10.ドロシー先生と
翌朝、私の執務室に行くと、扉の前にドロシーが立っていた。
「あら、大賢者様。姫様はまだ来てないわよ?」
もうすぐ還暦を迎えるというドロシーは、迷子の子供を諭すかのように言った。
「ドロシー、詳しい話は中でやろう」
「……大賢者様?」
私は執務室の扉を開け、中に入る。振り返ると、ドロシーが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「信じられないかもしれないが、私とフィオの精神が入れ替わっている。私の精神は、シャノン・マッキャンドルのものだ」
ドロシーが私の言葉を受け、顎に指をかけて考え込んだ。
「つまり、今私が話しているのは姫様……ということでいいのかしら?」
「そうだ。理解が早くて助かる」
私が頷くと、ドロシーは理解したようでひきつった笑みを浮かべた。
「また大賢者様のいたずら?」
「いや。今回は王城の闖入者による襲撃だ」
相変わらずフィオレンティオの周囲からの認識は常軌を逸している。これが彼女のいたずらならどれほどよかっただろうか。
私は手に持った身の丈ほどの杖を、ドロシーに向ける。
「ドロシー。私に魔法を教えてくれ」
ドロシーは頭を抱えた。まあそうなるだろう。
「大賢者様の魔力って、世界でもずば抜けて多いのよ?」
「知っている」
六年前の大賢者就任の際に先代の魔法省大臣が魔力量を測ったそうだが、はるか昔に残されたドラゴンの魔力量の記録とほとんど一致したらしい。ドラゴンは魔物の中でもずば抜けた力を持つため、フィオレンティオが規格外というのは誰の目にも明らかだ。
「そんな方の魔力を、中の下程度の魔力しかない私が制御するっていうの?」
「そうだ。お前が使える程度の魔法を使えるようになりたいんだ」
ドロシーは眉間の皺を指でいじり始めた。自分でも戦術を教える家庭教師にはふさわしくない頼みをしているという自覚はある。
「頼む。もう二軒も建物を壊したんだ」
「それを聞いて受けようとは思わないわよ!」
それはそうだ。三軒目の建物がエリン王国王城となったら、フィオレンティオに一生かかっても返せない負債を負わせることになるかもしれない。
彼女は苦い顔をしながらも、ゆっくりと頷いた。
「…………わかったわ。姫様のお願いだものね」
日頃から人徳を積んでおいてよかったなあ、と思った。
執務室で練習すると被害が大きくなりかねない、ということで、私とドロシーは騎士団の訓練用ホールを貸し切っていた。
騎士団には魔法使いも所属しているので、ここには対魔法障壁が張ってある。なので私が誤射した場合、ドロシーに被害が及ぶだけだ。
「いいかしら、姫様」
ドロシーは魔法耐性のあるローブに着替えていた。しかしそれでも足りないかもしれないのが、フィオレンティオの恐ろしいところだ。
「広大な砂漠の中から、一粒の砂をつまみあげるの。その砂を空に向かって投げるような感覚で、魔法を使ってみて」
「……規模が大きすぎないか?」
「大賢者様ほどの魔力になると、これくらい小さいものをイメージしないとダメよ」
仕方がないので、彼女に言われた通り砂漠を思い浮かべてみる。
広大な砂漠の中を歩き、しゃがみ込んで一粒砂を拾う。その砂を空に向かって投げると、そのそばから水となって天を突き抜けていく。そんなイメージだ。
杖の先端にある、琥珀色の宝石が光る。思い描いた映像を消さないように、そのまま杖を握る力を緩める。
「――お」
杖の先端から、吹き出すように水が生成された。いつもなら威力が強すぎて反動で制御を失っているところだが、今度はそれほど大量の水は出てこなかった。水は大きく弧を描き、そしてドロシーの顔を濡らした。
「……どうだ、ドロシー」
ドロシーは腕で顔を軽く拭くと、教師の顔で言った。
「まだ強いけど、いいわね。もっと威力を弱くする必要はあるけど、それは制御を学びながらやればいいわ」
私はというと、今まで力に振り回されていた分、こんなにあっさり普通の魔法を打てたことに驚いていた。
「ドロシー、なんでこんな細かい制御の仕方を知っているんだ?」
今までこんなに苦戦を強いられてきた威力の制御が、ドロシーの言葉ひとつでできるようになった。いくら彼女が魔法を研究していたとはいえ、こんな規格外の人間にも適用できる指導法があるとは思えない。
「そうね……私が昔魔法省で働いてたことは、知っているわよね」
「ああ」
ドロシーは元魔法省の役人で、軍部の魔法使い部隊に指示を出す役目を担っていた。そこで功績を上げたとかで、第一王女シャノンの家庭教師に抜擢されたのだ。
「そのときに、書庫で記録を見つけたのよ。大賢者様と同じかそれ以上の魔力を持つ人間の、観察記録をね」
「そんな奴、いるのか?」
「『いた』のよ。日付を見たけど、今から三百五十年も前の記録だった。そのころはドラゴンの研究が進んでて、その一環でしょうね」
その言葉で、私は入れ替わり事件の犯人――アンディの言葉を思い出した。
ドラゴンの心臓によって、魔力を多く溜められる人間が創造される、と彼は言っていた。
「ドラゴンの心臓で人造人間が作れるとか言っていたが、それか?」
私が尋ねると、ドロシーは肩を竦めた。
「さあ。ドラゴンによる災害を防ぐためって書いてあったから、たまたまドラゴンと同じくらいの魔力の人間を研究して、ドラゴンを無力化しようとしただけかもね」
「そんな人間、ほかにもいたのか……」
フィオレンティオ級の魔法使いが何人もいたら、完全に世界のバランスは崩壊するだろう。国を治める立場の人間からすると、それはだいぶ厄介だ。
「歴史上には何人かいるわ。でもだいたいは晩年の記録よ。魔力量は長年の鍛錬で増加するから、もしかしたらその研究対象は相当年寄りだったのかも」
魔法が使えなかった人間が晩年になって魔法を使えるようになる、というのはよくある話だ。ドロシーも昔は魔法の研究者として生計を立てるにはかなり厳しい魔力量だったというが、今となっては困らない程度には使えるらしい。
「……となると、フィオレンティオは晩年には大変なことになるだろうな」
「そうねえ、今だいたい十五歳くらいに見えるから……うん。頑張ってちょうだい、姫様」
「あいつは大賢者だ。あと二十年もすれば代替わりもする」
私がそう言うと、ドロシーが温かい目で私を見てきた。
「添い遂げるんじゃないの?」
「お前までそんなことを言い出したら終わりだ」
フィオレンティオのプロポーズが毎回派手すぎるせいで、だんだんと外堀を埋められている。しかし本人はそれを自覚なしにやっているのだからなおさらたちが悪い。
「とか言って、まんざらでもないんじゃないの?」
フィオレンティオの、一生をかけたかのような必死のプロポーズ。彼女は私を第一王女としてではなく、シャノンとして認識したうえで求婚してきている。
陰謀も策略もない感情を向けてくるような相手は、彼女と家族以外ではなかなかいない。
しかし、だからこそ、私は第一王女として生きなければならない。第一王女として接してくる人間のほうが、ずっと多いのだから。
「――私までそんなことを言い出したら、今度こそ終わりだ」
国を治めるために生まれたのだから、国のために生きなくては。
だからこそ、シャノンとしての願いや悲しみは、できるだけ見ないふりをすべきだ。少なくとも私は、そう思っている。