帝の侍衛(商人との再会)
礼服に着替えてから、私はイオナッツと共に皇帝陛下を食堂までお送りした。正午の鐘が鳴り響き、初めの侍衛の仕事はこれで終わりだ。父親とレオンティオは陛下に別れを告げて退席した。父親は今日帰りが遅くなるかもしれないと言ったが、私に伝えたいことがあるので、彼の帰宅を待つようにとのことだった。
イオナッツは、初めての仕事は護衛としてはギリギリ合格だが、皇帝陛下を喜ばせることができたことが何よりだと言った。彼が言ったのは踊りのことだろう。侍衛の服を着ている時にその話をするのはやめてほしい。とても恥ずかしいです!
食事を終わった後、私は学院に行って、授業免除の試験のことを尋ねた。トルニクを見つけて、文学授業免除の試験は6日後に予定されていると教えた。さらにガヴリルを訪ねて神学の授業免除の試験について聞いた。ガヴリル先生は手配をしてくれるが、こちらも6日後だと言った。彼はまた、時間を見つけて研究内容を紹介したいとも言った。最近板金鎧の注文も必要なので、授業免除の試験が終わってから彼の話を聞くことに決めた。
夕食後、久しぶりに部屋に戻って読書をするのではなく、教室として使われている会議室でシルヴィアーナに読み書きを教えた。今日の家庭教師が教えていたのは神学の経典で、宿題は古の神官の注釈を読んで、古典語で読書ノートを書くことだった。シルヴィアーナだけでなく、ハルトとアデリナも理解できなかった。私は自分なりにもう一度説明した。彼らが読書ノートを書き終えた後、私は文法の誤りを修正した。修辞については、今の彼らにはまだ早いようだ。
宿題を終えたのは、もう夜遅くの鐘が鳴った時間だ。私はシルヴィアーナと一緒にお風呂に行った。屋敷の浴室は大理石で作られており、ゆぶねは私にとって広すぎる。一人で入ると9歳の時の下水道を思い出してしまいそうだが、今はシルヴィアーナとアデリナがいるので、そんな感覚になることはほとんどなくなった。私は部屋が足りないことを口実にして、シルヴィアーナとアデリナに交代で一緒に寝てもらうことにした。彼女たちも喜んで受け入れてくれた。
貴族の侍女たちは本来、夜中の急な呼び出しに備えて、主の寝室の隣にある小部屋で交代で寝るものだ。皇帝陛下の部屋もそういう構造だ。私は夜中に悪夢を見て目が覚めた時、誰もいないと怖くなる。だから以前はアデリナとビアンカが交代でその小部屋で私を見守ってくれていた。最近は悪夢を見ることも少なくなった。私はスキンシップを望むタイプだ。アドリア領を離れてから、母親とは離れたが、アデリナとシルヴィアーナがいるので、スキンシップは以前と変わらずあると感じている。
浴室から出た後、父親はまだ帰ってきていなかった。今朝早く起きたので、もう少し眠くなってきた。ハルトとアデリナはすでに休んでおり、シルヴィアーナがまだ私と一緒に食堂に座っていた。私は彼女に頼んで、食堂からホットミルクを2杯持ってきてもらった。
「シルヴィアーナ。あなた今はまだ成長期だから、もっとミルクを飲まないと。」私は母親のような口調で言った。
「キュルクス部族では牛を飼えなかったので、あまりミルクを飲んだことがないよ。ニキタス商会に買われてからこそよく飲むようになった。だからミルクにいい思いはないよ。」シルヴィアーナは私の隣の椅子に座り、ミルクを飲みながら言った。
「そういえば、反乱軍の首領が今日から公開で処刑されるって聞いた。」私は言った。
「そうだよ。午前の授業中にイラリオ先生がその知らせを教えてくれた。アデリナが午後、プリヌスの処刑を見に連れて行ってくれたよ。」シルヴィアーナはミルクを飲みながら答えた。
「おめでとう。やっとお父さんの仇が討てたのね。」私は言った。私の仇はどうだろうか?以前は父親と皇帝陛下が敵だと思っていたが、今では帝国のオーソドックス貴族こそがリノスでの悲劇の根源だと感じる。とある人を相手にするのであれば、復讐は簡単だ。プリヌスのように、ただ機会を見つけて殺せばいい。しかし、社会階層を対象にすると、どう復讐すればいいのだろう?
以前は、自分が不吉な存在であることを理由に、オーソドックス貴族が集まる帝都に来ることが復讐だと思っていた。彼らの側にいるだけで、彼らに破滅をもたらすことができると思っていた。しかし、それは少し自分を欺いているし、あまりにも消極的だ。もっと積極的に何かをするべきだろうか?皇帝陛下は父親とレオンティオがオーソドックス貴族に対する剣と盾とするなら、私は父親の助力になるだけで復讐になるのだろうか。
「ルチャノ兄さん。プリヌスが処刑されるのを見て嬉しかったけれど、お父さんはもう帰ってこない。あなたは私を自由にしてくれたけど、奴隷の入れ墨は消えない。以前はプリヌスを殺すだけで、全ての問題が自然と解決すると思っていた。でも今はそうではないと分かっている。」シルヴィアーナはテーブルクロスの模様を見つめながら低い声で言った。
「そうだ。過去は償えない。たとえ復讐を成し遂げても、死んだ人は帰れない。」私は言った。私はずっと知っていた。何をしても、天国に行くまでは、父上と母上に夢の中でしか会えない。それでも、悲劇の元凶に代償を払わせたい。
「でも、少なくとも今はルチャノ兄さんがそばにいてくれるよ。」シルヴィアーナは私に抱きついた。
「うん。ありがとう。」私はシルヴィアーナの頭を撫でながら言った。
父親は深夜の鐘から二度目の鐘が鳴った後帰ってきた。彼は食卓に伏せて眠っていた私とシルヴィアーナを起こした。あれ、私は確かシルヴィアーナに教会の寓話集を読んでいたはずだ。眠そうなシルヴィアーナを部屋に行かせ、私は父親について書斎に入った。
「セレーネー。お前は前回謁見の間で陛下にお会いした時に踊ったのでしょう?陛下と二人きりで話をした時に?」父親は書斎の机に座りながら言った。
「はい、父親。」私は机の向かいに座りながら答えた。
「そんなことをする前に俺に言うべきだった。」父親は右手で額を押さえて言った。
「ごめんなさい、お父様。当時、陛下は私がリノスの王族であることを知っていると暗示していました。でも陛下は私を引き続き庇護すると言ってくれました。私はその時、陛下があまりにも疲れた表情をしているのを見て、感激して踊って差し上げました。」私は素直に言った。
「はあ。陛下はそういう方だ。時々無害だが明らかに無理をさせるようなことをお願いしたがることがある。しかし、それも悪いことではない。俺とレオンティオはずっと陛下の体を心配している。皇太子殿下はオーソドックス貴族の影響を受けすぎていることも、陛下は彼を心配している。少なくともお前は彼の疲れを癒すことができる。」父親は言った。
「今日陛下の願いを聞き入れることで、犠牲になるのは私の羞恥心だけで、陛下とお父様にとっては利益があると思いました。覚悟を持って応じました。」私は言った。
「うん。申し訳ないが、礼と言わなければならない。今晩俺は再び陛下とレオンティオに会った。陛下はお前がアドリア領に行った直後にレオンティオを派遣して、お前の身分を調査したことを言った。髪を短く切り、男の子として育てたとしても、お前の髪と瞳の色はリノスの王族を連想させずにはいられない。しかし、陛下とレオンティオはお前を守るつもりだ。オーソドックス貴族は今が心配いらない。彼らはお前の正体に気づいていないし、服を脱がせてヤスモスでリノス王国の魔導具を使って検査しない限り、お前がリノスの王族である確かな証拠はない。」父親は言った。
「やはり、陛下とレオンティオ様はずっとまえから知っていたんです。」私はうつむいて言った。
「それも良いことだ。少なくとも、彼らの前でこの秘密を守り続ける必要はなくなった。これは本当にいいことだ。それに、彼らにお前を見て征服された各国の悲劇を思い出させるべきだ。俺一人だけが苦しむのではなく。」父親は言った。
「陛下はすでに私に謝罪してくれました。」私は言った。
「そうだろうと思った。今日のお前はまるで彼を叔父のように扱っていた。だがセレーネー。お前はまだ社交経験が少なく、自分が認めた人に無条件で尽くす傾向がある。これでは簡単に騙されてしまう。特に、お前の正体は他の誰にも暴露してはならない。それだけは肝に銘じておいてほしい。」父親は言った。
「かしこまりました、お父様。」私は言った。確かに私は反省している。
「この件はここまでだ。それでは次に、ニキタス商会に鎧を注文したい件についての話だ。ミハイルがすでにソティリオスと時間を予約している。4日後の午後だ。イオナッツに確認したところ、お前はその日侍衛の勤務がないことが分かった。」父親は言った。それは文学と神学の授業免除の試験の前のことだろう。
「ありがとうございます、お父様。」私は言った。
「そうだ。お前がキャラニに来てから小遣いを渡していなかったな。明日から毎月1枚の金リネを小遣いとして渡そう。ミハイルにメモを渡すから、明日彼から今月分を受け取るといい。月に10回ほど侍衛の勤務をすれば100枚の銀リネを得ることができる。そのお金で鎧を注文し、フィドーラ殿下とのデートの費用も自分で出すことだ。お前は伯爵領の後継者であり、お金の認知を持たないといけない。」父親は言った。
「お父様、金リネと銀リネはどのくらいの価値があるのでしょうか?」私は尋ねた。リノス王国でもアドリア領でも、私は外で物を買ったことがしない。ミハイルは衣服、食糧と武器などの価値について教えてくれるが、本で読んだことがあるだけで、実際に物を買ったことはない。この世界の通貨の購買力がまったく分からない。
「これはとても複雑だ。リネは帝国の通貨で、代々の皇帝が自分のリネを作る。材質によって金、銀、銅に分かれるが、異なる材質のリネ間の価値は頻繁に変動する。三人家族の1年間の生活料は、アドリア領では銀リネ15枚だけで十分だ。帝都では約30枚が必要だ。詳細は後でミハイルかソティリオスに聞いてくれ。」父親は言った。侍衛の一度の勤務で10枚の銀リネの報酬を得られるなんて、本当に高いな!
「ありがとうございます。」私は言った。
「さて、寝る時間だ。お前もかなり疲れているようだ。」父親が立ち上がろうとした。
「お父様、もう一つ質問があります。」私は急いで父親を呼び止めた。
「うん?何だ?」父親は驚いた表情を見せた。確かに、以前の私は父親をこんな風に呼び止めて、会話を延ばすことはしなかった。
「今日の午前中の内閣会議で、陛下はあらかじめミラッツォ侯爵がルシダ領の反乱を煽動している証拠を持っていることを知っていましたか?」私は尋ねた。この点は気になった。父親が皇帝陛下を隠れて皇后の家族や皇太子の母族を調査するなんて、想像すら恐ろしい。
「陛下は俺がパイコ領にいた時から知っていた。レオンティオも同様だ。今回の行動はレオンティオが主導したものだ。俺は内閣会議のような場所で何の根回しがなく、直接にコスティンを攻撃するほど愚かではない。もちろん事前に皇帝陛下に報告した。それに、公爵は名誉爵位として授与され、王位を継承できない皇子や公女に与えられるものだが、継承のたびに降格される。したがって、領地を持つ侯爵が帝国で最も高貴な貴族だ。ミラッツォ侯爵はこれらの侯爵の中でも地位が高い。皇后陛下はミラッツォ家の出身だ。皇帝陛下が若い頃に彼と結婚し、二人の間には深い絆がある。ミラッツォ侯爵も皇后の親族の立場を利用してオーソドックス貴族の中心となった。皇帝陛下は当初、ミラッツォ侯爵の力を借りてオーソドックス貴族を団結させようと考えていたが、彼らは逆に帝国の政府と軍隊を完全に支配しようとした。陛下を支配できないと察知した彼らは、皇太子殿下に目を向けた。皇帝陛下はミラッツォ侯爵に手を出そうと考えたこともあったが、彼をやぶれると皇后陛下と皇太子殿下にも関わることになるため、陛下もためらっていた。今回、俺たちはミラッツォ侯爵の失脚を陛下に渡し、陛下の意見を待つことにした。」父親は言った。
「ありがとうございます、お父様。」話を半分も聞いたところで、私は聞きたくなくなった。大人の政治は本当に複雑だ。
「お前がこの質問をしてくれて、俺は嬉しい。武人であっても、積極的に政治を考えしなければならない。さもないと、他人に操られる駒にしかならないだろう。さて、寝る時間だ。」父親は立ち上がりながら言った。
「おやすみなさい。」私も立ち上がり、父親が書斎を出て行くのを見送った。その後自分の部屋に戻って寝た。
その夜、私は再び眠れなかった。キャラニの皇城は本当に恐ろしいものだ。父上と母上はどうやって国を治めていたのだろうか?私の記憶では、リノス帝国は平穏な小国であった。貴族、平民、そして王室もあるが、帝国のように激しい対抗しなかった。なぜ帝国はこのようになってしまったのだろう?
長い間考えても答えが見つからなかったので、しばらくやめることにした。そして、学校生活を始めた。イラリオ先生は私がすでに回復していると言ったので、毎日家に帰るとミハイルが私の剣術と馬術の指導をしてくれた。次回の侍衛の仕事は3日後の休日だ。今回は皇帝陛下が私に踊りを求めなかったので、気分が良かったのかもしれない。しかし休日の侍衛の仕事には追加の手当がないので、私は非常に不満だった。
翌日はソティリオスに鎧を注文する日だった。ミハイルがくれた1枚の金リネと侍衛の仕事で稼いだ20枚の銀リネを持ち、私はアデリナとシルヴィアーナを伴ってニキタス商会の本部に馬車で行った。都のキャラニはサヴォニア川の南岸に位置し、西から東にかけてサヴォニア川に沿って建設された。この地域は丘陵と平原の境目であり、帝国西部の山岳地帯と東南部の平原地帯をつなぐ要衝で、地形全体が西高東低になっている。皇城はキャラニの西端にある小丘にあり、付近最も高い位置にある。皇城を囲むように堀が作られ、城壁と塔の上からは都市全体を見下ろすことができる。
皇城の北側はサヴォニア川の南岸に隣接しており、ここには王室の船着場が作られている。普段は皇室の遊覧船と近衛軍の水軍の軍艦が泊まっている。南側には近衛軍の本部があり、父親の執務室もここにある。しかし私はまだそこに行ったことがない。ここには主に近衛軍の野戦部隊が駐屯しており、騎兵や歩兵が含まれている。軍営の主な建物は北側に位置する小さな砦であり、砦内には宿舎や軍用倉庫がある。砦の南側の広大な区域は演習場で、皇室の狩猟場としても利用されている。演習場の西側は山岳地帯に近く、グリフォン軍団の軍営がある。この部隊はグリフォン騎士とペーガソスライダーを中心とした部隊であり、大陸内でグリフォン騎士がここだけいる。
皇城から東に向かい、堀に架かるいくつかの吊り橋を渡るとキャラニの市街地に出る。西から東にかけて教会と高級住宅街、商業街、普通住宅街と工場街があり、各区域はさらに多くの小さな街に分かれている。教会と高級住宅街は皇城に最も近い場所に位置し、吊り橋を渡るとすぐに到着する。ここで皇城に近い西側は教会街である。教会街の東側には主に貴族や高級官僚の屋敷がある。学院の宿舎と商店街など、いくつかの教会と商業の施設も散在している。
教会街と高級住宅街の治安は最も良い。大通りでは近衛軍の警備部隊が常に巡回する。貴族の屋敷は貴族に所属する軍隊が守り、官僚の屋敷と教会の警護は近衛軍の警備部隊が担当している。さらに東に進むと、市場や商会本部が集まる商業街があり、その先には平民が住む普通の住宅街がある。最東端は工場街で、多くの工房が集まっている。私は教会と高級住宅街はまだ行ったことがない。キャラニの市街地全体も城壁と堀で囲まれており、城壁には一定の間隔で塔が設置されている。堀も運河と水路として使われている。しかし、市街地を囲む城壁は皇城の城壁に比べて低いし、堀も浅い。
ニキタス商会の本部は商業街の北寄り、城壁とサヴォニア川に近い場所に位置している。これは石造りの三階建ての建物だ。外観には花や草の装飾が彫刻されており、精巧に設計されていることが一目で分かる。ホールにはカーペットが敷かれ、タペストリーが掛けられている。一階は喫茶店のような接客スペースになっているようで、周囲には仕切られた小さなテーブルが並んでいる。おそらく営業担当者が商談しやすいように設計されているのだろう。中央には受付のカウンターがあり、四方には商会の様々な商品が展示されている。
「こんにちは。お取引のご用件ですか?」一人の受付嬢が近づいて尋ねた。
「ニキタス商会のソティリオス様にお約束があります。」私は言った。
「かしこまりました。お名前を伺ってもよろしいですか?」受付嬢が尋ねた。
「ルチャノと申します。」私は言った。
「ありがとうございます。こちらで少々お待ちください。」受付嬢は私たちを仕切られた小さなテーブルに案内し、座るように促した。それから彼女はカウンターの方に戻った。しばらくして、別の受付嬢がやってきて、私たちに紅茶を持ってきた。
「毒はない。」アデリナが私の前で一口飲んで、小声で言った。私は頷いた。ソティリオスが私に毒を盛るはずはないが、ルシダ部族の反乱以降、外での警戒を強めるべきだと感じていた。
「ああ、ルチャノさん。こんなに早くまたお会いできるとは思いませんでした。運命の神の計らいでしょうか。」私はニキタス商会の受付嬢のプロフェッショナルに感心していたところ、ソティリオス様の声が近づいてきた。この言葉が終わる頃には、彼はすでにテーブルの隣に立っていた。
「ソティリオス様。北方にいた時よりもお元気そうです。やはりここが商人の戦場です。ここで私を護衛していただけますか?」私は微笑みながら言った。ソティリオスは華やかな礼服を着ていた。しかし貴族の礼服に見られる肩章や飾緒のような要素はなく、多くの刺繍が施されていた。これは商人がよく着る礼服だ。ソティリオスは名誉子爵として、貴族の礼服も商人の礼服も着ることができるが、彼はこの装いの方が好きなようだ。
「喜んでお守りいたします。アデリナさん、シルヴィアーナ。お久しぶりです。では、私の部屋でお話ししましょう。」ソティリオスは言いながら、階段を上って私たちを上階に案内した。
ソティリオスの部屋は三階の廊下の南側にあった。ニキタス商会の西北地方の責任者である彼は、やはり商会の大人物であることが窺える。この部屋にもカーペットが敷かれており、花や草の模様が織り込まれているが、何の花かは分からなかった。部屋の正面には大きな窓があって、今は全て開かれている。日差しがカーペットに差し込み、花草がまるで生きているかのように感じられた。部屋の左側には大きなデスクがあり、その背後には本棚が並んでいた。
さらに廊下に面した壁には風景画が掛けられており、山岳地帯を貫く大河が描かれている。右側には木製のソファとティーテーブルが並んでいる。この世界ではまだスプリングマットレスやソファは存在しないので、ここにあるソファは木製の長椅子や寝椅子に柔らかなクッションを敷いたものである。しかし、私はそれでも非常に気に入る。木の板に直接座るよりも快適だった。
「ルチャノ様、どうぞお座りください。今年新しく出た紅茶をぜひお試しください。我々商会が南方で茶葉を収穫し、自ら加工したものです。」私たちが座ったばかりの時、受付嬢が紅茶の壺を載せたトレイを運んできた。茶器は銀製であり、精巧に彫刻された図柄が施されている。家の茶器は銅製でしかないので、やはり商会の茶器から高級感を感じる。茶壺と一緒に、砂糖壷と新鮮なミルクもある。トレイにはオレンジ味のケーキと、バターと砂糖の香りが漂うビスケットも載せられていた。
アデリナとシルヴィアーナは目を輝かせた。ソティリオスが「どうぞ」と手を差し伸べると、二人はすぐに小さなフォークでお菓子を食べ始めた。シルヴィアーナはケーキと戦って、ついにそのケーキを完全に食べ尽くした。アデリナは毒見役の使命を思い出し、ミルクと砂糖を紅茶に入れて一口飲んだ。そして私に安全であることを示した。確かに警戒する必要はあるが、ソティリオスが私に毒を盛ることはないと確信していた。彼とは文字通り生死を共にした味方だからだ。
ソティリオスは笑顔でシルヴィアーナを見つめ、ベルを鳴らして受付嬢にケーキをもう一つ持ってくるように指示した。私は紅茶を飲み、フォークでケーキを食べた。紅茶の香りはとても強く、今年新たに作られたことが分かる。ケーキはふんわりと焼かれ、中には砂糖漬けのオレンジが加えられており、香ばしい香りが漂っていた。
「シルヴィアーナがルチャノさんのそばでこんなに楽しそうにしているのは珍しいですね。ルチャノさんは本当に良い主のようです。」ソティリオスは言った。
「シルヴィアーナはすでに自由の身です。彼女の胸の小さなポケットには証明書が入っています。しかし、彼女はまだ成人しておらず、今は私が彼女の保護者を務めています。」私は言った。自分がまるでペットについて話しているかのような口調になっていることに気づいた。
「これ、とても美味しいですよ。」シルヴィアーナは口いっぱいにビスケットを詰め込んで言った。
「ははは。ルチャノさんは本当に彼女を可愛がっていますね。このケーキは南方でしか食べられないもので、もっと食べてください。」ソティリオスは言った。
「オレンジと砂糖は南方でしか生産されないことは知っていましたが、他にもあるんですか?」私は尋ねた。このケーキには砂糖漬けのオレンジの皮が使われている。ニキタス商会はこのようなスイーツで自らの力を示しているのだろう。
「ケーキやビスケットを作るのには、南方産の小麦を使うのが最適です。」ソティリオスは言った。思い出した。母親が私に、旧リノス王国とアドリア領で生産される小麦はパン作りに適していると言っていたことがある。
「さすが帝都です。これは北方ではなかなか食べられないものです。ワインやオリーブオイルも南方しか産出しないでしょうか。」私は尋ねた。
「そうです。そして、東西南北の商品の集積と全国への輸送こそが我々商会の役目です。私たちは帝国の血管と言えるでしょう。我々の仕事を通じて、皇帝陛下は一つの食卓で各地の美食を楽しんで、帝国の偉大さを示すことができるのです。」ソティリオスは言った。確かに、軍人が戦争に生まれるのなら、商人は平和に生まれるのだろう。
「ニキタス商会は本当に偉大だと感じますが、私はお茶を飲みに来たわけではありません。本題に入りましょう。ニキタス商会で鎧と蒸留器を注文したいのです。」私は言った。
「我々ニキタス商会の鎧は全大陸で名を馳せています。ルチャノさんの父上も我々のお客様です。私たちはルチャノさんにご自慢の鎧を提供する自信があります。しかし、じょうりゅうきっで、一体何ですか?」ソティリオスは尋ねた。
「まず鎧についてお話ししましょう。私の鎧もニキタス商会で注文したものでしょうか?」私は尋ねた。
「ああ、ルチャノさんがパイコ領に行った時に着ていたものですか?もちろんです。確か、ダミアノス様は注文時に手足の部分は鎖帷子で良いと言っていました。」ソティリオスは言った。私はアデリナとシルヴィアーナをこっそり見た。二人は満足そうな表情を浮かべ、ソファに倒れ込んで会話を聞いていた。
「そうです、ソティリオス様。言いにくいことですが、私は全身のラメラーアーマーを着ることができません。ご覧の通り、私はまだ体格が十分に強くありません。正直、一部の貴族の子弟は私にペーガソスライダーになれと言います。手足部分の鎖帷子が原因で、北方で死にかけました。だから、もっと防護性能が良くて、さらに軽量な鎧が欲しいのです。」私は正直に言った。
「分かりました。確かに全身のラメラーアーマーは防護性能に優れていますが、その分、鎖帷子に比べて重くなります。強化される鎖帷子をお望みですか?」ソティリオスは尋ねた。
「いえ。正確には、新しい鎧を設計しました。私はこれを板金鎧と呼んでいます。これが設計図です。ご覧ください。」私はアデリナに頼んで、鞄から一束の紙を取り出してもらった。これはオルビアや帝都に向かう船の上で描いた設計図だ。
「おお、見せてください。」ソティリオスは紙を手に取った。
「説明させていただきます。この鎧は胴体と手足が一枚の板金で作られ、手足と胴体は鎖帷子で繋がっています。細かい可動部品は主に蝶番で接続されています。鎧の内部には革の裏地が付いています。板金を使用しているため、重なり合う鋼の片があるラメラーアーマーに比べて軽量です。また、接続部の隙間が少ないため、防護性能も高くなります。ヘルメットと胴体の鎧は連結できるため、頭部への衝撃を肩で受けることができます。たとえ馬から落ちても、首を折ることは難しいでしょう。さらに、胴体の部分を厚くして、
ドームのように構造することで、正面からの騎槍の衝撃にも耐えられるかもしれません。」私は言った。
「ルチャノさん、この設計は素晴らしいです。だが、工房の視点から見ると、我々商会の職人がこれほど大きな鋼板を作るのは難しいです。銅なら可能ですが、重くて高価で、防護性能も劣ります。また、鋼材をこれほど多くの部品に加工するのも難しいです。」ソティリオスは言った。
「貴社の鉄鋼工房を見学できますか?手槌で難しい場合は、水力ハンマーを使うこともできます。」私は言った。
「おお、水車のような水力ハンマーですか?」ソティリオスは言った。
「そうです」私は言った。
「それなら効率が上がるかもしれませんが、水車を改造する必要があり、短期間では完成しません。」ソティリオスは眉をひそめて言った。
「まず蒸留機について話しましょう。板金鎧の話は工房を見学してからにします。これは弱い酒から酒の精髄を分離する機械で、全て銅製です。蒸留後の酒はより強くなり、ビールを蒸留すれば簡単にワインの強さに達します。しかし、私の目標はそれだけではありません。火をつけやすい濃度まで蒸留したいのです。この濃度の酒をアルコールと呼んでいます。これは傷口の処理や消毒に使うことができ、感染のリスクを減らすことができます。」私は蒸留機の設計図をソティリオスに渡して言った。
基本的に、蒸留機には連続式蒸留機と単式蒸留器の二種類がある。連続式蒸留機は連続生産が可能で、高濃度のアルコールを得ることができるが、構造が複雑で、製造と調整が難しい。単式蒸留器はその逆で、製造が簡単であるが、効率が低い。今回は早くアルコールを作りたかったので、ソティリオスに単式蒸留器の設計図を渡した。
「おお、この機械がビールをワインよりも強い酒に変えることができるのですか?」ソティリオスは興奮して言った。
「そうです。」私は言った。
「ありがとうございます!これはどれほど重要な発明か分かりますか?帝国にはより強い酒を求める人々がたくさんいます。葡萄は南方でしか栽培できず、穀物が豊富な北方には手頃な強い酒がありませんでした。そして西北交易路が衰退して以来、そちらの穀物の輸出も減少しています。穀物を強い酒に変えて輸出できれば、アドリア領を含む西北地域が再び繁栄できるでしょう。この発明を私たちにぜひ売ってください!いや、待ってください、考えてみます。長期的な協力関係のために、私がルチャノさんのために特許を申請しましょう!その後、ルチャノさんはその特許を私たちに独占的に許諾してください。我々はルチャノさんにライセンス料を支払い、定期的な収入を得ることができます。また、ルチャノさんが言うアルコールも私たちから購入できるようになります。」ソティリオスは立ち上がった。彼は最初が興奮して叫び、その後、早口で独り言を言い始めた。
「ソティリオス様。まず試作品を作りましょう。特許を申請するなら、試作品の費用は私が負担します。また、父親に頼んでアドリア領も強い酒の製造に参加させることもできますが、今は金リネ1枚と銀リネ20枚しかありません。それで足りるでしょうか。」私は言った。
「うーん、試験装置はあまり大きく作る必要はないので、全て銅製でも40枚の銀リネで十分でしょう。お礼として、商会の職人に頼んで、あの鎧の製作を試みます。」ソティリオスは言った。
「ありがとうございます。この蒸留機は構造が比較的単純で、製造も難しくないと思います。簡単に作れるでしょう。職人を紹介してもらえますか?」私は尋ねた。
「もちろんです。我々商会の銅職人が製造できます。ぜひお任せください」ソティリオスは言った。
「ありがとうございます。ニキタス商会と工場街に頻繁に行く必要があると思いますが、常に時間が取れるわけではありません。その時は、私の専属メイドに話していただければ大丈夫です。」私は突然あるアイデアを思いつき、ソティリオスに言った。
「光栄です。専属メイドというのは、シルヴィアーナのことですか?」ソティリオスは一礼し、再び座席に座った。
「いえ、別の侍女です。ところで、ソティリオス様。この機会に、貨幣について教えていただけますか?正直に言うと、私はこれまで自分で物を買ったことがありません。」私は言った。
「そうですか。お察しします。ルチャノさんの子供時代の不幸に同情しますが、ダミアノス様がルチャノさんをアドリア領に連れて行ってくださったことは幸運でした。」ソティリオスは言った。
「はい、私も彼に感謝しています。」私は頭を下げた。私の子供時代は確かに不幸であり、9歳までの生活と比較するとそれが一層際立つ。
「申し訳ありません、不愉快なことを思い出させてしまいましたね。本題に戻りましょう。リネは帝国の公式の通貨であり、皇帝の命令で作られています。リネの表面には皇室の紋章が刻まれています。それは魚と蛇をそれぞれの足で掴んでいるイヌワシです。ご存知のように、帝国は西部山岳地帯から発祥しました。そこでイヌワシは空の王者とされました。裏面には皇帝の肖像が描かれており、各皇帝が在位中に自分のリネを鋳造することになっています。」ソティリオスは言った。
「うん、本当だ!」私は自分の金リネを取り出してみた。確かに片面には王冠をかぶった人物の肖像があり、もう一方の面には偉そうな鳥が描かれていた。
「リネはもともと重さの単位であり、各硬貨がちょうど1リネの重さだったため、次第に硬貨自体がリネと呼ばれるようになったのです。リネには金、銀、銅の三種類があり、材質の異なるリネの価値は原材料の市場価値に応じて変動します。最近では1枚の金リネが約80枚の銀リネに相当し、1枚の銀リネが約80枚の銅リネに相当します。」ソティリオスは話しながら、自分の財布から金、銀、銅の硬貨をそれぞれ1枚取り出して私に手渡した。私はそれを手に取り、じっくりと観察した。
「これからはやや難しくなっています。」私は頭を抱えて言った。
「それを塊状の貴金属で物を買うように考えればよいのです。実際、異なる皇帝が鋳造したリネには価値の差異もあります。純度が特に高いリネは価値が高く、鋳造数が少なく精巧に作られたリネは収集家により価値が高騰することもあります。しかし、これは専門の両替商の仕事になります。1ブールの小麦は約20枚の銅リネ、トウモロコシや大麦1ブールは約15枚の銅リネです。25枚の銀リネがあれば基本の礼服を1着作ることができます。これでリネの価値が存じますか?」ソティリオスは言った。
「礼服がそんなに高価なんですか。帝都でも、三人家族が1年間生活するのに30枚の銀リネで十分だと聞きました。」私は驚いて言った。
「平民としてはそうです。しかし、貴族として、これらは必須の支出です。25枚の銀リネの礼服は低級貴族向けで、ルチャノさんのような高級貴族の礼服がもっと高いでしょう。商人や貴族にとって、社交の場での華やかな服装は、騎士が戦場で着る鎧と同じです。」ソティリオスは言った。
確かにその通りだと思い、私は頷いた。私がより良い鎧を求めるのと同じように、商人や貴族は礼服に対する要求も終わることがないのだろう。
その後、私はソティリオスとしばらく話し、数日後に工場街で蒸留機の進捗を確認する約束をした。ソティリオスはさらに、私のために商会の鍛冶屋を紹介してくれることになった。
「アデリナ、シルヴィアーナ。お願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」屋敷へ帰る時、私は馬車の中で両手を合わせ、私の侍女と侍従に頭を下げて頼んだ。
「まったく、また何かを企んているじゃないの。」アデリナは言った。
「目立たない長いかつらと、侍女が外で着るワンピースを買ってほしいんだ。手伝ってくれる?」私は尋ねた。皇帝陛下の前でドレスを着て踊ったのだから、侍女に扮して工場街に行くくらいなら大したことはないはずだ。あそこには私を知っている人はいない。帝都では、貴族の邸宅に仕える侍女の多くが下級貴族や裕福な平民の出身であり、彼女たちが邸宅の外で着る服は普通の平民の服よりも良いものが多い。
「まったく、そんなの絶対に無理。アドリア伯爵の跡継ぎが女装して街を歩く変態だなんて噂が広まったら、侍従としての評判まで悪くなるじゃないの。」アデリナは言った。
「面白そう。私が買ってあげるよ、ルチャノ兄さん」シルヴィアーナは言った。
「本当にありがとう、さすがは私の可愛い妹!」私はシルヴィアーナの頭を抱きしめ、喜んで言った。
「ミハイル様とダミアノス様に伝えておくわ。イラリオ先生にも言って、変態の治療にどんな薬が必要かしら。」アデリナは言った。
「アデリナ、お願いだ!」私は懇願した。
「絶対に嫌だ。そんなことしたらきっと面倒なことになるじゃないの。もし誰かに絡まれたらどうするの?誰かがあなたがアドリア伯爵の跡継ぎだと気づいたらどうするかしら。」アデリナは言った。
「誰も気づかないから。私を知っている人々は工場街に行かない。それに、誰かに見られても、そのワンピースを着た長髪の侍女とアドリア伯爵の跡継ぎが同じ人なんで、誰も信じるはずはないでしょう。元の声で話すつもりだ。あ、でもシルヴィアーナ、足首まで隠れるワンピースを買ってね。傷跡が見えちゃいけないから。」私は言った。
「ルチャノ」という名の栄誉騎士の仮面をずっとかぶっていると感じていたが、アドリア領に閉じこもっていた時はまだ我慢できたが、帝都に来てからその抑圧感がますます強くなっている。最初は恥ずかしかったが、皇帝陛下の悪戯が私に一息つくきっかけを与えてくれた。父親との関係が和解するにつれて、私は「ルチャノ」という仮面をずっとかぶり続けるのが我慢できなくなった。少し息抜きがしたい。ここは帝都であり、私を知っている人は少ない。私の秘密がばれる可能性も低いだろう。
「若様。諦めてください。」アデリナは私を見つめて言った。彼女の目には決意が宿っていた。本気だ。
「お願いだから、アデリナ。あなたは私に忠誠を誓ったのだから、主の望みを全力で叶えてくれるはずじゃないか。」私は言った。アデリナ、ごめんなさい!心の中で必死に謝った。
アデリナは信じられないような表情で私を見つめ、それから椅子に倒れ込んだ。
「ごめんなさい、アデリナ。あなたにも迷惑をかけているのは分かっている。あなたが心配したことも不可能ではない。これから侍女に扮して外出する時は、必ずあなたやハルトに護衛をお願いする。侍従が主の侍女を護衛するのは普通のことだから。」私はとても申し訳なく思い、彼女に言った。
「全くもう。それなら、次に外出前の化粧も私が監督するわ!」アデリナは突然起き上がり、両手で私の頬を挟み込んで、顔を近づけて私の目をじっと見つめて言った。
「わかったよ、アデリナ」私は急に不安を感じた。アデリナも何か悪巧みをしているのだろうか?
「ははは、ルチャノ兄さんが侍女になるのが楽しみ!」シルヴィアーナは隣でお腹を抱えて笑っていた。




