【08-07】
私が、そこに、行く? えぇぇっ!?
「ま、待って! それだと役割が反対だわ。私があなたを慰めたいのに」
と言いつつ、期待するかのように鼓動は跳ね上がり駆けのぼっていく。
「細かいことは気にするな」
気にするわよ……と思いつつ、チラリとエリオンを見ると、さぁ来いと言わんばかりに控えめながらも腕を開いて待ってる。
あなたを慰めるのに私が抱きしめてもらうっておかしいと思うの、とわかってはいるものの、あの場所の温かさをシェリルはすでに知っている。
「エルを慰める意味だから、他意なんて全然……ほんと、これっぽっちもないから」
自分に言い聞かせるようにそう告げると、エリオンはくっきりと眉尻を下げた。
「わかってる。変な誤解はしない。あなたが来てくれれば……それだけでとても慰められるんだ」
その表情がとても悲しげなのは……叶わない婚約者との約束を思い出したから?
「そうなの?」
「あぁ」
「そ、それなら……」
内心ドキドキしながらエリオンに近づくと、背中を引き寄せられて腕に包まれる。
その腕は小さく震えていて、切なさが如実に伝わってくるかのようだった。
約束はもう無効になってしまったのに、その人を想い続けるエリオン。その人が大好きで、ほかの女性には興味がないというエリオン。
切なさと共にシェリルの心に沸々と湧いたのは、その婚約者への羨望の気持ちだ。
この人にそんなふうに思われるなんて、きっとすごく幸せ……。
ぼんやりとそんなふうに思ってハッとする。それはなんて虚しい望みなのだろう。自分はどのみち国に帰る身。そんなことを望んでもどうしようもないのに……。
すると包まれていた腕が緩み、エリオンの指がシェリルの頬を掠める。
「どうしてあなたが泣いてるんだ?」
どうして、か……。素直に理由なんて言ってもどうにもならない。だから――
「わからない」
そう誤魔化した。
「すぐ泣くね」
「違うわ。私はもっと強かったはずなのに、エルといるとこんなふうになるのが……嫌」
弱くて、甘えたがりで、ちょっとしたことで一喜一憂して感情が掻き乱される。そんな自分が歯がゆく、苛立ちにも似た感情が湧き上がるのだ。
するとエリオンがフッと笑う。
「嫌なの?」
「だって……そんなの恥ずかしいもの」
「相変わらずあなたは甘えるのを良しとしないのだな」
困ったような顔で笑うエリオンがシェリルの手の甲に指を走らせると、パッと金に光って円と文字が浮かび上がった。
「何これ?」
「ん? お守り……かな」
「何の?」
「うん……別にあなたが望むなら強くあろうとしたっていいんだ。だけど時には休息も必要だろう? 俺はそういう時の止まり木みたいになれたらいいと思ってる」
「……止まり木?」
「あぁ。本当はずっと止まりっぱなしでいればいいと俺は思ってるんだけど……あなたは嫌なんだろう?」
ちょっとびっくり。エリオンには苦難や恐怖で立ち止まった姿ばかり見せている気がするのに、なぜ止まっているのが嫌な性分だとわかったのだろう。そんな話を無意識のうちにしたのか、隠していても傍から見てモロバレなのか……。
それにしても、止まりっぱなし、か。きっとその止まり木に最初から最後まで止まっていられたなら、ずっと穏やかな気持ちでいられるのだろう。
でもそれは自分らしくないと思える。
「うん、そうね……何だか嫌だわ。誰かの役に立ちたいって思うし、前に進んでる自分がいいって思う。戻るのも止まるのもあまり好きじゃなくて……ほら、私3年も眠っていたでしょう? もう止まってる場合じゃないのよ。遅れてる分、どんどん前に進まなくちゃ」
そう言うと、エリオンはクスッと笑う。
「イノシシみたいだな。猪突猛進」
「えー、それはちょっとダメな気がする……」
「ダメではないさ」
「そう……?」
猪突猛進なんて淑女らしからぬ言葉だ。
するとエリオンがシェリルの手の甲を見つめる。
「だからあなたなりに精一杯やって前に進んで、もしもどうしても進めなくなったなら、その時は諦める前に俺を呼べ。いつだって必ず駆けつける」
エリオンといると、シェリルは自分がとても小さな存在になったような不思議な感覚がする。一人で闘っているのを離れたところから見守ってくれて、そしていざとなったら強気な自分も弱くて脆くて情けない自分も、丸ごとふんわりと包んでくれるような、そんな気がするのだ。
「私のこと止めないのね。無鉄砲だとか無茶をするなとか言ってたのに」
するとフッと笑みを向けたエリオンは、またシェリルを優しく抱きしめた。
「止めたい気持ちもあるにはあるけれどな、あなたの望むことを……あなたらしさを、俺は大事にしたいと思うだけだ」
「……イノシシみたいでも?」
「あぁ。イノシシでも、ライオンでも兎でも強くても弱くても何でも、あなたはあなたらしくいればいい」
そう言われた瞬間、無理矢理結んでいた結び目をパッと開放した時のような、花が芽吹く瞬間のような清々しさが胸にスッと広がる。
充足していくようなこの気持ちは何だろう。
これまでは、慎ましく淑やかであることを求められ、自分らしさなんて覆い隠して淑女として陰でひっそりと誰かのために尽くすものなのだと思ってきた。それが当然なのだと思っていた。
でもそうではなく、エリオンには自分らしくありのままでいいと言われたような気がする。
エリオンという人は、私自身を、私の根本を見てくれようとしているのだろう。そう思う。
……きっとエルは、私よりもずっと心が広くて器の大きな人なんだわ。
「エル、ありがとう」
そう伝えてエリオンの背中に腕を回して抱きつくと、エリオンの腕にもグッと力がこもる。それが泣きたいほどに幸せだ。
この気持ちをなんというのだろう。名前なんて知らないこの気持ちは、シェリルの胸を高鳴らせも苦しくもした。
そして胸の奥から湧き上がる抱いてはならない気持ち――『帰りたくない』『この人のそばにずっといたい』
――そんな心の声を、無理やり押し込むようにゴクリと唾を飲み込んで胸の奥底に仕舞い込んだのだった。