2.大賢者の身体
光が瞼をくすぐる。
「ん……」
王城の医務室で、私は目を覚ました。初めて見る景色だ。フィオレンティオが運んだのだろうか。
ゆっくりと身体を起こす。いつもより身体が重い。
「……先ほどの魔術は、一体」
廊下で感じた気配。あれは完全に、魔法が発動するときの空気感だった。
フィオレンティオのものよりはいくらか薄かったが、それでもわかる。自分は、王城に忍び込んだ何者かに魔法で襲撃を受けたのだ。
「油断しすぎたか……ん?」
声が、いつもより高い。しかも聞き覚えのある声だ。
私は布団をめくりあげ、自分の姿を確認する。
重たいローブ。不健康な白い手足。伸びきったぼさぼさの金髪。
頭に浮かんだ嫌な仮定をはねのけるため、ベッド脇の窓を見やる。
そこに映っていたのは――大賢者フィオレンティオ・エスタ・エステリオスの姿だった。
「あ、え、は?」
私がぺたぺたと顔を触ると、窓に映ったフィオレンティオも顔を触りはじめる。
先ほどの魔法は、フィオレンティオの身体に私の精神を入れるものだったらしい。
……ということは、今ごろ私の身体にはフィオレンティオが入っているのが妥当であり。
「あいつ、もしかして――」
脳内で今日の自分の予定を追いかける。そして。
「――私としてパーティに出てないだろうな!?」
たまらなくなって、私は医務室のベッドから飛び出した。
王城の廊下を突っ切っていく。
医務室から会食場までさほど距離はないが、杖もローブも髪も重く、普段より走るのが遅い。
「はあっ、はあっ、あいつほんと、体力付けろよ……!」
加えて大賢者の貧弱な体力のせいで、王城の渡り廊下の途中で力尽きてしまった。
フィオレンティオは私のもとに来て求婚という名の邪魔をするとき以外は、与えられた研究室で魔法の研究をしている。王族で食事をする際にも、広すぎて歩くのが面倒という理由で列席しない。
そりゃこんな貧弱にもなるか、と頭の中で悪態をついた。
「あっ、大賢者様。どうされました?」
私がうずくまっていると、上から男の声が降ってきた。
見上げると、魔法省の役人だろうか、ローブを着た男が立っていた。
「ああ、いや。わたっ……姫様を探していたんだ」
「姫様でしたら、会食場にいらっしゃいますよ。お連れしましょうか?」
「大丈夫だ。だいぶ息も落ち着いてきたのでな……」
フィオレンティオの長い杖で床をついて、重い身体を無理やり起こす。
「心配をかけた。ありがとう」
役人の男はフィオレンティオの中に私が入っていると知らないのか、困惑しつつも礼をして送り出した。あとで説明しなくては。
私は王城の大広間を横断し、会食場の扉を開け放った。
「おいっ、大賢者!」
そう叫ぶと、会場が水を打ったように静まり返った。
私はかまわず会場に立ち入り、自分の姿をした大賢者を探す。
「大賢者様がお怒りだ」「あの温厚な方が……?」
会場がざわめいているが、あとで入れ替わりの件を説明すればいいだろう。私は一番扉から近い──つまり最も上座──席に、自らの姿を見つけた。
短く切りそろえた銀髪、王族の証たる赤のマント。黒い鎧の腰に佩いているのは、次代王の証たる聖剣だ。
「お前、勝手なことをしていないだろうな!」
自分に向かって怒鳴りつけるというのは、なんとも不気味な感覚だった。すると目の前の私はふっと余裕のある笑みを浮かべ、口を開いた。
「今度はなんの戯れだ、フィオ?」
混乱した。
今の私は間違いなく第一王女シャノンのはずだ。しかし目の前の少女の仕草は、どう見ても自分のものだ。
「いや、いやいやいや……」
私が分裂した? フィオの精神が消滅した?
訳がわからなくなって、世界がぐるんと回る。
本日二回目の昏倒であった。
強い振動で起こされた。私のベッドの上だった。
「うわぁぁあああん、ニア、どうしましょう! シャノン様があ!」
「大賢者様、姫様起きてますって」
大泣きしている自分に身体を揺すられている。目の前の自分は私を見ると、泣きながら抱きしめてきた。
「ぁぁあああ! よかったですシャノン様!」
「痛い痛いやめろやめろ!」
めきめきと背骨が悲鳴を上げる。私の腕力は思っていたより強かったらしい。
自分の姿をした女は腕の力をゆるめると、しゅんとして下を向いた。
「……あー、フィオでいいのか?」
自分ががばっと顔を上げた。
「はいっ、大賢者フィオレンティオ・エスタ・エステリウスです!」
ああ、この感じ。間違いなく、私の大賢者だ。
私はフィオレンティオの精神がまだこの世に残っていたことに安堵し、肩の力を抜く。
「はぁ……私が分裂したかと思ったぞ」
「あ〜、それはですね」
フィオレンティオが、魔法省大臣のニアのほうに視線をやる。
「ニアの提案で、混乱を防ぐために入れ替わったことは隠しておくことになったんですよ」
「そういうことか……驚かせおって」
私はベッドに乗ったフィオレンティオを腕でどけ、ベッドから降りる。昏倒による心身のダメージはないらしい。
「現在は私と大賢者様、それと国王様のみが入れ替わりの件を知っている状態です」
補足してきたのはニアだ。
謁見の間でのお披露目を終えたあとは、国王の執務室に行くつもりだった。そうなると、入れ替わりの件は最低限度の人間にしか話していないらしい。
「おいフィオ、どういう魔術なのかわかるか?」
「古い禁術ですね。ですがわたしは学んでないので、犯人を見つけないことには解けないかと」
悪いニュースだが、どうすることもできないのなら仕方がない。
これから私は、全力でフィオレンティオの真似をしなくてはならないらしい。だいぶ面倒である。
「大丈夫です! わたしはシャノン様を常に監視してるので、言動に関しては完璧です!」
「私は魔法も使えない上に貧弱になってしまったのだが」
「それはまあ仕様ですから!」
フィオレンティオはベッドから立ち上がると、マントを美しい動きで払った。
「じゃっ、お義父様のもとにご挨拶に行きますか!」
フィオレンティオは私の父でありエリン王国の国王を、お義父様と呼ぶ。いわく、「将来結婚するから」らしい。
「おや、大賢者様のお義父様呼びがこんなところで吉と出るとは」
父親は入れ替わりの件を知っているので、それもあまり役立っていないが。
フィオレンティオを先頭として、私の部屋を出る。
私の真似をするフィオレンティオは、どこからどう見ても普段の自分だ。凄いなと思う反面、動きを完全模倣されるレベルで見られていたと思うとちょっと怖い。
フィオレンティオが国王の執務室の扉をノックし、部屋に入る。彼女は部屋に入った途端、肩の力を抜いて猫背になった。
「よく来たな、フィオ、ニア、それと……シャノン、でいいのか?」
私の父であり、国王・ローレンス二世は、威厳のある視線を私へ投げてきた。
「はい、父上。大変遺憾ながら……」
フィオレンティオが振り返って悲しそうな顔を向けてきた。無視しよう。
事情は聞いている、と父は言って、フィオレンティオと私を交互に見た。
「シャノンは誕生祭だというのに災難だったな。犯人に関しては、先ほど魔法省で捕縛されたらしい」
「それはつまり、もう戻れるということでしょうか」
「いや。犯行は魔道具によるものだったらしく、戻す方法まであるかは不明だ」
はあ、と相槌を打って、視線を下にやる。
普段より少しだけ低い視界。周りから感じた奇異の視線。制御できるかわからない膨大な魔力。
大賢者の身体には、不安要素ばかりだ。
「……そんなシャノンには、大変申し訳ないのだが」
父が不穏な前置きを口にした。
「えー、十六になったということで、王侯貴族の子息から見合いの申し込みが来ている」
驚いたのは私だけではなかった。フィオレンティオも、珍しく背筋を伸ばして父を見やった。
「大賢者フィオレンティオ。シャノンの未来の夫を、選別してくれないか」
「「嫌ですっ!!」」
私とフィオレンティオ、互いに思惑の異なる魂の叫びが重なった。
「そうは言ってもだな。王族で十六だともう結婚適齢期なんだ」
父も私たちの心情を慮ってか、気の毒そうに告げた。
「婚約はいいですが、肝心のお見合いをフィオに任せられません!」
「お見合いはいいですが、わたしとシャノン様の仲を引き裂かんとする男を見て破壊衝動を止められる自信がありません」
フィオレンティオが言うと洒落にならないのでやめてほしい。彼女が本気で魔法を使ったら、たぶん近隣国丸ごと海に沈むだろう。
「「なのでお見合いは入れ替わりを解消してからにします!」」
また声が揃う。父は苦々しい表情を浮かべながら、黒革の張られたファイルを差し出してきた。
「……気持ちはわかるが、最初の見合いは明日の昼だ。隣国の公爵が赴くからキャンセルはできないぞ」
フィオレンティオは父からファイルを受け取り、ためつすがめつその中を確認する。彼女は顔を上げると、ニアのほうを見てふるふると首を振った。
「ニア……魔法省に行きましょう。犯人が元に戻す方法を知っているかもしれません」
「どんな方だったんですか!?」
「いや、ちょっとこれはダメですって」
頑なに中身を見ようとしないフィオレンティオを見て、ニアは相手の詳細を聞き出すのをやめた。彼女はそうですか、とため息をつくと、腕を組んだ。
「まあ魔法省には誕生祭の報告で行く用があったので、早めに行くに越したことはないんですが……」
行く用……というのは、誕生祭でフィオレンティオが見せた新しい魔法の報告だろう。彼女は国際魔法連盟にフィオレンティオの魔法を紹介するたび、ふざけているのかと呆れられるらしい。彼女にはぜひとも強く生きてほしい。
フィオレンティオはファイルをぱたんと閉じて、父の執務室の上に置いた。再び王女らしく背筋を伸ばすと、彼女は私に一瞥を投げてきた。
「シャノン様も来られますか?」
「無論、ついていく」
「承知しました」
フィオレンティオの笑顔は普段見せるへらへらしたものではなく、王女らしい厳しさに満ちたものだった。