【05-05】
獅子に狙いを定められた子兎のごとくブルブル震え、忙しなく呼吸を繰り返す折にゴクリと唾を飲み込むと、押し出されるようにほろりと涙が頬を伝った。
「……ッ……ごめ……っ……ごめん……なさい……」
わけもわからず謝り、震えながら身を守ろうとすると、掴まれた手はパッと離れていく。
「……悪い。怖がらせたいわけではないんだ。シェリー嬢、俺がわかるか?」
静かになるべく穏やかな声で。そう気遣ってくれてることのわかる声で話しかけられ、少し冷静になったシェリルは涙を無かったものにするかのようにゴシゴシと拭った。
「うん……エル……」
「勝手に部屋に入ってすまない。酷くうなされていたぞ」
自分の状況を見てみれば、崖ではなくベッドの端から落ちそうになっていたことに気づく。
そして顔も体も汗でびっしょり。眠って起きれば何度も同じ状況だから『まただ』という感覚だが、一向に慣れずに一人で何度も悪夢と闘い続けていた。
恐怖を逃すように深く息を吐き出すと、震える手を隠してシェリルは取り繕った。
「ごめんなさい……。エルが謝ることはないわ。騒がしくして、迷惑……かけて……しまっ……て……」
ホッとして再び溢れ出しそうになった涙を堪えた結果、掠れた声は震えを伴い、思いのほか小さくて情けない声にしかならなかった。
「そんなことは気にしなくていい」
不意にエリオンが汗で湿る前髪にサラリと触れると、辺りが一瞬鈍く金に光る。すると部屋の中なのにザッと強風が吹いて、びっしょりだった汗が瞬く間に引いていった。
「悪い、強すぎたな」
エリオンはそう言って、風で乱れた髪を整えてくれる。
「え? うん」
「少し……緊張してしまったんだ」
「そう……」
……何、今の……魔術? かつらの人ならピュンッと飛んで行っちゃうわよ……。
シェリルが目をぱちくりさせて固まっていると、次にエリオンの手がシェリルの顎をクイッと持ち上げる。
「血が滲んでる……」
唇を見つめる漆黒の瞳は険しく細められ、ゆらゆらと揺蕩う様子が見える。そんなに悲しそうな顔をしなくてもいいじゃない。大袈裟ね、と言いたくなるほどに。
「自分で少し噛んだだけ。平気」
恐怖で唇を噛み締めすぎて出血したのだ。口の中に僅かに鉄の味を感じるのはそのせいだろう。
唇にも指が撫でるように触れて鈍く金に光ると、エリオンの憂うような表情が目に映った。
「治癒は繊細で……不得手だから拭っただけだ」
「そう……。でも魔術って便利なのね」
「……」
……えっ、なぜ黙るの? 何か変なこと言った?
再び目をぱちくりさせていると、エリオンが話し始めた。
「医官を断ったと聞いたが、昨日から足元がふらついていた。熱があるのだろう?」
そう言われてビックリ。そういえばずっと体が怠かったことを思い出す。
「気づかなかった……」
「そうか。あまり気安く干渉するのもどうかと思って迷っていたんだ。だがもっと早く来ればよかった。先ほど額を冷やしたが、もう少し冷やしていた方がいい」
「冷やしてくれたの? ありがとう」
そう伝えてすぐフイッと背けたエリオンの横顔は、薄暗くてはっきり見えないが、ちょっと照れているように見える。
「いや、いい。それより昨日もほとんど眠れていないだろう? どうしたんだ?」
そう言われてピクッと肩を揺らす。
アニーにもきちんと話してないのに、どうしてそれをこの人が知っているのだろう。
「別に……平気」
「平気ではないだろう?」
「平気よ! こんな程度の――……」
こんな程度のこと、一人で乗り越えられなくちゃダメなの、と言おうとしてハッとして口を噤んだ。
乗り越えられなければどうだというのだろう。仮に乗り越えたとして、その先に何があるのだろう。
目的地を見失った自分はどこに向かえばいいのかわからない。
そう思うと心が急速に冷えていくのを感じた。
3年も眠り、目覚めてみれば夢破れ、さらには命を狙われ、他国の城で帰ることもできずにいる自分。
シェリルにとってはほんの10日ほどという短期間に、次々と変わる状況。気持ちが追いついておらず、追いつこうとして必死に走ってふと足元を見れば真っ暗闇。最早自分がどこに立っているのかもわからない。
シェリルが俯いてボーッとしたまま黙っていると、エリオンが再び口を開いた。
「ここが地獄だと思っている時のあなたが……恐らく本当のあなただったのだろうな。あの時のあなたを引き出したいと思うのは、俺のエゴだろうか」
「……え?」
「あなたはあまり人に甘えるということをしないようだ」
「だって……そんなことは――……」
ぼんやりしていてついつい本音を口走ってしまいそうだった。エリオンの穏やかな声と口調がまた話しやすさを誘うのだ。
「なるほど。甘えることを良しとしない、もしくは許されない環境にいる、ということか?」
ズバリと突かれた核心に「ウッ」と声が漏れそうだった。
父は厳しく、母と兄は優しくてか弱く、自分自身には王子妃候補として知的で品格のある淑女であることを求められ、強い自分でなくてはならなかった。
それなのに『本当は甘えたい』なんていう子供じみた本音を抱えているなんて恥ずかしいことであり、言えないことだったのだ。
するとエリオンが「そうだ」と思い出したようにベッドから離れ、近くのテーブルに向かう。そしてティーカップを乗せたトレーを手にして戻ってきた。
「飲むか? まだ温かいぞ」
「ありがとう。……それ、何?」
ティーカップに入ったミルクのような液体を見てシェリルが問うと、エリオンが目を点にして固まる。
……なぜ黙るの?
シェリルが目をぱちくりさせて見つめていると、首を傾げたエリオンがようやく口を開いた。
「さぁ……何だろう。わからない」
……はい?