告白と恐怖
俺が汀相楽という人物に出会ったのは、初夏の頃だろうか。席替えで前後になった。
皆、俺を「神童」と畏れる故か、話しかけて来ない中、相楽だけは俺に普通に自己紹介をした。なんだかんだと理由をつけられて、よろしくと言わされたことは、今でもはっきり覚えている。
「神童」という肩書きに他者が遠退く中、相楽だけはやたらと俺の世話を焼いた。俺が世話を焼いた、という方が正しいかもしれない。
そのときにはもう、相楽しか眼中になく、相楽の一挙手一投足に気を取られていた。
例えば、日課の花壇の整備で、見も知らぬ女子と話していたりとか、会ったばかりなのに名前呼びでタメ口になっていたりとか。
相楽は元々、俺と違って、来る者は拒まず、といった広い心を持っていた。
だからこそ誰とでも親しくでき、和やかに話す。
そのことに、胸がちくりと痛んだのだ。
餓鬼くさいと言われてしまえば、それまでだろう。
俺は名前呼びされた女子が羨ましくて仕方なかった。少し、恨めしいという感情があったかもしれない。
だから、その女子との会話が終わったらしい相楽を待ち伏せて、俺は自分の名前も呼び捨てにするように、と約束を取り付けた。
自分は相楽の特別になりたい。
相楽が誰かの特別になるのは嫌だ。相楽が誰かを特別にするのも嫌だ。
そう、この頃から、俺には歪んだ独占欲が芽生え始めていたのだ。
ある日のこと。
その日はいつもと変わらないといえば変わらない日だった。
下駄箱や机に女子からのラブレターが入っているなど、一年のときから日常茶飯事だったから。
相楽を想ってしまった今、そんな想いを受け取ることなどできはしない。
だから俺は、そのラブレターをびりびりと引き裂いた。
相楽が見ているとも知らず。
紙を引き裂く音が空間を切り裂いた後、しばしの沈黙。
俺はどこか、気が緩んでいたのかもしれない。
その気を引き戻したのは、
「あの、ええと……」
戸惑ったような、相楽の声。
俺は凍りついた。相楽がもう登校してくるなんて、予想していなかったから。
よりにもよって、相楽にこの光景を見られるなんて……
どう言い訳をすればいいのかわからなかった。
けれど相楽は俺の言葉を待たず、自分の席へ歩いてきた。目の前の机に鞄を置くと、床に落ちた一片を拾う。
他にも床に散らばったそれらをかき集めていた。どうやら、片付けるつもりのようだ。
俺もさすがに手伝った。自分が破いた責任を相楽にまで押し付けているようで、あまりいい気はしなかった。
「このことはあまり、他の人には言わないでくださいね」
俺がようやく口を開いて言ったのはそれだった。
どれだけ自分が可愛いというのか。
そこからの一日はぎこちなく過ぎた。相楽とはいつものように言葉を交わせず、相楽は俺の言ったことを律儀に守って、朝のことを誰にも言わずに昼休みまで過ごした。
それは、昼休みに崩れた。
相楽が喋ったわけではない。一応あのラブレターの内容は読んでいたのだから、きちんと予期しておくべきだったのだ。
「貴方のことが好きです。昼休みにお話ししたいです」
そう書いてあったのだから。
昼休み、一人で教室を訪れた四宮鈴音という少女は、緊張で頬を赤らめていた。
いや、緊張だけではないだろう。
教室のガヤがひどいため、廊下に出て話すことになった。内容は決まっている。
……下らない。
四宮鈴音は俺にとって、見も知らぬ少女だ。去年教室が同じだったとか、そういう繋がりはない。繋がりがないのに、会話などできようはずもなく、俺と彼女が交わした言葉は至って簡素なものだった。
「好きです」
「俺はそうでもありません」
即答だった。当たり前だ。ラブレターを引き裂いた時点で、俺の答えは決まっていたのだ。この少女が今朝のことを知る由もないが。
少女は目に涙を溜め、溢れさせそうになりながら、わかりました、と頷く。
冷淡に見えるだろう俺と目を合わせていられなかったのだろうか、少女はすぐに走り去った。
よくある光景だ。一年のときもあった。俺は袖にし続けている。
それはきっと、相楽という存在と出会うためだったのだと思う。
朝、相楽に聞いた。
「こういうのは気にするのか」と。
相楽は「年頃の男子だからラブレターが気にならないと言ったら嘘になる」と笑った。
嫌われないだろうか。
俺が冷たい人間だと知って、相楽は俺から遠ざかったりしないだろうか。
相楽は優しすぎるほどに優しい人間だと、俺は思っている。俺とは正反対だ。何でも受け入れる。
きっと、大丈夫だ、と俺は教室に戻った。
相楽は俺のことだって受け入れるほどに優しいのだから。
俺が今日振った少女は学年内ではそこそこに有名だったらしく、俺が戻った教室内は先程よりざわついていた。彼女が走り去っていくのは見えただろうから、結果は察して余りあるだろう。
相楽は誰かと歓談しているのだろうか、とふと視線を向けると、意外なことに黙々と弁当を食べていた。
不思議なことに美味しそうなその弁当を相楽は全く美味しくなさそうに食べていた。
おそらく、「喋らない」ということを意識したのだろう。朝のラブレターとこの一件を結びつけるのはあまりに容易だったから。
今度からは周囲にもっと警戒しよう。
そう決意して、昼食を食べ始める。ガヤが五月蝿いので、読書に没頭した。
そんな感じで一日が過ぎていく。
無難に終わりそうなのは、約束を守ってくれた相楽のおかげだ、とホームルーム中に考えた。
帰りにお礼を言おう、と決め、起立、礼。
振り返る。
「相楽っ……て」
相楽は脱兎のごとく教室から出ていった。
逃げられた!?
予想だにしない相楽の行動に俺は柄にもなくテンパる。
何故相楽が逃げたのか。思い当たる節が全くといっていいほどない。
どうすればいいだろう……
俺は数分、そればかりを考えて、おろおろしていた。
こんなに感情を揺さぶられるのも、相楽が初めてだった。
ありがとうの一つさえ上手く伝えられないとは……また明日、という手はあるが。
いや、待てよ。
相楽は教室から出ただけで、何も帰ったと決まったわけではないのだ。
そして、教室以外で相楽が学校内で行きそうなところと言ったら……
学校の花壇しかない。
俺は後先考えずに走り出した。
それで、ひどく後悔するとも知らずに。
やっぱりいた、と相楽の方に駆け寄ろうとして気づく。
この前見た高身長の女と、チャラそうな女の二人と、楽しそうに会話している。
相楽が、笑っている。
「楽しそうですね」
冷たい空気がその空間を駆け巡る。自分の雰囲気のせいなのだろうな、という自覚はあった。
相楽は俺のなのに……
そんな考えが、名前も知らない女子二人に対しての嫉妬を生んでいた。
空気を読まず、片方のアホ面が俺を見てきゃいきゃい騒ぐ。
「神童サマだー! うわぁ、本当にどっから見ても美男子。女子が虜になるのもわかるわぁ」
お前は女子じゃないのか、と余計なツッコミが頭に浮かぶが、俺は憮然とした態度を崩さずアホ面女に問う。
「貴女は誰ですか?」
「アタシ? アタシは南夏帆。呼び捨てでいいよー、あとタメね」
初対面なのに馴れ馴れしい。タメ口などもっての外だ。
「敬語は仕様です」
「ええ? お堅いー」
なんだかこいつと話すのは面倒くさそうだ、と目をもう一人の方に移す。視線に反応してか、もう一人は立ち上がり、俺と目線を同じくした。
「貴女は?」
「東雲春子。緑化委員さ」
今まで話してきた女子の中にはない、芯の強さを感じていた。東雲春子という人物に。
東雲には一度対面している。そのときも少し威圧をかけたが、たじろぐことはなかった。
数秒の沈黙の間、じっと見つめ合う。東雲の目はじっとこちらを観察しているように鋭い。何者にも怖じ気づかない女豹のようだった。
沈黙を突っ切って、俺は相楽の腕を掴み、引き寄せる。
「相楽、一緒に帰りましょう」
返事は待たなかった。
異質な女子の存在が、俺を不安にさせていた。
東雲と南と楽しそうに会話する相楽。実際、楽しいのだろう。緑化委員とか言っていたから、花のことでも話していたのだろうか。毎日花壇の世話をする相楽らしい。
──盗られる。
そんな危機感が、相楽を引きずるようにしながら足早にその場から離れるという行動に繋がっていた。
相楽が少し驚いたように俺を見上げる。その鶯色の瞳は透明だ。
「今日はどうしたの?」
「いえ……なんとなく、ですけど、相楽と一緒に帰りたいと思って」
相楽とは友人のような関係にあるが、これまで一緒に帰ったことはなかった。きっと家も違う方向だ。
それでも、少しでも長く、一緒にいたかった。相楽の隣は居心地がいいから。
相楽は何も不審がることなく、「そっか」と笑った。
その笑顔が眩しい。
「そうだ、うちに遊びに来ない?」
「遊び、ですか?」
友達付き合いというのが全くないわけではなかったが、そういうものに疎い俺は「友達の家に遊びに行く」という発想がなかった。
それがいいことなのか悪いことなのかわからない。だが、相楽が楽しそうだから、悪いことではないはずだ。
「ほら、夏休みとかさ」
「ふむ……」
相楽の家に行く。その発想はなかった。いいかもしれない。
だが、残念ながら、夏には予定がある。様々な検定試験、オープンキャンパス、家内行事……
「夏休みは、無理そうです」
俺が結論を早々に出すと、相楽は残念そうに「そっかぁ」と力なく言い、へにゃりと笑う。
「今年は向日葵植えたから、見てほしかったんだけど、まあ、用事があるなら仕方ないよね」
「向日葵? 植えた? 相楽は家庭菜園でもやっているんですか?」
「食べ物はやってないよ。花だけね」
なんとなく、想像がつく。似合うだろうな、と思った。
向日葵は何故植えたのだろうか。誰かにあげるため? 誰に?
向日葵は花贈りにはうってつけだ。特に告白のときなどはこんな言葉がある。
「あなただけを見ている」
一途に太陽神を見上げる花となった少女の言葉だ。
「まあ、ただの趣味なんだけどね」
相楽のその言葉にどこか安心した自分がいた。想い人がいる、というわけではないようだ。
「相楽が育てた花なら、さぞや綺麗なことでしょうね」
「まだ咲いてないからわかんないよー」
からからと笑う相楽。
そこにふと、想いが口を突いて出る。
「見に行くのも、いいかもしれませんね」
「本当!?」
がばっとこちらを振り向いた相楽の目はきらきらとしていた。閑静な住宅街とは対照的に相楽は随分と興奮しているようだ。
そんな素直な感情に、俺は笑みをこぼす。
「ええ。見てみたいな、相楽の育てた花。きっといい匂いがするんでしょうね。相楽みたいに」
「えっ」
そのとき相楽の顔が赤く見えたのは、果たして夕陽のせいだったのだろうか。
今日はありがとうございました、と言って別れた帰り道は、今までになく楽しかった。