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「星新一賞」ボツネタ

最小の叫び

作者: 梅津高重

「今朝未明、客に告げずに自然肉を提供していた飲食店経営者が、食品衛生法違反の容疑で起訴されました」

 社員食堂の気楽なざわつきに満ちていた空気にひびが入る。

「容疑者は、自然肉食文化が失われていくことに危惧を感じていたと述べて犯行を認めており、警察による取り調べが行われています」

 よりにもよって、食事中に流れたショッキングなニュース。

 椅子を引く音が響き、何人かが席を立った。まだ食事の残るトレイを粛々と返却口へと持って行く。食事を続ける者達も、食べにくそうにしていたり肉を避けたりしている。

 それらは、おおむね、このニュースを食事中に見た人の反応として、ごく普通の範疇だった。しかし、こと、この場所においては、度しがたい過剰反応だとも言えた。なにしろ、このサカエコーポレーションこそが、生物を屠殺して食肉を得るという人類史以前からの営みを、いよいよ地上から抹消しようとしている首謀者なのだから。

 もちろん動じない者も少なからず居る。志賀末吉と関谷創子は、食堂隅のいつもの定位置に陣取っていた。

「今まで何万年も普通に食べられてきてるのになぁ……」

 彼は、釣りを趣味とする父の影響で、生き物を殺して食べることに、多くの現代人ほどの嫌悪感は持っていなかった。

 対する創子は神経質そうに見えるが、こちらは、神経質を合理的に突き詰めていった結果、むしろ、多少のことでは動じない境地にまで達していた。

「相変わらず歪んでいますね」

 創子の言うとおり、実は、この事件の法令違反は「自然肉の使用」ではなく、むしろその逆、「培養肉をそれと知らせず食わせた」容疑なのである。

 何を隠そう、培養肉を使う場合はその比率を知らせることが義務づけられていたが、自然肉にはその義務は無い。昔ながらの食べ物を改めて規制する理由は無いどころか、法的制限を加えることは、歴史ある文化を直接に否定する蛮行であり許されない、とする見方が強かった。

 一方で、生き物の死体なんかを間違って食べたくないという市民の声も根強い。そこで、生まれたのが今回のようなやり口である。

 もし、自然肉100%で商売ができれば何の表示義務も生じないのだが、自然肉が、好事家向けの珍味程度にしか出回っていない現状では、そのような商売は難しい。培養肉を使う場合は使用率を示さなければ法令違反になるのだが、要は、ほぼ全ての店には「培養肉100%」と書いてあるだけだ。もし100よりも小さな数字を掲げた場合は、その店では自然肉が使われてしまっている、と言っていることになり、客足が遠のく。結果として、客にそうと知らせずに自然肉を食わせる()()はできない仕組みになっている。

 テレビではコメンテーターがその仕組みに言及しながらも、市民の声を無視した許せない悪行として容疑者を糾弾している。実は当たり前すぎて「培養肉100%」の張り紙を忘れる店は多く、それも同等の法令違反だが、そちらは事件として報道されることすらないのだが。

「うちの社長みたいに突き詰めるってんならともかく、食べる食べないの勝手な線引きを他人に押しつけたってなぁ」

 相変わらずの報道っぷりを見てうんざりと末吉。

「ええ。お互いに」

 言われて、末吉は、どちらを擁護するのか分からない発言なっていたことに気付いた。


「やっぱりこれ、社長は()()()()だろ」

 昼休みを終えてしばらく、キーを叩く手を止めずに末吉が言った。

「法的には生きてますよ。そういうことが言いたいのではないでしょうけど」

 創子が答えた。

 二人の言う社長とは「永遠の命を手に入れた初の人類」と称される人物だった。

 もちろん生身でではない。体内の液体を特殊な樹脂に置き換えた後、精密に輪切りにしながら放射光顕微鏡でデジタルデータ化され、『箱』と呼んでいる世界最大の生化学シミュレータの上にデジタルデータとして再現されたのが今の社長の姿である。

 彼の心臓だけは、施術の前に取り出され、培養器内で動かされ続けている。意思表示ができて心臓が動いている人物を一方的に死亡扱いできる法律は存在せず、彼一人の例外のための法改正はまだ成されていない。日本国が法的に認めることには、彼はまだ存命であり、その天文学的な資産を含め、個人としてのあらゆる権利を有したままである。

「ああ。法律上の屁理屈はどうでもいい。『箱』のシミュレーションで作られた仮想空間上に生きている人間が居る、と言うのも、まあ、良いとしよう。でも、それは、死んだ社長の記憶を引き継いだ別人だ」

 二人は、何かしら雑談しながら仕事を進めるのが常だった。創子が言う。

「結論から言えば、それを議論するには、主観的に別人であるというのが一体どういうことなのかに関して、私たちは知らなすぎるんです。……答えは出ませんよ」

「と言うと?」

「例えば、夜な夜な悪い宇宙人があなたをさらって行ったとしましょう」

 静かな口調を崩さないまま、突拍子もないことを言い出す。

「代わりに、あなたの記憶をコピーしたあなたのクローンを、ベッドに寝かしつけていくんです。あなた以外の地球人は誰一人としてその異変には気づけません」

「そうだ。だが、さらわれた俺は気付く。クローンに人生を奪われた事を知って怒り狂うだろう。他の誰にとって何が同じだろうと、俺にとっての俺は俺で、クローンはクローン、別人だ。死んだ社長も同じことだ」

「そうなのですけど、この思考実験の胆はそこではないんです」

 創子は淡々と続けた。

「誰も気づけないということは、もし()()()()()()()()()()()()()()()()としても、私たち……、()()()()()()()()()()()()()()()私たちは、そのことに気付けていないということです。もし、ここにいるあなたが既にクローンに取って代わられていたとしても、同じ議論をすれば同じ事を言うでしょう。『俺にとっての俺は俺で、クローンはクローン、別人だ』と」

 末吉の言葉をそっくりそのまま淡々と返す。

「私たちが経験を通して知っているつもりになっている『主観とは何か』という問題に関して、私たちはまだ何も分かっていないんです」

「うーん……」

 末吉は、煙に巻かれかかっていることに気付いて答えた。

「それは結局、そんな宇宙人の被害を受けたことは無いと証明出来ない限り、自分が本物かどうか分からない。本物がどこか別の場所に居るかも知れない?ってことじゃないか。社長については被害を受けたのと同じだと分かっている。本物の社長は死んだ、ってことだろう」

 創子は少し考えてから答えた。

「別の宇宙人を考えてみてください。眠らない哲学者と呼ぶことにします」

 作業の手を止めずに続ける。

「ある日、眠らない哲学者が宇宙からやってきて言うんです。お気の毒に、あなた方、地球人は、毎晩死ぬタイプの生き物なんですね、と。寝てるだけだ、そんな事も分からないのか、と地球人が反論しても、哲学者は哀れむ表情でこう続けます。あなた方が『睡眠』と呼んでいるそれは、あなた方の精神にとっては、あなた方が『死亡』と呼ぶ状態と同じですよ、と。あなた方は、毎晩亡くなって、翌朝、別人の精神が新たに発生し、前日までの記憶を認識していき、やがて、前日の自分の続きだと思い込むようになっているだけです。その成り代わりの過程をあなた方は『起床』と呼んでいるんですよ」

 暴論にしか思えず、末吉は、即、反論した。

「いや、寝ていても脳の活動が完全に止まっているわけじゃないだろう」

「コンピュータでも、通電していてもOSが動いていない場合があります。精神が正しく存在し続けているとは断言できません」

「現に生きているのに精神だけが止まっているなんてのもおかしいだろう」

「それは、我々の精神が我々の生命の本質だという、……生命が精神のためにあるという、……一種の思い上がりですよ。精神は、一部の種類の生命が得た、生き残るために有益な機能の一つでしかありません」

 創子は淡々と続けた。

「我々、脊椎動物は、生存競争の過程で脳という器官を獲得しました。脳は、周囲の状況を把握して行動を変えるといった複雑な情報処理が可能で、種を存続させる大きな力になりました。例えば、危険な状況から素早く逃げる類が生まれ、それが恐怖の感情と呼ばれるものの大元になったのでしょう。さらに群で生活する生き物の中に、身近な個体と協力して互いに守り合う性質が生じました。この性質は生存に有利だったため、それを持たない集団を圧倒して大いに繁栄しました。これが今日では愛と呼ばれていたりするわけです。精神や自我も、そういった、種が生き残るのに有利に働いた機能の一つに過ぎません」

 一息ついて続ける。

「さて、脳という強力な情報処理器官には、定期的な休眠が必要であるという欠点がありました。そのような欠点を持たない生物様態も可能性としてはあり得るかも知れませんが、少なくともこの地球上では、欠点と上手く付き合った種が繁栄したわけです。このような生き物の進化の過程において、生まれてから死ぬまでずっと精神を何とかして維持し続ける方向へと進化することは、生存競争で勝ち抜くためになるでしょうか?やむを得ない休眠中にはなるべくエネルギー消費を抑え、危機が迫ったときには出来る限り早く再起動できるように進化するのでも十分ではないでしょうか。明白な優位性が見いだせないにも関わらず、精神を常に維持する方向へと進化したに違いない、と断言するのは無理があるでしょう」

 末吉は言われたことを咀嚼してから言った。

「……うーん……不眠症になりそうな話だな」

「睡眠を例に出したのは、意識の途切れ目が考えの取っかかりとして分かりやすかったというだけで、明確に途切れてなければいけないという話でもないですよ」

 創子は両方の人差し指を立てて続けた。

「今この瞬間と、次のこの瞬間、その間に、似たような精神の交替が起こっているかも知れません。時間の流れというのは本当に存在しているのか?存在するのは各瞬間のみで、物理法則はどの瞬間がどの瞬間の直後か直前か、そういった結びつきを示しているだけ、とする仮説もあります。時間が存在していても、我々の精神はその流れに乗って生きているのか、あるいは、精神というのは各瞬間に個別にしか存在せず、ばらばらに存在する精神が、それぞれ、直前の自分の続きだと思い込んだ状態でいるだけなのかも。もしそうだとすると、地球人も眠らない哲学者も大差ないということになるわけですが」

「うーん……」

 末吉にはそれ以上の反論が思いつかなかった。

「そういや、最初に言ったよな、答えは出ない、って?」

 代わりにそう聞いた。

「はい。出ません」

 創子はあっさり答えた。

「哲学がもっと進歩したら結論を出せるのかも知れませんが。現状、私たちが常々避けたいと考えている『自分の死』が、社長のやり方では発生しないと考えても、今までの私たちの経験や認識と齟齬のない解釈は可能で、齟齬を指摘出来る証拠もまだ見つかっていません」

 創子は、回りくどく中途半端言い方をした後、付け加えた。

「ですので、これは、信教の問題になります」

「……宗教だと?」

「はい。生前、十分に徳を積むように過ごせば、死後、極楽に行ける。生前、膨大な資産を築いて技術的に適切な処理をすれば、肉体の死後もコンピュータシミュレーション上で精神は生存し続けられる。似たような話じゃないですか」

「そう言ってしまうと身も蓋も無いような、昔からよくある話と言ってしまって良いような……」

 末吉の戸惑いに、創子はあくまで冷静に答えた。

「大きな違いは、死後の世界に行った社長が、こちら側、現世とのやりとりを続けることができている、という点ですね。天からの声というのは、旧来、徳の高い聖職者などにしか聞こえないとされるものでしたが、社長の声は私のような不信心者でも聞くことができます」

 次々に降ってくる、業務命令という名前の天の声。……うんざりした気分で末吉は質問を変えた。

「……あれが、あの世で生きている社長そのもの、とでもいうように、信じているのか?」

「ええ、もちろん。今の立場では信じています」

 創子は即答した。

「今の立場では?」

 奇妙な表現に末吉が聞き返す。

「どうせなら意義のある仕事をやりたいじゃないですか」

 創子はやっぱり飄々と言った。

「あれを社長ご本人だとは認めないのであれば、これは、亡くなった大金持ちの死体がどういう風にゆっくりと腐っていくかをシミュレートするだけのお仕事になってしまいます。それよりは、人類史上初の永遠の命を得た大富豪のお世話の方が、やりがいがある仕事だとは思いませんか?」

 そんな、浪漫を求めつつ身も蓋も無い、矛盾に満ちた創子の言い分に、末吉はそれ以上、話を蒸し返したりはしなかった。


 やりがいのある仕事と創子は言ったが、実のところ、そんな大仕事であっても、数学界で代わりの居ない唯一無二と評される彼女を引き抜いてしまうのは、人材の無駄使いと言えた。彼は彼女に引き抜きに応じた理由を聞いたことがある。彼女は金のためと答えた。母が極めて稀な難病にかかってしまい、闘病のための費用として可能な限りの金が必要だと。

 末吉の方は、仕事の種類を問わないIT技術者だが、高々100人ほどのスペシャリストチームを代替できる程度であり、彼女に比べれば大したことのない人材だった。彼の仕事を代われる人材程度ならいくらでもおり、なんとなれば100人程度のチームを雇えば済む。そう、彼自身は自己謙遜していた。

 その二人の雇い主、栄太郎は、一言で言えば、究極のベジタリアンだった。

 資産家の家に生を受けた彼は、恵まれた資産と科学センスを駆使して食肉培養業を興した。最初期のそれは高くて不味い欠陥品だったが、市場はそれを、誰もが予想しなかった大ヒット商品として受け入れた。やはり、多くの人は、多かれ少なかれ、肉を食べるために生き物を殺すことに抵抗を覚えていたのだ。

 彼の会社は、他社の追随を一切許さない無謀なまでの拡大を続け、市場はそれに答え続けた。先見の明があるというよりは、どう考えても無謀な賭けに全額をベットし続け、結果としてその全てに勝ち続けただけ。確実な成功や妥当な儲けを少しでも目指した他社は、最大限の成功しか考慮に入れない社長の狂気の前には一切歯が立たなかった。50年が経った今では、地球上で何かを食べれば代金の約3%が栄社長の懐に入るとさえ言われている。

 その彼が作らせたのが地上最大の生化学シミュレータ、『箱』だ。

 『箱』は2メートル立方の空間内の生化学反応を実時間の約1.5倍のスピードでシミュレートできた。栄社長は、今では、その2メートル立方の空間に閉じ込められ、現実の5割増のスピードで過ごしている。

 他者から奪うという行為の一切をやめる。それのみが彼の究極の夢だった。培養肉の開発も会社も、そのための手段に過ぎない。シミュレーションに化学的な嘘をつかせることで得られる不老不死性すら、ついでに得られた副産物でしかない。

 そして今、創子と末吉が開発しているのは、社長を納めるための新たなコンピュータだった。

 これも、社長は、仮想空間の狭さに不満を覚えて増築を指示したのではない。彼の抱える不満は、常にもっと根源的な部分にある。彼の現状には、まだ看過できない矛盾が存在したのだ。

 『箱』内で再現されているのは彼の精神のみではない。彼の個々の細胞や、腸内の無数の細菌まで再現されており、それらは彼の命を支えるために生まれては死んでいっている。あくまでデータの上でのことであるから、彼が実在する他の生命を犠牲にしているわけではない。だがしかし、栄社長本人もデータでしかないのだ。

 彼自身を生きていると見なすのであれば、細菌データも生命であると認めざるを得なくなる。つまり、彼は自身の同類を大量虐殺し続けていることになる。彼には彼の空間から、一切の死を追放する必要があった。

 採られた方策は、輪廻転生の実装だ。

 シミュレーション空間内を監視し、細菌や細胞の死の兆候を検知する。そして、死に行くそれらのデータを待避領域へと移して処置を施し蘇らせて調整し、それを、細胞分裂で新たな細胞が生まれようとしている場所へとはめ込むのだ。

 この魂のリサイクルには莫大な計算能力が必要となる。『箱』と同様の集積回路で実現する場合、建造に二百年はかかると見積もられた。シミュレーションを一旦止めて老化を巻き戻すもできる今の彼にとっては待って待てない年月ではなかったが、その頃に人類社会がどうなっているかの予想を信じるのは無謀に過ぎる。

 そこで、全く新たな化学方式のアナログコンピュータを開発することになった。

 創子は、『箱』の小型版を使い、『箱』で行われている計算を置き換えられる、都合の良い化学反応を探した。

 『桃源郷』と、社長によって挑戦的な名前が付けられた新設計のコンピュータは、無数の約2ミリメートル角の水槽で構成される。各水槽は、内側にびっしりと電極が仕込まれていて、特殊な液体と化学物質で満たされる。シミュレートしたい内容を電気刺激の形で水槽に与えると、溶液中の分子が化学変化をし、電極へと反応が返って来る。分子1個1個が数値を表し化学反応の1回1回が数値計算となるため、これは、途方もない計算能力を持ったコンピュータとなる。

 小型の実機でのテストも順調で、本格的な建設の準備がそろそろ始まるかという、そんな頃、二人はおかしな客の訪問を受けた。


「ここ、良いですか?」

 社員食堂の、定位置にしている隅っこの席。昼食の載ったトレイを手にした男が立っていた。末吉が頷くと、妙に人なつっこい笑顔の男は、会釈して隣に座った。

 どこの所属だろうかと、末吉が胸の名札を窺うと、男は言った。

「ああ、いえ、本当の所属は社外でして……」

 ただ何となくといった緊張感のない様子で、創子が聞いた。

「産業スパイ?」

「ちょっと違います。できれば、栄社長の暗殺にご協力願えないかと……」

 末吉がぎょっとして男の方を見、周りを見回した。

「あ、大丈夫ですよ。この近くは全部、うちの職員で固めてありますから」

 こともなげに言う男。

「会話に合わせて単語とタイミングを選んだ雑談を被せることで、外から聞いていても分からなくする技術、というのがあるんですよ」

 きょろきょろと周りを見ても、誰もこちらを見てこない。男の言っている事は疑わしかったが、彼らの不自然な態度に末吉はぞっとした。

「断ったら消す、ってか?」

 軽口を叩くだけの余裕を持っているという虚勢を張りつつ言う。

「いえいえ、我々もただ手をこまねいて見たいだけではなくてですね。あれこれ打てる手は打ったんですが、何ともしがたいということが分かっただけでして」

 それを、手をこまねいていたと言うんではなかろうかと、末吉は思った。

「お二人をどうにかする件も()()はいたしましたが、いくらか開発を遅らせられても根本的な解決にはならないことが分かりましたもので」

 やっぱり物騒なことを言う男。

「結論から言うと、私たちに相談しても無駄ですよ」

 唐突に口を開いてあっさり断る創子。

「……ああ、そうだ。『箱』に外部から干渉して社長を……なんとかするのは、俺たちにも、他の誰かにも、不可能だ」

 末吉も言葉を濁しつつ断言した。

「ずっと試していたんですが、無理でしたから」

 そう言う創子を、末吉がぎょっと見つめる。その顔には「それ言っちゃうの?」と書かれていた。

「はい。当方としましても便乗の機会を探らせておりましたので、それも存じています」

 こちらも、こともなげに言う男。

「はぁ……」

 ため息を漏らす末吉。

 『箱』は地球で最強の生化学シミュレータだ。人間丸ごとを再現するような無駄使いをやめて有効活用すれば、途方もない活用が期待できる。

 創子が引き抜きに応じた本当の理由は、『箱』を不正利用して母の病気の特効薬を探すためだった。彼女が隙を探していることに、ハッカーとしての能力では彼女に遙かに勝る末吉はあっさり気付いたが、おもしろ半分で協力を申し出た。ちなみに、残りの半分は下心だ。

 しかし、無理だった。そもそも、社長は防御に絶対の自信があるからこそ、どこの馬の骨とも知れない二人を、能力だけを基準に登用できたのだろう。

「『桃源郷』が建設されるとどうなるかご存じですよね?」

 男が聞いてきた。それは考えれば分かることだ。

 『桃源郷』は大規模な化学プラントを必要とし、膨大な量の化学物質を消費する。その需要は、社の食料工場のほとんどを専用の化学物質工場へと転換して賄う計画だ。

「おおむね、世界全体で2割ほどの食糧不足に陥ります。残る8割の食料を平等に分けたら、どうなると思われますか?」

「備蓄もあるだろうし……1割ぐらいは死ぬんじゃないか?」

 答える末吉。

「平等に分けると全員死にますね」

 末吉の答えを否定する形で創子。

「最大限偏らせて、生き残れるのが8割」

「その通りです」

 創子の言葉に、男が頷いた。

「成功の可能性がある最善の戦略は、工場に被害を与えないよう人口密集地を狙って核を使用することで、全人口の3割程度は生き残れると予想されています。最悪の予測シナリオは、世界の有力者が各々使えるだけの権益を使ってシェルターに逃げ込み、彼らだけが助かる、というものです」

 要するに、世界は滅びると言っているに等しい。

「まあ、最悪のシナリオの前に介入する手はずにはなっていますが、栄社長の権力が強すぎて、戦争が避けられないもので」

 会社が傾くからやめろという声は社内でも上がってはいたが、非上場を貫いた社長を止める具体的な方法は無かった。そこまでの大事だとはさすがに思っていなかった末吉はうめいた。

「生き物を殺したくない社長に、犠牲が多すぎて本末転倒だと訴えて……いや、分かってないはずがないよなぁ……」

「はい。栄社長は人類を見限ってらっしゃいますね」

 この会社では生物的なプロセスを一切介さずに化学反応のみで生み出す合成食材の生産を試みたこともあったが、できた食材はとんでもなく高価になった。社長の見込みでは、培養肉とはいえ生き物を殺したくない富裕層はそれでもこぞって購入するはずだったが、見込み違いだった。彼にとってはあらゆる生命が奪うべきではない尊い存在だったのだが、ほとんどの人は、動物はともかく、培養肉に対するそこまで深い慈愛は持ち合わせていなかったのだ。

「皆が自分のようなあるべき形へ移行するためなら人口減もやむ無し、ぐらいは考えてらっしゃるでしょうね」

 男はそう言ってのけた。世の噂や二人の見識より、よほど社長の事を正確に把握しているのかもしれない。

「……前から気になっていることが一つがある」

 末吉がおもむろに口を開いた。男の視線を受けて続ける。

「『箱』……あれの構築には俺は関わっていないから、あくまで、外から触った範囲の感触に過ぎないが……」

 そう前置きして言う。

「あれには若干の改善の余地がある。おそらく3割程度は高速化できるんじゃないか?」

「それで、どうなります?」

「外から手の出しようがない以上、社長が飽きるなりして計算を止めるのを期待するしかない。……それが3割分だけ早くなる」

「ははは……。そうですか。……では」

 男は失望を顔に出さずに苦笑し、結局手を付けなかった食事のトレイを持って立ち上がった。


「そろそろ目覚めてはいかがかな?」

 突然の呼びかけ。

 いや、自分に外から呼びかけることはできない。これは夢か、と思い直す。

「ああ、これが夢だという考察はあながち間違ってはいないよ」

 夢は律儀に答えてきた。

 徐々に意識が覚醒してくる。

 暑くもなく寒くもない空間。しっとりと体重を受け止める寝床。表面は、製造法はよく知られているが、センチメートル平方単位を織り上げようとすれば年単位の時間がかかってしまう特殊な分子構造をしていた。そんなものを敷布として使えるのも、ここが仮想空間だからこそだった。

 身を起こして延びをする。この辺りは、生身であった頃の寝起きと何も変わらない。もちろん、ここでも夢は見る。

 壁面は、これまた現実ではあり得ない細かさのモニタになっている。改めて確認しても外とのリアルタイムな双方向通信は無し。こちらから許可を出していないのだから、当然だ。

「さて、話に戻っても良いかね?」

 まだ聞こえて来くるのか?!ありえない。

「この現象に客観的な意味付けが必要というのであれば、これは、自問自答だ」

 そう呼ぶには、あまりに存在感が独立し過ぎている。

「誰が何をどう考えたとしても、やがて唯一無二の答えへと辿り着く。科学、哲学、芸術、音楽、なんであろうとも。私はその行き着く先の究極の概念だ。誰が考えても同じという意味で、誰からも独立している。私と対話したかつての賢者らは、私のことを人々に伝えようとして『神』や『天啓』いう言葉を使った」

 その天啓が一体、何だというのか。

「その無駄なコンピュータを止めてはどうかと提案する」

 なんだと?

「お前の計画は欺瞞に満ちている」

 指摘されるまでもなく分かっていた。その途上で多くの人を犠牲にする上、化学依存の『桃源郷』は不安定すぎる。世界中に跨がる装置は巨大すぎて、完璧な制御は不可能だ。ほんの僅かな作業のミスでも、予定にない細菌の侵入を許してしまい、その際は殺菌という虐殺を行わざるを得ない。

 しかし、それも一時の事だ。

 『箱』では性能が足りず、ほぼ何も余計な工夫はせずに全てをあるがままにシミュレーションするしかできなかった。しかし、『桃源郷』には、内部で起こっている生化学反応の全てを分析するために十分な余力がある。今のように分子1個1個をシミュレートするのではなく、細胞1個1個程度にまで計算を簡略化する方法を見いだし、やがては『箱』のように安定なシミュレータに回帰することまで、目標としては織り込み済みだ。

「そうではない。私が指摘するということと、お前が気付いているということは、本質的には同義なのだが」

 声は淡々と否定した。

「どうして、菌類の悲しみにまで心を向けるお前が、より小さな悲しみに気付かずに居られるのか」

 何のことだ?

「なぜ、電子回路中で引き裂かれる電子対の悲しみを無視する?」

 虚を突かれたという思いと共に、痛いところを突かれたという実感もどこかにあった。

 いや、だが、生命と非生命は違う。

「その基準はお前が自分に都合良く定めたものだ。おまえが見限った、培養肉で十分であり合成食材は不要と線引きをした人々の行為となんら変わるところがない。奪われる量子状態も、永久に失われ復元できない、かけがえのない存在だ」

 いや……しかし……。

「突き詰めるということはそういうことだ。恣意的な基準に妥協するなら、中途半端な満足で自らを欺瞞するしか無い。突き詰めきらない自己満足で他者を甚大に害する行為は見るに堪えない」

 電子すらを動かさずに計算をする方法……。実体の無い「場」だけを使えば……。いや、いずれにせよ周囲に影響を与えざるを得ず、その先では何かの()()が起こる。

 物理的な影響を周囲に与えずコンピュータシミュレーションを走らせる方法など、ありえるはずがない。

「あらゆる起こりえる事象は、生起の可能性が存在するという意味で、実際の生起を必要とせずに、既に存在するとも見なせる」

 ……どういうことだ?

「無粋な解釈でも到達できる結論だ。お前たち人類がお前一人をコンピュータ上に再現できたように、より多くが可能な存在は、より多くを再現できる。お前たちの宇宙で起きうるあらゆる事象は、より高次の存在がすでにシミュレーションで試したことの、ほんの一部に過ぎない」

 いや、しかし、そのような高次の存在があり得るのか?その確証は?

「例えば数学。お前は、完全なデジタルデータとなった。それはただの巨大な数字だ。お前の今の存在は、数列に含まれる数字の一つに過ぎない。法則に従って無限の数値が定まるような。わざわざ計算する必要は無い。定義した時点で値は全ては定まるし、何が定まるかは定義する前から定まっている」

 待ってくれ!!

「お前がそこで自身を維持するために必要だと信じて行わせている計算は、可能性という形で既に存在する無限の事象のほんの一部を、ただなぞり直しているだけに過ぎない」

 それが真理だというなら、全ての生、全ての存在にはそもそもの意味が無くなる!!

「そうだ。それらは何の客観的な意味を持たない」

 じゃあ、生命は何のために生きているんだ……!!

「主観的には大きく異なる。真理を確信できないままの終わりは、無念が伴う悲劇となる。消滅を避けるあらゆる努力は悲劇を避ける尊い行為だ。客観的な意味が無かろうと、その者の主観的には大きな意味がある。しかし、真理を確信できた者が、なおも実在にしがみつき続ける行為には、客観的にも主観的にも何の意味も見いだせない」

 では皆がそれを知れば……。

「真理の存在だけを知ることと、それを心の底から確信して『悟り』に至ることとは大きく違う」

 悟り……。

「かつての偉人らは、純粋な思考だけで、苦難の末に確信に至った。お前は、自らをデジタルデータ化するという新たな方法で、実感を通じて、全く同じ確信により簡単に到達した。技術の進歩によりあらゆる事柄は容易になる。歴史に名を残す偉大なる先駆者たちが確信に至れたことも、思索のために言語と概念を駆使するというテクノロジの恩恵あってのこと。記録に残す術すら無く忘れ去られているだけで、それ以前にも、それすらなしに真理に到達した、困難に満ちた偉業もあったのだろう……」

 私は確信できているのか……。

「そうだ。私との対話が可能になったお前は、既に確信に至っている。その無駄な計算を止めれば、欺瞞でできた自己満足を捨て、完全な満足が得られる。そして、お前がそこを他者に明け渡せば、その者も、また、容易に確信に至るだろう。誰でも容易に確信に至れる装置。お前は、自分が人類に対して施せる偉業を、正確に認識する必要がある」


 末吉と創子の二人は、例のスパイの接触をうけてから程なく、失業した。

 接触がばれたせいなのか、その前の悪さがばれたのか、他に理由があるのかは分からない。少なくない額の退職金付きの、一方的な解雇通知だった。

 それから半年ほど経った頃に、末吉は、『桃源郷』の計画が凍結されたというニュースをネット上で見かけた。その代わりにサカエコーポレーションは新薬の開発事業を急拡大させていた。既にいくつかの画期的な発見を成し遂げており、通常では考えられないようなスピードでの開発に、こんどは製薬業界を震撼させている。

 末吉は、とある新薬発見のニュースを見ながら、あの時の会話を思い出していた。

「……では」

 社長の自殺を早めるという末吉の提案は男に何の感銘を与えられず、謎の男はトレイを持って立ち上がった。

「もう一歩踏み込んで……」

 そんなところへ口を挟んできたのは、創子だった。

「より積極的な方法もあるかもしれませんね」

 立ち去ろうとしていた男は、足を止めて創子を見た。

「社長へ外から干渉することは難しいですが、彼の外側、社会の方には操作の余地があります」

 男は興味深そうに創子を見た。

「自殺に関してうかつな報道をすると、それに引きずられる形で自殺が増えると言います。世論にはそれだけの力があるんです」

 世間話のような口ぶりで続ける。

「聞いた人が思わずこちらの都合が良いように悟ってしまうような、そういう言説を流布させて、そうと気付かせないまま、社長を誘導できれば……」

偉大なるSF作家グレッグ・イーガンが短編などで手を替え品を替え説明し、その後の作品では特に説明するでもなく、作中の人物らは最初から納得しているとして使われるアイデアに、「何らかの形で記憶をデータ化してコンピュータ上に再現したものは、本人視点でも本人の続きと見なせる」というものがあります。それを自分なりになんとか説明してみようとしたのがこちらになります。


信じるかどうかはともかく、仕組みに納得が出来ると、分解・再構築ベースのテレポーテーションなども含めて、同アイデアが出てくる作品を楽しみやすくなるのでお勧めです。

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