今日こそはこの駅を、通過してみてもいい。
いつものように、始発の駅に立っていた。
ドアを開けたまま出発を待っている普通列車。響き渡るアナウンスに急かされて、私はその列車に乗った。
少しあってドアが閉まる。
遠慮がちに動き出した列車に揺られながら、よろよろとよろけながらも、最前列を目指した。
運転室のすぐ後ろ、進行方向に背を向けた二人がけの席。
今日もその席はあいていて、私はそこに大人しく座った。
その席は、この列車の中では唯一、隠されているかのようにひっそりと存在する席。きっとあれだ。運転席側とは言っても、運転席はブラインドが下ろしてあって、先頭からの景色が見えるわけでもないから。
人気のない席なんだなと、薄く笑う。
列車は順調に走り出した。流れゆく、車窓からの景色。
どこかに行きたかった、とか。ここじゃない別の場所に行ってしまいたかった、とか。
誰もが一度は覚えのある、そんなどこにでも転がっていそうな衝動。
けれど、私のはちょっと違っていて、そんなんじゃないってわかっている。
二人がけの席は、私ひとりでは物足りないほど広い。ぽかりとあいた空間が気になって、持っていた小さなリュックを、隣に置いてみる。
以前、乗った時には、ここにあなたがいた。
このちょっとした秘密の隠れ家のような席で、隠れるようにキスをし、おでこをくっつけながら、くすくすと笑いあった。握った手からあなたの体温が伝わってきて、お互いの肩にもたれかかっては、その体温をくすぐったく思ったりした。
けれど、いまは私のリュックがそこにあって。このリュックであいた穴を塞ごうとしているのかもしれない。
昼下がりという時間。乗客はぽつりぽつり。通勤ラッシュとは次元の違う、視界に入るのんびりとした風景を感じながら。
喉が乾いた。リュックからペットボトルを取り出す。喉を十分に潤してから、私は車窓を覗き込んだ。
列車が向かっている終着駅は、どんな駅なのだろう?
この線路の終わりには、なにがあるのだろう?
そこに、私を助けてくれる、なにか答えのようなものか、もしくは魔法みたいなものが、あるのだろうか?
あなたと降りた、あの駅のことは、鮮明に覚えてる。
けれど、今日こそは。その駅を通過してみてもいい。
思いも寄らない別れに、心が潰れそうだった。好きだと告白をしたのは、私から。けれど、そんな予想外の別れと、今まで大切に大切に胸の中に保管していた告白を、終着駅に捨てにいくというのは、どうだろうか?
見知らぬ駅まで行ってしまおう。終着駅まで行って、この恋を捨てにいこう。足りない運賃は、そこで払えばいい。
そうだ、音楽を聴いていこう。
そうすれば、
あの駅のことはきっと、
忘れられる。
好きな歌手の優しい歌声。
そのリズムにゆらりゆらりと身体を揺らしていれば、
知らない間に、
通り過ぎているかもしれない。
今日こそはきっと、
通過できるはず。
そして明日にはきっと、
別の駅に立てるのだと思う。
あの駅まであと三つ、あなたの笑顔が浮かんできて、鼻の奥がつんと痛んだ。
あと二つ、あなたの言葉が耳をかすめていく。隣をそっと見る。リュック。あなたがそこに居ないという、現実をつきつけられて。
あと一つ、
涙がじわりと量を増やしていき、列車が緩やかなカーブを描きながらブレーキをかけた瞬間。溜まっていた涙が散って、握り込んだ私の手の甲の上に落ちた。
列車がホームに停まり、プシュシューと気の抜けた音をさせて、ドアがなにごともなかったように開く。
昔。この駅で二人。駆け落ちでもするように、手を繋いで、降りたんだったね。
あなたはホームに降りた瞬間、私の肩を抱きしめて、これからはずっと一緒だと、耳元で囁いてくれた。
あなたとの思い出の駅。隣のリュックに手を伸ばす。リュックの持ち手をぐっと握り、その瞬間にふわりと浮かんだような感覚の、身体。
足に力が入って、今にも駆け出してしまいそうな衝動にかられた。
いつもならこの駅でひとり降りて、ぽつんと孤独なホームのベンチで、あなたがもう私の側に居ないのだということを、何度も確認していたけれど。
今日は。
今日こそは。
リュックの持ち手を握っていた手から、力を抜いてみた。
もうすぐ、ドアが閉まりますというアナウンス。
それでも。
いつものように立ち上がりもせず、駆け出しもしない。
私はその座席に座ったままでいた。
そうなんだ。
今日こそはこの駅を。
通過してみてもいい。
リュックから手を離し、
外したイヤホンをまたつけた。
ドアが閉まり、列車が走り出す。
ガタンゴトン
ガタンゴトン
ああ、ようやく、
私はこの駅を降りなかった。
離れていくホームに、あなたの笑顔だけを残して、
私はこのまま、終着駅までいくよ。
そうすればきっと明日は、
別の駅に立てるのだと思うから。




