18.ニアとフィオ
ニアがフィオレンティオ・エスタ・エステリウスと出会ったのは、十年前――ニアが十四歳のときだ。
エリン王国王都西部にある迷いの森に向かった父親・ギルバートは、全裸で少女を連れて帰ってきた。
「なに、犯罪?」
ニアを連れたドロシーが放った最初の一言は、それだった。
「犯罪なわけないだろ。それより寒いから服をくれ」
「全裸のおっさんが知らない女の子連れてたら犯罪だと思うでしょ!」
全裸の父親が、部下に服をねだる――できれば一生目にしたくない光景だった。ニアは部下に指示を出すドロシーを横目に、ギルバートが連れ帰った少女の前に立った。
「……あなた、名前は?」
金髪の少女は、首を傾げていた。なにか喋っているが、内容は聞き取れない。
「お父様、この人もしかして……」
ニアは少女の脇に立つギルバートの方へ視線を飛ばした。彼はぼうぼうに生えた髭を触りながら、言った。
「ああ。言葉が通じない。ただ発語に規則性はあるから、まるきり言語が使えない……というわけではなさそうだ」
そこで、とギルバートは言葉を切り、ニアのほうを向いてきた。こういう時の父親がロクなことを頼んでこないことを、ニアは知っている。
「この子に、常識を教えてやってくれないか」
そらきた。
「……お父様、拾ってきた責任くらい取ろうとは思わないのですか?」
当時のニアの年齢は十四。王族のように伝手があるわけでもないので、普段は貴族学院に通っている。つまり昼間はただの学生だ。その上、人ひとりの世話をしろだなんて、だいぶ無茶を言ってくれる。
「だって俺、大臣だよ? ちょー忙しいんだよ?」
「私も学生ですよ」
「なにも昼間っから世話しろって言ってるわけじゃない。昼間はメイドをつける。帰ってきて妹と遊ぶ感覚でいい」
平然と言ってくれる。その妹が外見相応な人格を持っているのならまだしも、中身は赤子同然なのだ。それにかかる手間は想像するに易い。
「私だって帰って来てからもいろいろやらないといけないことがあるんですよ。もうっ、そんなんだからお母様にも逃げられるんですよ」
ニアの母親は、ニアが五歳のときに離婚を突きつけてきた。曰く、「わたしの気持ちを全然理解してくれない」とのこと。
母親は最初ニアを連れて田舎に戻ろうとしたが、ニアはそれを拒んだ。人間関係で全く上手くいっていない父親を、放っておけないと思ったからだ。その結果、どちらが保護者かわからない有様である。
母親の存在を口にすると、ギルバートは見るからに嫌そうな顔をした。
「げっ……やめろよニア、父さんは相手の弱点を正確に突くような子に育てた覚えはないぞ」
「弱点と思っているなら直してください」
返す言葉がなくなったギルバートは、しょんぼりとうなだれる。そんな彼を無視して、ニアは父親が連れ帰った少女と向き合った。
「こんにちは、私はニアだよ」
「……?」
少女は困惑した顔になった。それもそうだ、彼女にとってニアの知っている言葉は知らない言葉なのだから。
ニアは彼女に向かって、手を差し出した。
「ニア」
ただ一言、自分の名前を言うと。
「……ニア」
彼女はニアの手をゆっくりと掴んだ。冷たい手だった。
しばらくはあなたとしか呼べなかったので、早く名前を付けないといけないなと思った。
少女が手づかみで食事をするのをやめるころには、言葉もだいぶ通じるようになってきた。
相変わらず理解できないような魔法を使っている少女に、ニアはふと思い出して尋ねた。
「あなた、名前は?」
少女は無言でゆっくりと振り向いて、しばらく手を止めて考えた。そして弱音を漏らすかのように、名前を口にした。
「フィオレンティオ……エスタ、エステリウス」
口調のわりに長い名前だったので、ニアは違和感を覚えた。
「それは……エステリウスが姓、ってこと?」
少女はゆるゆると首を横に振った。
「知りません」
その声色はどこか寂しげで、ニアは何かやってしまっただろうか、と後悔した。
フィオレンティオ、と呼んでも彼女は浮かない顔をしたままだったので、その後もニアはあなたと呼び続けた。
そのあと彼女は天災認定され、「弔鐘の魔女」フィオレンティオ・エスタ・エステリウスの名は世界中に知れ渡った。
ちょうどそのころ、ニアはフィオレンティオに与えた部屋を訪ねることとなる。
そこは足の踏み場もないほど魔法関連の道具で埋め尽くされており、人間として必要な設備はなにもなかった。
「ああニア。来たんですね」
憑りつかれたような表情で、フィオレンティオはニアのほうを振り向いた。ニアは薄暗い小屋の入り口で立ち止まったまま、彼女に問いを投げた。
「ちゃんと寝てる?」
金色の髪はぼさぼさに伸び、目の下にはくっきりとクマが浮かんでいた。フィオレンティオはその問いに首をひねる。
「寝なくても平気です」
「いつか体調に支障をきたすよ」
「寝れば治ります」
人間としての本能のようなものが、彼女には欠けていた。いずれ目の届かないところで死んでしまいそうな雰囲気があったが、ニアには彼女を止める余裕がなかった。
「……で、どうしてここに来たんですか」
フィオレンティオは机から目を離さずに、ニアへ尋ねた。
「お父様――ギルバート様の様態を伝えに来たの」
フィオレンティオは振り向く気配も見せない。ニアは気にせず、そのまま先を話した。
「男性にのみ遺伝する病で――お父様は、現代の医療技術でも難しい領域になってきた。お医者様は、お父様と過ごせる時間は多く見積もって一か月だって」
「……そうですか」
フィオレンティオは、それ以外言わなかった。
現代の魔法よりはるかに進んだ技術を持っているくせに、彼女はそれを人のために使おうとしない。それは道徳的にどうなんだ、と思い続けてきたニアの忍耐が、そこで途切れた。
「そうですか、って……もっと何か言ってよ! あなた、お父様が病気になってから一回も会いに行ってないでしょ!」
「わたしが会いに行ったら、ギルバート様の病状は回復しますか?」
多分これは冗談とかではなく、本心からそう思っているのだ。
彼女には看取るとか気遣うとか、そういう行為が一切見られなかった。どうやら人の心情が理解できないらしい。
「そういうことじゃなくて――言いたいこととかないの!?」
「ないですよ。わたしはべつに、こんなところ来なくてもよかったので」
冷たい口ぶりだった。
それでもニアは、彼女の面倒を見る義務があった。ただ、父親が拾ってきたからという理由だけで、だ。
「あの子を大賢者に……ですか」
そんな会話を交わした数日後、ギルバートがそんな話を出してきた。
「そうそう。今の姫様は年下だ、あいつも守るべきものができるだろ」
「いえでも……あの子は」
空っぽなんです、と言いそうになって、喉奥でつっかえた。第二の娘のようにかわいがってきたフィオレンティオにそんなふうに思われているだなんて、ギルバートが知ったらきっと悲しむだろう。
「人と接するのは向いてないって?」
そんなニアの心情を読んだかのように、ギルバートはそう問いかけた。ニアはためらいつつも、頷いた。
「いいんだよ。向いてねぇくらいがちょうどいい」
ギルバートはしたり顔で言った。
「なにせあの姫様も、人間不信ぎみだ。ちぃっとばかし人間らしくねぇ方が、うまくやっていけんだろ」
また適当なことを言う。
当時のニアは、そう思ったものだ。
ちなみにシャノンがそのくらいの時期に賊に誘拐されたと知るのは、もう少し後のことだ。