白崎幸葵の回顧
「さが、ら……?」
僕に名前を呼ばれたことに、その琥珀色の目をいっぱいに開く青年──白崎、幸葵くん。
首を絞めていた手の力が緩んだことにより、僕の喉は酸素の吸入を再開する。
何故忘れてしまっていたのかは、酸素の足りない頭では、まだはっきりと思い出せない。
ただ、幸葵くんが猶予を与えてくれたため、少し頭に余裕ができた。
状況を整理する。
今、僕を押し倒し、先程まで首を絞めていたこの美しい濡れ羽色の髪に琥珀色の瞳を持つ青年は、僕の抜け落ちた学生時代の記憶の中にいた「白崎幸葵」という人物だった。
僕はまだ完全には思い出していないが、この人物と昔の僕は、随分親しかったんだと思う。
その親しかった人物に忘れられていたのだ。その精神的な衝撃は察して余りある。
だが、何故彼は僕の首を絞めたのか。
「あのとき」とは一体……
考えるうちに、僕の意識は黒く染まった。
遠くで、彼の呼ぶ声がした。
「花はいりませんか?」
そんな朗らかな呼び声に引かれて立ち止まった花屋。呼び込みをしている店員らしき人物に、俺は自然と目をやった。
そして、驚愕した。
髪の色は、経年変化なのか、抜けて赤茶けた色が疎らに混じっていた。
けれど、目。鶯色の特徴的な目は、見間違えようがなかった。
汀相楽。
俺──白崎幸葵がかつて過ちを犯した相手にして、最も謝罪すべき人物だった。
葛藤は、あった。
何しろ事が事だ。はっきり言うと、殺人未遂。未遂で済んだからいい、とは言い難い罪だ。
彼は許してくれるだろうか。俺を嫌っているのではないだろうか。話にも取り合ってもらえないのではないだろうか──
様々な懸念が俺の中を渦巻いた。
けれど、俺は心を定めた。
あのときの過ちを、悔いない日はなかった。
何より悔いたのは……手紙を残したとは言えど、直接彼に謝罪を告げないまま、逃げるように姿を消したことだった。
だから、謝ろうと、その手を掴んだ。
古今東西、謝罪というものは難しいもので、そうすんなりと口を突いて出てはくれないものだった。
彼の懐かしい目を見た瞬間、俺は何も言えなくなった。ただ、不安が込み上げてきた。
俺を映す彼の目には「白崎幸葵」として映っていないように見えたのだ。
思わず、「君……」と問いを口に出しそうになったが、やめた。
口を閉ざしたのは、本人確認をすべきかどうか悩んだからだ。
──この期に及んで、自分が可愛かったのだ。
もし、「覚えていない」と言われたら。
「どちらさまですか」と言われたら。
ひどく惨めになるような気がして。
けれど、俺を店へと引き込む彼の手は、どこか学生時代のことを思い起こさせて、店に導かれるままに入って、ぼんやりと彼の花畑に魅入った。
リナリアを花束に、と思わず注文した。
リナリアの花言葉は、「私の恋に気づいてください」だ。
それで彼が、気づいてくれるのではないか、と淡い期待を抱いていた。
だが、彼は俺をただの客として扱った。
淡い期待はやはり、淡い期待に過ぎなかったのだ。
俺はその淡い色の花束を、受け取ることができなかった。
沸々と、17年振りだろうか……抑えきれない歪んだ恋情と、それを忘れられた悲しみからの激情に、体が支配され、きょとんとする彼を、相楽を、俺は押し倒して、
あのときと同じように、首を絞めた。
同じ状況にすれば嫌でも思い出すんじゃないか、と勝手な憶測を立てて。
その目論見は悲しくも、成功した。
相楽は息苦しそうにしながらも、呟いたのだ。
「幸葵くん」と俺の名を。
俺は思わず手を放す。すると相楽は咳き込んで、意識を失った。
大丈夫、あのときと違い、息はある。
倒れた相楽を奥に運びながら、俺は過去を省みた。




