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夜の隙間の博物館

作者:

 きっかけになったのは一年前の九月のある日。

 残暑という言葉のままに、夏の名残がしつこく残って蒸し暑い夜が続いていた――その日から、夕闇に沈む街を歩き回るのが私の日課になった。


 仕事の帰り道、空を染め上げていたあかね色がビルの谷間にゆっくりと吸い込まれて、そうして消えてゆくのをため息と共に見送る。

 闇の落ちた街の中で、建物の隙間に横たわる濃い暗がりや、植え込みの足元の雑草に視線を走らせながら家路を辿る――。

 そういう日々を繰り返して、気がつけば一年も経ってしまっていた。

 そんな塩梅なので、結果として私は自宅の周辺を隅々まで――細い裏路地や、野良猫が集会を開いている小さな空き地まで――知り尽くしていた。


(って、思っていたのだけど……)


 私がその建物の存在に気付いたのは、今日が初めてだった。


 今私の目の前にあるのは、風景に溶け込んでうっかり見落とすような、そんな小さな建物ではなかった。

 見た目は無機質なコンクリート建てで、二階部分には大きなガラスが嵌められている。

 ガラスの向こう側は暗く沈んでいてよく見えないが、どう見ても個人の邸宅ではなく美術館のような佇まいだ。

 よく見ると入り口近くに、『ご自由にどうぞ』という立て小さな看板があった。どうやら中に入ってもいいらしい。


(……よ、よし)


 突如現れた謎の建物の正体を知りたいという完全なる好奇心を胸に、私は恐る恐る、建物の入り口へと足を踏み出した。

 その建物はまるで大きなコンクリートの箱のようで、近くて見ると妙に圧倒される空気をまとっていた。

 こんな建物があったことに気付かなかったなんて、普通だったらあり得ないだろう。

 最近新しく建ったばかり……だとしても、一日二日で建つような規模ではないし、そのような工事をしていた記憶もない。近くで見た壁面は雨風でだいぶ()れており、それこそ昨日今日建ったような初々しさは全くない。さらに言えば入り口に掲げられた館銘板にはサビまで浮いていて、やはり建てられてから長い月日が経っていることを物語っていた。


『■■博物館』


(……博物館?)


 赤茶けて読みにくい館銘板に何となく残った文字の残骸によれば、ここは何かの博物館であるらしい。しかしどれだけ穴が開くほど睨みつけてみても、始めの二文字は読み取ることが出来なかった。

 その読めない文字が示すのは地名なのか、それとも展示している『何か』なのか……。

 私はちらりと横に視線を向ける。

 すぐそこに見える立派な木の扉から中に入れば、ここが何の博物館なのか知ることができる。


(でも……やめておこう)


 ここは昨日まで――私の記憶によれば――存在しなかった建物のはずだ。それなのにどう足掻いても新築に見えないなんておかしい。わざと古めかしく見せているのかもしれないが、それにしても怪しすぎる。

 そう思って踵を返して歩き出す。

 二歩、三歩。

 四歩目……を前に踏み出そうとして。


 私は宙に浮いた足をその場に下ろした。


(展示を見る必要は、ないんだよね)


 博物館なのだから、入り口からちょっと入ったところに展示の案内やポスターがあるのではないだろうか。

 少しだけ、エントランスを覗くだけなら。

 入館チケットの売り場があるなら、そこにいる人に尋ねることもできる。

 聞くだけ聞いて入館しないなんて、いい顔をされないかもしれないが――それでも。


 くるりと方向を変えて、私は入り口に向かって歩き出す。それは、普段の私なら絶対にしないであろう行動だった。


(何でこんなにこの建物が気になるんだろう……)


 好奇心というよりも、もっと切実な……引き寄せられる、という表現が近いかもしれない。

 目の前に立ちはだかる大きな木の扉の把手を両手で掴んで、一度だけ大きく深呼吸をした。

 いざ行かん、と覚悟を決めグッと力を込める。

 ……が。


 ガコッ


「もう閉館していますよ」

「ひぇっ!!……」


 気合いを入れて開けようとしたのに開かなかった――という恥ずかしさと、突然後から声をかけられた驚き。

 その二つが入り交じった私の喉から、おかしな音が漏れた。


「驚かせてしまってすみません。ここの開館時間は十八時までなんです。十分程遅かったですね」

「そっ、そう、なんですか……」


 申し訳なさそうに話しかけてきたのは作業着の男性だった。年の頃は私とあまり変わらなさそうなので、二・三十代といったところか。

 失礼な表現だが、目立った特徴がないことが特徴、といってもいいくらいにどこにでもいそうな顔立ちをしている。


「本館は閉まっていますが、売店はまだ開いていますよ。よかったら覗いてみてください」

「あ、はい、……え、売店……?」


 まだ動揺したままの私は、彼の手の動きにつられて視線を動かした。

 その指が指す先――本館の犬走りを左手側に進んだ、木の陰になっている所に、博物館の入口とは別の扉があった。

 扉の外に立て看板が出ているので、確かに営業しているのだろう。今もちょうど客が一人出てくるところだった。


「ほ」


 他に客がいたのか、という失礼な言葉が飛び出しそうになるのを何とか堪えた。スタッフの前でそんなことを言うのは失礼すぎる。


「……あの、そういえばここは――」


 曖昧な笑みで誤魔化しながら男性の方へ目を向ける。しかし――。

 何の博物館なんですか、という続きの言葉は飲み込むしかなかった。

 何故なら、私が振り向いた先には誰もいなかったからだ。


「……」


 彼は竹ぼうきを持っていたので、掃除中だったのだろう。

 仕事の途中で客を見つけて、案内のために声をかけた。そして案内が終わったから仕事に戻った。

 それにしたって、いなくなるのが早すぎるのでは?

 釈然としないものを感じながら、私は売店の方へと足を向けた。



***



 売店に並ぶ商品は、地元の土産菓子と民芸品、それにどこかで見たようなキャラクターのキーホルダーなど。

 ミュージアムショップというよりも、寂れた温泉街のおみやげ屋といった方がしっくりくるような店だ。

 そんな中でも異彩を放っていたのが、店の奥に並べられた無数の小さな(びん)だった。

 丁寧に並べられた小壜の下には無機質な文字で印刷された値札が付いている。


『ひと壜 百二十一円』


 すぼまった口にはコルクの栓が嵌められているが、中身は空っぽだ。何かが入っているのではなく、壜そのものを販売しているらしい。

 値段は安くもなく高くもなく。

 特に綺麗な色でもないし、模様も入っていない。

 ――なのに。


「ああ、これは良いね」

「これとこれ、どっちにしよう」


 この何の変哲もない小さな壜が、この店の目玉商品らしい。私が来てからの短い時間の間に幾人かの客が小壜を手に取り、レジへと運んで行った。

 それなりに客がいたことにも驚いたが、そのそれなりの数の客が全員小壜を買って行ったのだから更に驚きだ。

 私は一番手前の壜を手に取り、眺めてみる。

 やはり何の変哲もない、そして何も入っていない透明なガラスの壜だ。

 でも……、と私は値札に目を向ける。

 無機質な値段の横には、やけにポップな書体で『夜光る!!!』という文字が躍っている。

 もしかしたら蛍光塗料でも塗られているのかもしれない。だが例えそうだとしても、皆がこぞって買い求める程のものではないように思える。

 怪訝に思いながら、私は手に持った壜を軽く振ってみた。


(あれ?)


 確かに空っぽなのに、ふわり、と微かに中身が揺れたように見えた。


(光の反射の加減かな……?)


 首をひねってもう一度振ってみると、やはり壜の中で何かが揺れているような気がする。

 ゆらり。

 ふわり。

 見えないはずのその揺動を、思わず目で追う。

 その揺らぎはどこか無性に懐かしくて、何故かぎゅうっと胸を締め付けられる。

 これは――。


「お姉さん、買う気が無いならソレを譲ってくれないか」

「えっ、あっ!」


 突然頭上から声をかけられて驚いた私の手から、するりと壜が滑り落ちた。


「!!」


 すぐに両手でキャッチする。

 手の中に収まる小壜を握りしめ、冷たく硬い感触を確かめながら心の中で自分の反射神経に拍手を送る。


(セ、セーフ……)


 バクバクと暴れる心臓をなだめながら、私は声のした方を振り仰いだ。


(うわ、大きい)


 頭上から声が聞こえたので、背の高い人間だろうと見当を付けていたが、相手の顔は予想よりも更に一回りほど高い位置にあってたじろぐ。


「失礼。驚かせてしまったようだ」


 また頭上から声が降ってくる。

 声がひどくかすれていて、性別は分からない。そしてマスクと帽子で顔も見えない。――正直なところ、少し怖い。


「い、いえ、大丈夫です」

「そうか」


 だが降ってくる声は、その異様な風体に似合わず優しい響きを帯びていた。驚きと警戒心でこわばっていた私の肩から、少しだけ力が抜ける。


「その%'€÷は中々良い色をしている。あなたに特にこだわりが無いなら私に譲ってほしいのだが、どうだろう」


 顔の見えないその客が何と言ったのか、言葉の一部がうまく聞き取れなかった。

 良い色、といっても棚に並ぶ壜の色は一様に透明で、私にはその違いが全く分からない。


「あ、えっと……」


 そもそも私は、ただ手に取ってみただけで――別に、買おうと思っていたわけではない。

 買うつもりがないのだから、欲しがっている人に渡すのが当然だ。


「はい、どうぞ……」


 差し出しかけた手を、

 ――私は、自分の身体に引き寄せた。


「……いえ、すみません、私……これを買おうと思っていたんです」


 自分でそう言いながら、なぜ、と云う言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 こんな空っぽの壜、欲しがっている人を差し置いてまで手に入れたいわけなんてないのに。


「……」


 顔の見えない客は、少しの間黙って私をじっと見下ろしていた。

 気分を害したのかもしれない。いやしかし、先にこの壜を手に取ったのは私だし……責められる謂れはない、はず。

やがて――頭上から、カフッ、と空気の抜けるような不思議な音が聞こえた。


 ――笑った?


 マスクの辺りから音が聞こえたというだけで、笑い声と呼べるような音でもない。だが、何となくそう感じる。


「そうか。そうか。なら()()は貴女の元にあるのが良いだろう」


 声の調子は変わらず優しいままで、少なくとも怒ってはいないらしい。

 私の気のせいかもしれないが、やや嬉しそうにすら聞こえる。


「は……はあ……」

「では私は……こちらを頂いていこう」


 そう言って顔の見えない客は、棚に並んだ別の壜を手に取って、売店のレジへと向かっていった。

 その場に残された私は、ぽかんと口を開けてその背を見送ってから、その後すぐに流れてきた蛍の光に追い立てられてレジへと向かった。



***



「ただいま」


 声をかけても、独り暮らしの部屋に返事をしてくれる相手など誰も居ない。

 それでも私は願掛けのように毎回声をかけている。

 この部屋に、私の帰りを出迎えてくれた家族がいたという事実を忘れたくなくて。そして、その家族が再びこの部屋に戻ってくることを祈って。

 ちくり、と痛んだ胸のわだかまりを吐き出すようにため息をついて、私は暗闇の中で壁に手を伸ばし、手探りで照明のスイッチを探す。

 ――ついこの間までは夕方になるとタイマーで照明が点灯するように設定していたため、長く住んでいる部屋だというのにまだスイッチの位置を覚えていないのだ。

 いい加減、小さなセンサーライトでも用意すべきかな。

 壁のスイッチの位置が分かる程度の明るさで構わないから――。

 そう思ったところで、不意に『夜光る!!!』というポップな文字が脳裏に浮かび上がった。

 結局あの博物館が何だったのかも、壜の中身がなんなのかも――売店の店員に聞こうにも、恐ろしく無愛想で取り付く島もなかった――分からないままだが……。

 無地の白い紙袋に入れられた小壜をそっと取り出してみると、暗闇の中にほんのりと光が灯った。


 優しい、柔らかな緑の光だ。

 まるで夏の日に照らされた新緑のような。

 その緑は、まるで……。


 私はほとんど無意識に、まるで何かに導かれるかのように、壜の口に嵌まっていたコルク栓をを引き抜いた。

 キュ。

 細く高い音と共にコルクがはずれる。

 解放されることを待ち侘びていたのか、光はするりと小壜から抜け出ていった。

 それと同時に、


 トッ


 私の足下から、軽い音が聞こえた気がした。

 猫がしなやかな動きで床に降り立つような、そんな音。


「……ロン?」


 呼びかけに応じるように、さわり、と何かが私の足に触れて通り過ぎていった。


「ロン」


 もう一度、今度ははっきりと名前を口にする。

 再び、さわり、と柔らかな何かが足に触れた。


 そんなわけがない。馬鹿げている。

 そう思いながらも、私はその場にしゃがみこんで震える手を伸ばした。


「……ロン……っ……」


 指先にほんの微かだが、それでも間違いなく、少し硬い舌でなめる感触。

 ああ、私の愛しい猫。

 美しい緑の瞳の、私の家族。

 去年の夏の蒸し暑い夜、私が夜風を入れようと開けていた窓の隙間から迷い出て、そのまま姿を消してしまった。

 それから毎日、街を隅々まで歩き回って探し続けてきたけれど、結局手がかりすら見つからなかった。

 それから一年経って――自分の気持ちにけじめを付けるために、毎日セットしていた照明のタイマーを切った。

 いつも家で留守番をしてくれていたロンのために、付けていた灯り。

 長年、ロンと共に私を迎えてくれていた灯り。

 気持ちを切り替えようとして消したのに、暗闇に占拠された部屋に帰るたび胸が引き裂かれるような気分になってしまって夜の街をさまよう時間が長くなった。


 ロンが見つかることを願いながら。

 そして、部屋の暗闇と向き合う時間を少しでも短くするために。


 そんな悲しい暗闇を溶かすように、緑の光が柔らかに広がってゆく。


「ごめんね。ごめんね、ロン……」


 ――君が迷い出たときに気付くことが出来なくて。

 ――道に迷う君を見つけ出すことが出来なくて。


 ずっと胸の中にあった後悔と、悲しみと、懺悔の言葉が喉につかえて、代わりに堰を切ったように涙がこぼれる。

 

 さわっ、と頬に柔らかいものが触れる。

 私が落ち込んでいるときに、いつも寄り添ってくれていたのと同じように。

 ……ああ、この光は確かにロンなんだ。

 

「おか、えり」


 嗚咽混じりの私の声に応えるように、緑の光が少しだけ揺らいだ。

 そして――まるで手のひらの上で溶けてゆく雪のように、とても静かに消えていった。

 完全に消えてしまうその瞬間、空耳だろうか、耳の奥に懐かしい鳴き声が聞こえた。


「……さようなら……」


 再び部屋を支配した暗闇は、ほんの少しだけ優しく私を包んでくれているように思えた。


「……ずっと、ずっと大好きだよ」


 明日、朝一番に花を買いに行こう。

 愛しいあの子の魂が、安らかであることを願って。


もともとこの話は、

「魂は21gなので1g/1円で、それに瓶代10円を加えて31円で博物館の土産物として売る」

という内輪ネタをもとに書いたSSでした。

大幅に加筆修正して、ついでに昨今の物価高を受けて瓶代を値上げしました。

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