【06-03】
翌日夕方。
私、これでよく生きてたわね、なんて感心しながら崖肌をたどって見上げていると、エリオンはサラリと言う。
「よし、行くか」
「……いや、『よし、行くか』じゃないわよ。本気?」
「もちろんだ」
目の前に聳え立つ、切り立った崖。ヒョウヒョウと冷たく唸るように強風が崖肌を吹き上がるっていく、高さ200mほどもある紛れもない断崖絶壁。
これを前に「行くか」と言うこの人は正気だろうかと疑ってしまう。
「いいや、行こうと思えばすぐにでも行けるよ」とエリオンが言ったのは昨日のこと。そして今日はプラッと散歩に行くかの如く軽い調子で「上にいるやつらに話を聞きに行ってみるか。手始めに散歩がてら偵察だ」と言われて行動制限の魔法陣を解除され、アニーに支度を整えてもらってできうる範囲変装してここへやってきた。今日のシェリルは男装している。帽子を被って男性用の服を着ただけだが、華奢さのおかげで少年のように見える。
それにしても――
(極秘の国境越えって……貴族が庭園散歩する感じでいいのかしら?)
エリオンは、忍ぶわりには上質な白いシャツに黒いパンツ、美しい刺繍の入った靴と、なかなかきっちりした美麗な服装をしている。どこが普段着? と突っ込みたくなるが、一応普段着らしい。
ただ、服装どうこう以前の問題で、エリオン自身の放つキラキラのオーラと黒のツヤツヤな髪と眩いほどのグッドルッキングだけでもすでに目立つのだ。
しかもてっきりアランやその他騎士団員も一緒なのかと思いきや、二人だけで行くらしい。
崖の上には悪い輩がいるはずなのだが、こんな緩い服装で大丈夫なのだろうかと不安が過る。剣も持たず、防具も身につけず、輩対策はゼロに等しい。
「ねぇエル、どうやってその……『偵察』に行くの?」
そして崖の上まで行く手段が不明だ。するとエリオンは小首を傾げる。
「どうって……だからここから見に行く」
……うん。だからね、その意味がわからないのよ。
するとエリオンが思い出したように問う。
「ところで……あなたは抱き上げられるのと抱きつくのではどちらが得意だ?」
……待って。そこに得意不得意ってあるの?
なんて意味不明なのだろう。貴族女子の間でも『私は抱き上げられるのが得意』『私は抱きつくのが得意だわ』なんていう会話は聞いたことがない。
おまけに想像すればするほど恥ずかしくて答えにくい。
「なっ、何よそれ……」
「何って、崖の上に行くのに俺があなたを抱き上げて運ぶか、あなたが抱きついて運ぶかの違いだ」
なるほど、運搬方法の話か。
そこでシェリルは想像を膨らませてみる。
抱き上げて運ぶ。
それはエリオンがいわゆるお姫様抱っこをしてくれるということなのだろう。シェリルの頭の中には、お姫様抱っこでクルクル回りながら二人でふふふふと笑っている男女の姿が描かれた。
(ダッ、ダメよ! そんなの、まるで仲睦まじい恋人同士みたいじゃない!)
では抱きつく。
これはつまりエリオンにしがみつくということなのだろう。しがみつく……しがみつく……。思い浮かんだのは木にしがみつく蝉の姿だ。
(蝉ならいいかしら……)
ぼんやりそう思って数秒後、頭をブンブン横に振る。
違う、木じゃない。しがみつく相手は男だ、エリオンだ、グッドルッキングだ。
(そ、そんな……心に決めたわけでもない男の人に自分からしがみつくなんて……)
そう思ってすぐに自分に呆れた。寝ぼけていたとはいえ、すでに彼には抱きつき済みなことを思い出したのだ。しかもそのまま朝まで一緒に眠ってしまって……ぷしゅぅぅぅ。
(やだぁ、どうしよう……よく考えたらなんて大胆なことをしたの!? あーもう、信じられない……)
「――嬢? シェリー嬢、話聞いてるか?」
「へっ!? は、はい! 蝉の方でお願――……」
焦って思わずそう答えると、エリオンとの間に沈黙の時が流れる。
………ヒィィッ、まぁぁぁちがぁぁえたぁぁぁ!
目をぱちくりさせたエリオンは、数秒後に首を傾げて話し始めた。
「抱きついてくれると俺の片手の自由がきいて、より安全に運べる」
「そ、そう? それなら私が……だ、抱きつく……わ」
ぷしゅぅぅぅ。もうやだぁ……蝉とかわけわかんないこと言っちゃったし、自分の口から『抱きつく』なんていう大胆ワードが飛び出したぁぁぁ……。
羞恥に手で顔を覆っていると、「さぁ、行くか」とエリオンの声が聞こえる。そしてじっと見つめるエリオンの言いたいことは……そうよね、抱きつけってことよね。
そう理解して、シェリルはおずおずとエリオンのそばに寄った。
これで足までしがみついたら本当に蝉ね……なんて思いながらエリオンの腰の服の一部を握りしめるように掴むと、エリオンが首を傾げる。
「もっとしっかり掴まれ。その方が怖くないと思うぞ」
「……えっ!? あ、うん……」
心臓がバクバク鳴るのを感じつつ、今度はエリオンの腰回りにそっと腕を回すと、さらにエリオンが首を傾げる。
「もっとそばに」
そう言ってシェリルの腰に手を回したエリオンは、グッとシェリルを自らの元に引き寄せる。
ちちちっ、近い……。
顔が熱すぎて蒸発して消えてなくなりそうな感覚だ。
「心配するな。絶対にあなたを落としたりは――……」
途中で言葉が止まったのが不思議でエリオンを見上げると、バチーンと間近で目が合う。するとみるみるうちにエリオンの顔が赤く染まっていき、僅かに揺れる漆黒の瞳がツイッと逸れていく。
「そんなに照れられると……こっちまで照れる」
「ごめん……だって……」
「あなたも令嬢ならダンスくらいはできるのだろう? そのようなものだと思っておけばいい」
「う、うん……?」
いやいや、ダンスではパートナーにこんなふうにしがみつかないわよ?
何なのこのドキドキ蝉シチュ。
心臓壊れる無ぅぅぅ理ぃぃぃ……。