無人駅の終電を待つ(※意味がわかると怖い話)
「間に合ったぁ」
次にこの駅へ入ってくるのが終電だ。終電までは10分ほどあるけれど……次の電車が無いと考えると、途端に余裕を感じなくなるのは私だけだろうか。
改札に定期券をかざし、ホームへたどり着いた。
さて、立っているのもなんだし、ベンチに座らせてもらおう。
ベンチの方を見ると先客がいた。
「こんばんは。隣、いいですか」
「……どうぞ」
少し間があったけど、許可を得たので1つ離れた席に腰を降ろす。
もちろんここは公共の場なので、誰かに許可を取る必要はないのだけど、今日は聞きたい気分だった。
「珍しいですよね、終電に来る人」
ここは片田舎の無人駅だ。近くに繁華街も無いので、この時間に、この駅から乗る人はほとんどいない。
だからか、妙に仲間意識が芽生えて話しかけてしまった。
「……」
隣の男性はうつむいたまま、視線だけをこちらに向ける。驚いたような、警戒しているような、よく分からない目付きだった。
くたびれたスーツによれよれのネクタイ、ズボンの裾にも汚れが溜まっている。髪も整えられておらず、毛先がバラバラだ。
いきなり話しかけて、困らせてしまっただろうか。
「別に……たまたまですよ」
この静かなホームでなければ、届かなかったであろう。低く静かな声が返ってきた。
「そうですか」
しばらく沈黙が流れる。湿気を含んだ生温かい風が、ホームを流れていく。
「仕事、やめたんですよ」
その薄く、渇いた唇から、言葉が漏れる。小さいけれど、ハッキリと私の耳に届いた。
「え……」
何と言葉を掛けていいか分からなかった。でも、もう少し話を聞かなくてはいけないと思った。意志を示すため、少しだけ彼の方に体を向ける。
彼はやはり視線だけをこちらに動かすと、すぐに正面、線路の方へ戻した。
「もう3日も前ですけどね」
彼は会話を止めることなく、ぽつりぽつりと続けた。
私に、というよりはこの駅に、この風に語っているようだった。
「いわゆるブラック企業ってやつですかね。残業に次ぐ残業、休日出勤……それでも会社のため、同僚のためだと自分に言い聞かせてきました」
溜まっていたものを吐き出すように、垂れ流していく。
「逃げ出したんですよ、俺は。仲間に全て押しつけて」
彼が初めてこちらを向いた。不意に頭上の蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返した。点滅は一瞬だったけれど、世界が切り替わったような、そんな不思議な感覚に襲われた。
そこでようやく、彼の顔をはっきりと見ることができた。その顔は目が落ち窪み、無精髭も伸び放題だ。ひどく疲れて見える。
3日でこうなるとは思えない。きっと、しばらく前からこうだったのだろう。
でも、何故だろうか……彼の顔を、どこかで見たことがあったような……新聞? ネットニュース?
「その後の3日間は、何を?」
彼は再び目を伏せると、続きを語ってくれた。
「家に帰ることもできず、適当な電車に乗って、降りて……ただ、ひたすらそれを繰り返しました。どう移動したかも良く分かりません。
気づいたら、この駅にいたんですよ」
彼はゆっくりと腰を上げると、一歩前に出る。その背中は、ひどく小さく見えた。
「でも、これで最後にしようと思います」
なんだか瞬きするだけで、消えてしまいそうだ。存在自体が希薄と言えば、伝わるだろうか。
そんな彼に、私はこう伝えた。
「あなたは、勇気がありますね」
彼は振り返ると、大きく目を見開いた。動揺で黒目が小刻みに揺れる。一体何を、そう言いたげな瞳であった。
「会社をやめる、という選択を取ることができたじゃないですか」
私も立ち上がり、彼の隣に立つ。
「私、この終電の常連なんですよ」
私も古馴染みのこの駅に、夏の風に、世間に語ってみることにした。
「うまく仕事をこなすことができなくって、いつも終電までかかっちゃうんですよ。
最近は終電にすら間に合わなくて……会社で寝る日の方が多くなっちゃいました」
右にいる彼の方を向き、にっこりと笑ってみせた。
どうりで彼の姿に既視感を覚えるはずだ。彼の姿は終電の窓に映る、私自身の姿によく似ていた。
「私は、そんな環境から逃げ出すこともできない、意気地なしでした」
彼は並行世界の私なのではないだろうか。そんな突飛な発想をしてしまった。
━━ティロリロリロ、ティロリロリロ
風とともに、列車の接近を知らせるベルが流れていく。
━━1番線に列車が参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ち下さい
気持ち、風の温度が下がった気がした。
列車を出迎えるため、私は数歩前に出る。
彼は、その場を動かなかった。
「次、行かないんですか?」
今度は私が振り返る。おもむろに顔を上げた彼は、不器用に笑ってみせた。
「俺は、もう少し留まってみようと思います」
彼の瞳は、凪のように落ち着きを取り戻していた。
「そうですか」
彼のことは気になったけれど……私は始発まで待てそうにない。
「では、お先に失礼します」
名もしらぬ友人に別れを告げ、私はホームに背を向ける。
俺を踏み留まらせた、名もしらぬ人は行ってしまった。
夜の闇を切り裂くようにホームに入ってきた終電電車は、先ほどまでとは違う風の臭いを運んできた。
その車体は駅の電灯に照らし出され、白銅色に煌めいていた。
「俺がそちらへ向かうには、もうしばらく掛かりそうです」
動かなくなった電車に背を向け、俺は無人駅を後にした。