【05-01】絶望の向こう側
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「それでね……婚約者とはもう会ってはいけないんだって思って、でも最後にこれまでのお礼を伝えたくて、もう一度だけ会うことにしたの。だけど……その前に私……さ、攫われて……ッ……」
エリオンに話をしていたものの、その後のことは思い出そうとするとカタカタと体が震え出し、奥歯がガチガチと鳴り始める。そして足元が次第に暗くなって見え、背中にツーッと汗が伝うのを感じた。
「シェリー嬢」
エリオンに呼ばれてハッと我に返ると、苦しさで慌てて肺に息を取り込む。荒い呼吸を抑え込むように胸を押さえながら、表情は必死に取り繕った。
「は、はい?」
「もういい。本意ではない」
「……」
「辛くさせたかったわけではないんだ。悪かった」
「……い、いいえ、全然。平気よ。問題ないわ」
培った淑女の笑顔を向けると、エリオンがじっと見つめる。
じっと……じーっと観察するように瞳を向けられると、笑顔が保てなくなってきて目を逸らした。
「なっ、何よ……」
「あ、あぁ、すまない。俺はこのあと仕事が残ってるから失礼する。ゆっくり休め」
そう言ってエリオンは部屋を出ていく。
それと入れ替わるように、今度は侍女が部屋に入ってきた。
「初めまして、アニーと申します。ご用は何なりとお申し付けくださいませ」
魔王みたいな暗黒色の服を纏うエリオンとは打って変わって、ワインレッドのお仕着せに白いフリルのついたエプロンを着たかわいらしい笑顔を浮かべるアニーは、少し年上に見える赤毛の女性だ。とは言っても、精神年齢14歳のシェリルの目から見てお姉さんっぽく見えるという話だから、実際は同い年くらいかもしれない。
「えっと……アニー、よろしくね。私のことはシェリーって呼んで?」
「は、はい……シェリー様……」
なぜかうっとりと見つめるアニーの瞳に、涙とハートが浮かんでいるように見えるのは気のせいだろうか。控えめな性格らしいアニーは、名前を呼ぶだけでモジモジしている様子。非常にかわいらしい。
「様なんていらないわ」
「とんでもないことでございます。主様の大っっ切なお客様なので」
妙に『大切』の部分に力がこもっているのはなぜだろう。
それにしても『主様』か……。いまいちエリオンがこの城塞の主人というのがしっくりこない。全然無骨なタイプではなく、品があって華奢な若者だからだ。
「アニー……あの人って、本当にここの主人なの?」
するとアニーは目を爛々と輝かせて答える。
「もちろんでございます! エリオン・ヴィトゲンシュタイン様は無名から武勲を立て、たった2年で、このベリタス一帯を統制するために組織された王国騎士団第3部隊の隊長を務められるまでにのし上がった方。目の前の敵をバッタバッタと倒すその圧倒的な強さは王国一とされております」
煽るように語られたアニーの言葉にびっくり。どうやら頭を使うタイプの司令官ではないらしい。
『無名から武勲を』ということは、貴族の生まれではないということなのだろう。
そしてたった2年でとは……。つまりは計り知れない強さということなのだろう。
正直言って、見た目の麗しさからは想像できない。
「へ、へーえー、あの人そんなに強いのね……」
「はい! あの美しいお顔立ちからは想像できないほど冷酷無慈悲ともっぱらの噂。傑出した力の前に、苦しさなんて感じないうちに天に召されるということから、巷では『漆黒の天騎士』と呼ばれております。王様の信頼も厚く、辺境のこの地を若くして治められている大変優秀で立派なお方です」
漆黒の天騎士? あぁ、だから『テンキシサマ』と呼ばれていたのね、とようやく納得。
でも冷酷無慈悲? そうなのだろうか。穏やかな口調の人物で、どちらかというとちょっとおどおどした変な人、と思ったが、まぁ確かにじっと睨まれると怖い。
それにアランが恐れる理由も納得。
そして本当にここの主人であり、どうやら騎士団の隊長を務めているらしい。
ようやくエリオンという人を少し知ったのだった。
「あの、シェリー様……湯浴みと、お着替えをなさってはいかがでしょう?」
「えっ」
アニーの視線の先は、シェリルの胸元。昨夜渡された毛布とエリオンのマントを羽織ってここまで来たのだが……そうだ、服が破けてるんだ。
そう思った途端、急に昨夜の崖上での出来事を思い出してゾクッと寒気が背筋を駆け抜けた。カタカタと体が震えて止まらない。
「シェリー様、震えていらっしゃいます。しっかり温まってください」
どうやらアニーには寒さで震えていると思われたようで幸いだ。
「あ、うん……でも私、着替えなんて持ってないし、買うお金も持ってないの」
「主様のお申し付けでご用意がございますのでご安心ください」
「……そうなの?」
変な人だけど案外気が利くんだ、と思うのは失礼だろうか。
「はい。ですからお早く」
シェリルは好意に甘えることにした。
入浴後は昨夜の疲れや睡眠不足のためか急激に眠気が襲い、早々にベッドに入った。
途中アニーに夕食の案内をされたような記憶がぼんやりとあるが、寒気がして体が重怠く、眠気が強くて起きられなかった。
だが目を瞑っていると、瞼に映る暗闇にゾクリと背筋が凍り付く。
あぁまただ……体が、心が、次第に闇に溶けていく。