの温泉宿に泊まったときを思い出した。非日常で幻想的。
そして、光太の目の前で、その神輿がピタリと止まった。
空気が変わる。
不思議な音楽もやんだ。
まるで音を出してはいけないという決まりでもあるかのように静かだった。
しん、と世界中の時間が止まったような気持ちにさせる。
神輿の小窓にかかる簾が、すっと持ち上がる。
中から顔を出したのは、一人の女性だった。
透き通るような白い肌、朱色の化粧、鋭くもどこか寂しげな目元、賢そうな口元。
美しい、という言葉では足りない、光太の語彙力では表せないほどに美しい。
狐のお面のような、神秘的な面差しだった。
黄金色の瞳がこちらをじっと見ている。
彼女と目が合ったまま、光太は動けなかった。
声も出ない。視線をそらすこともできない。ただ、見つめることしかできなかった。
「……ふむ、見えるか」
そう呟いた彼女は、じっと光太を見つめ、しばし沈黙した。
扇子を手に持ち、何かを考えているような顔。
やがて、パチンと音を立てて扇子を閉じると、軽く笑った。
「面白い」
「すまぬが、今日は予定があるゆえ、失礼するぞ。また、な」
そう言って、簾を閉じると、鈴の音とともに行列は再び動き出した。
止まっていた笛の音も、再び聞こえてくる。
白装束の狐たちは、ゆっくりと闇の中に消えていった。
あたりはすっかり暗くなっていた。
見上げると、雲間からのぞくようにして、満月が輝いていた。
光太はしばらくその場に立ち尽くしたまま、月を見上げていた。
夢か幻か。
あれは、なんだったんだろう──。