7.野良大賢者拾ってください
朝になってしまった。
睡眠時間自体は短いはずなのに、眠気が一切ない。ベッドから出ようとすると、私の身体に入ったフィオレンティオが寝たまま腰に巻きついており、動けなかった。昨日のことは夢ではなかったらしい。
私はぐいぐいとシャノンの額を押し、抱擁から逃れようとする。……が、びくともしない。
「おい、朝だ。起きないか」
肩を叩いて起こそうとするも、起きない。何かもごもご言いながら抵抗された。
ベッドの中でしばらく抵抗していると、寝室のドアの向こうから物音がした。執務室の扉をノックする音だ。
「姫様、朝食の準備が出来ました」
メイド長のリリィが、王女を呼びに来たのだ。寝室の時計を見ると、普段の私なら起きている時間になっていた。
だがしかし、フィオレンティオは一向に起きる気配がない。私の顔でよだれを垂らして寝ている。
「姫様ー? まだお眠りでしょうか?」
リリィが不審そうに声をかけてくる。このまま無視していると、何かあったのかと思われて部屋に入られてしまうかもしれない。
「えーっと……フィオレンティオです! 部屋が爆発して寝床がないので、シャノン様のベッドをお借りしています!」
フィオレンティオのふりをして、私はリリィに声をかける。
「寝巻きはあとで持っていくので、大丈夫です!」
そう叫ぶと、リリィが扉の向こうで、わかりました、と返事をした。最悪の事態は防げたらしい。
足音が遠ざかっていくのを聞いてから、私はフィオレンティオの肩を揺する。
「いい加減起きろ! 私の腰から手を離せ!」
「んん……シャノンさまがキスしてくれないと起きられません……」
「起きているだろうお前!」
「む、むにゃむにゃ……むにゃむにゃ……」
寝たふりだった。腹を蹴ってフィオレンティオの拘束を解こうとするが、寝たままだと上手く力が入らない。
「離せ不敬罪を適用するぞ!」
「嫌です嫌です! この期を逃したら次いつキスできるかわからないんですよ!」
「一生ないから安心しろ!」
フィオレンティオの姿だと、私に魔力で優っても力では勝てない。洗脳などの乱暴な手段を除けば、まずそういうことは不可能だっただろう。
「……いやというか身体はお前のものだろう!?」
「シャノン様とキスした事実が欲しいんです!」
さすが六年も私に求婚し続けているだけあって、ものすごく頑固だ。魔法で焼き尽くせたら簡単なのだが、対象が私なものだからそうもできない。
――仕方がない。
「……おい」
「はい」
フィオレンティオが私の肩越しに顔を出してきた。私と目が合うという、奇妙な感覚だった。
「もう少し、顔を前に」
「はい」
こういうこととなると素直だ。フィオレンティオは鎖骨の辺りが私の肩のところまで来るようにして、顔を差し出してくる。
首を横にひねり、自分自身の頬に口づける。貴重でも有意義でもない体験だ。
唇を離すと、フィオレンティオは腕の力でを緩める。ようやくベッドから出られた。なんだって朝からこんなに疲れなくてはならないのだろうか。
私はクローゼットから服を取り出しながら、後ろを振り返る。
「フィオ、朝食は食べにいくか?」
フィオレンティオはベッドの上に正座して、私が口付けた頬を手のひらですりすりと撫でていた。目を合わせてこない。
「……食べにいきます」
普段恥ずかしげもなく愛を語っている女が、口付けひとつで照れていた。生娘か、と思ったが、実際生娘だった。
***
朝食を食べにダイニングへ行くと、フィオレンティオが朝食に来るなんて、とまた驚かれた。その上執心中の王女と連れ立っての参戦だったのだから、ダイニングの惨状は想像するまでもない。
相思相愛になっただとか、そんな下馬評は今はどうでもいい。問題なのは、フィオレンティオの態度だ。
「おい」
「……へへ」
「父上の話、ちゃんと聞いていたか? ヴァルカン・デルレイとの見合いの件だ。朝十時に馬車に乗って隣国に行くそうだから、それまでに着替えてくれ」
「シャノン様のファーストキスが、私の頬……いや、私のファーストキスがシャノン様の頬? ふふふ……」
起床からずっと締りのない顔で頬を撫でている。自分の表情筋の下限値はできることなら知りたくなかった。
「……ちゃんと見合いをしてくれよ? ヴァルカンは隣国の国王の甥だ。しくじると国際問題になりかねん」
「大丈夫です、ちゃんとやりますよ」
緩んだ顔でそう言われても信用しがたい。私はフィオレンティオを自分の部屋まで送り届け、メイドに後を託すと、城内を散策することにした。
今朝の出来事を反省した結果だ。早く野良大賢者を匿ってくれる場所を見つけないと、毎朝あんなに疲弊することになる。誤解されるのが嫌なら廊下で寝ればいいだけの話だろうが――それは王女として負けた気がする。
「うーん……とはいえ、部屋なんてどうやって借りればいいんだ……」
生まれてこの方、王城以外の場所で暮らしたことがない。私はガーデンの真ん中にあるベンチに腰かけ、朝の空を眺めて悩んでいた。
「大賢者様、なにかお悩みですか?」
すると、青一色だった世界に人の顔が割り込んできた。慌ててベンチから飛びのき、長い杖を構える。
神官服をまとった若い男だった。王城に併設された教会の神官だろう。
「なんだ……びっくりしちゃいました」
私は杖を下ろして、男に向き合った。しかしやはり突然視界の先に知らない人間が入ってくると驚くので、できれば今度からは顔を覗き込む前に話しかけてほしい。
「すみません、ご挨拶がまだでしたね。欠員により昨日付で配属されました、グレイソンと申します」
グレイソンと名乗った神官の男は、私に向かって深い礼をした。昨日付で配属されたというのなら、知らなくても無理はない。
「グレイソン、ですか。実は昨日部屋を爆破してしまいまして、住むところがないんです」
「え……爆破、ですか……」
昨日付と言っても、昨日の朝からいたわけではないらしい。
私が頷くと、グレイソンは苦い顔を浮かべた。私も部屋が爆発したときはそんな顔になった。
「貴方はまだここに来て日も浅いでしょうから、他の神官に空き部屋がないか訊いてくれませんか?」
「あ、いえ。狭い部屋でいいのなら、僕が案内できますよ」
「本当ですか!」
「僕の隣の部屋です。神官用の部屋で申し訳ないんですが……」
元より大賢者としての威厳なんてあってないようなものなので、それは気にしなくていい。私が十三歳のとき、この大賢者は酔っ払って厩舎で寝て風邪をひいていた。
この身体だと人目を気にしなくていいというのは、数少ない利点と言っていいだろう。
「構いませんよ。連れて行ってもらえますか?」
見合いに出発するまで、まだ時間がある。私はグレイソンの案内に従って、教会の方へ歩いていった。
案内された部屋は狭かったが、前の大賢者の部屋よりはましだろう。というかだいたいの部屋はあの部屋よりましで片付けられる。
「ここにします。これから出かけるので、家具の手配を頼んでもいいでしょうか?」
「わかりました。大賢者様の旅路に、幸多からんことを」
グレイソンは指を組んで祈ると、礼拝堂に向かった。
これでフィオレンティオと変な噂を立てられることもないだろう。私も見合いの会場へ向かう馬車に乗るために、門まで歩くことにした。
「フィオ、お前はまたどこかで油を売っていたのか?」
門の前で私を待ち受けたのは、フィオレンティオだった。護衛がたむろする門の前で、彼女はひときわ目立っていた。
普段より王女らしい格好をしているからか、すっかり王女モードに入っている。
「シャノン様、聖剣はどうされたんですか?」
私はいつも鎧を着て、聖剣を携えている。ドレスを着ているときも例外ではなく、常に小脇に抱えるか膝に置いていた。あれがないと王位継承者らしい振る舞いができない気がしたのだ。
しかし今のフィオレンティオは手ぶらだ。紺色のドレスを纏って、まるで他国の王女のようだ。
「馬車の中に置いてある。心配症だな、フィオは。そんなところもかわいいが」
そう言ってフィオレンティオは凛とした笑みを浮かべる。頼むからマッチポンプをやめてくれ。元に戻ったときに厄介だ。
「へへ……そうですかね」
私はフィオレンティオらしく笑って誤魔化した。今日はずっとこのノリで行くのだろうか。非常に厄介である。
私はリリィのエスコートに従って馬車に乗り、続いてフィオレンティオも乗り込む。馬車のドアが閉まると、ゆっくりと発進した。
「……ところでシャノン様」
フィオレンティオが耳打ちしてきた。
「お見合いの相手の名前、なんでしたっけ?」
やはり浮かれて聞いていなかった。私は説教したい気持ちを必死に堪えながら、ヴァルカン・デルレイの名を口にした。