第一話 亡国の日
新しい話、始めました。
そこは静謐な空間だった。
薄暗い部屋の中に、いるのは少女が唯一人。
神像を前に真摯に祈りを捧げていた。
神聖な雰囲気を漂わせた光景ではあるが、よく見ればそこは人々が祈りを捧げるための場所とは思えなかった。
部屋には窓一つなく、火を燃やさないランプのような器具が弱々しい光で室内を照らしていた。
椅子一つない部屋に、置かれた神像は小さく、多くの人々が祈りを捧げるには位置も半端だった。
この部屋の中心は神像ではなかった。
部屋の床の大半を占める幾何学的な不思議な模様。
魔法陣を思わせるその模様は、この世界では理術と呼ばれる、魔法のような不思議な現象を引き起こすための装置である。
この部屋は理術を行使するための儀式を行う場所であった。
祈りも儀式の一環であろうか?
しかし、床の模様は何の反応も示さず、その他のいかなる現象も起こらない。
それでも少女は神に祈る。ただ一心に。
「姫様、こちらにいらっしゃいましたか。」
突如静寂が破られた。
部屋の外から声をかけたのは、中年の男性であった。
「オークス卿、もう時間なのですか?」
姫と呼ばれた少女が顔を上げる。
彼女の名前はフローラ・ホートリア。この国の王女であった。
「はい。陛下も既にお待ちです。」
答える男はデビッド・オークス。この国の宰相であった。
「分かりました。すぐに向かいます。」
フローラ姫とオークス宰相は連れ立って歩きだした。
ここは王城の中。複雑に入りんだ通路を、しかし二人は迷わずに進んで行った。
「やはり、勇者様は現れませんでしたか。」
「……はい。どれほど祈ろうと神は応えず、聖剣は輝かず。召喚陣も反応を示しません。」
宰相の問いに淡々と答える王女。しかしその表情には深い憂いと悲しみが宿っていた。
「かつて勇者様を召喚したという時代とは状況が異なります。致し方ないかと。」
「ええ、勇者様は既に現れました。それをみすみす死なせてしまった……いえ、人の手で弑してしまった。神に見放されても致し方ありません。」
「姫様……」
「分かっています。それでも私たちが諦めることは許されません。どれほど困難で絶望的であろうとも、最後まで抗わなければなりません。ただ願わくば――」
(勇者様でなくとも、聖剣でなくとも構いません。神よ、私たちに抗う術を、希望をお与えください。)
王女と宰相がその部屋に着いた時、国王をはじめとする主要なメンバーは既に揃っていた。
しかし王女の遅参を咎める者はないかった。王女の行っていたことは人類最後の希望である。そのことはここにいる誰もが理解していた。
「フローラ、勇者様は……やはり駄目であったか。」
「はい。やはり勇者様は一世に一代限り。お亡くなりになったからといって、代わりは現れないのでしょう。」
「そうか……」
王女の答えは最後の希望が断たれたことを意味する。
だがそれを聞いた国王にも、他の者にも動揺はない。
そんな段階はとっくに過ぎていた。
僅かでも可能性のあることは全て試し、それらが潰えただけのこと。
もとより望み薄だと知れていたことが、やはり無駄だとはっきりしただけ。それだけのこと。
既に覚悟はできていた。
だから国王は決断する。
「勇者様亡き今、魔族を倒す術は失われた。この国は遠からず滅亡する。今後はその前提で考えるように。」
国王自ら国の滅びを宣言する。それは苦渋に満ちた決断であろう。周りの者達も、王の発言を重く受け止める。
「これより我らの成すべきことは三つ。第一に、国が滅ぶのを少しでも先に延ばし、時間を稼ぐ。全軍を以てこれに当たれ!」
「ハッ!」
返事を返したのは、軍を統べるこの国の将軍だった。
「第二に、一人でも多くの国民、いや人類を生き延びさせること。手段は問わない。あらゆる方法を検討し、可能性の高いものから実行せよ!」
これに何人かが頷く。既に検討は始まっていたのだろう。
「第三に、この人類の危機を乗り越えた者達のために我々の知識と歴史を残すのだ。同じ過ちを繰り返さぬよう、我らの愚行をしっかりと伝えよ!」
そして国王は王女に向き直る。
「フローラよ、お前には他国に逃げ延びてもらう。今後の戦況によってどの国に行くかは検討するが、カルナかルーシェン、場合によってはさらに別の地へ逃れることになるだろう。聖剣と勇者召喚の技術は人類の切り札だ。生き延びた者に確実に伝える必要がある。」
「……はい。」
国と共に滅びる覚悟の国王と、国を捨ててでも生き延びる覚悟の王女。どちらも悲壮な思いを胸に秘めていた。
その時であった。部屋の外が俄かに騒がしくなり、扉が開いた。
「会議中に失礼します! 緊急の報告がございます!」
入ってきたのは文官の一人だった。
国王は顔を曇らせる。
今行われている会議は、国と人類の存亡にかかわる重要なもの。そのことは入ってきた文官も当然知っている。
その重要な会議に割り込んでまでしなければならない報告とは、どれほど重大な事態であろうか?
状況が好転する材料の全くない現状、悪い予感しかしなかった。
だが、悪い報告だとしても、なおさら聞かないわけにはいかない。
文官の後ろから現れたのは一人の兵士だった。
戦場から早馬で駆け付けたのだろう、鎧は汚れや破損も目立ち、本人は息も絶え絶えだ。
兵士は一度息を整えると、大きな声でただ一言報告した。
「敵七魔将が一体、憤怒のサタンを打ち取りました!」
最高の笑顔で言い切った兵士に対し、国王と国の重鎮たちは反応できなかった。
一瞬、何を言われたのか誰も理解できなかったのだ。
それは、どれほど望んでもあり得ないこと、長い歴史の中でそう考えられてきた。
だから、あまりにも絶望的な状況に、都合の良い幻聴を聞いてしまったのではないか。
皆自分の耳を疑ってしまったのだ。
最初に茫然自失から立ち直ったのは、国王だった。
「そ、それは真か? いったいどうやって!?」
国王の言葉を皮切りに、各々勝手に言葉を発し始めた。
もはや会議どころではなかった。
国の滅亡すら冷静に受け止めた重鎮たちが、今混乱の極みにあった。
その混乱をもたらした本人は……よほど無理をして急いで来たのだろう、伝令兵は気を失っていた。
もはやこの混乱を収拾する術はない。そう思われた。
――パン、パン!
その時、突然手を打ち鳴らす音が大きく鳴り響いた。
一瞬喧騒が止まり、皆の視線がそちらを向いた。
視線の先にいたのは宰相であった。
「皆さんお静かにお願いします。この件につきましては詳細を精査し、真偽を明らかにしなければなりません。」
宰相の言葉で、他の者もようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「うむ、その通りだな。じきに第二報も届くだろう。会議の続きは今の話を確認した後に再開することとする。」
国王の一声で、その場は解散となった。
皆の心に微かな希望を灯して。
主人公は次の第二話から登場します。