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青い景色に空いた穴  作者: 香久山ルイ
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穴を埋めるように……

 ぎりぎりと掴まれた手首が痛い。顔を上げるとそこには怒気に満ちた表情の哀音くんがいた。


「てめぇ……兄貴はどうした?」


 彼は救急車がここに入ったのを見たらしく、俺が家に戻ってくるのを待っていたらしい。開けっぱなしの玄関に靴が脱ぎ捨てられていた。

 近くの病院だったから、追うという選択肢もあったはずだが、彼とて社会人。職場の都合もあっただろう。

 ああ、会ってしまった、止められてしまった、という思いが去来する。


「離して、ください」

「嫌だね。今度ばかりは逃げるのは許さねぇ」


 逃げる。……逃げる、か。

 相楽のいるあの世とやらへ行くのは、「逃げ」に該当するのだろうか、と俺は苦笑した。

 反対の手首からはまだだらだらと血が流れている。意識が遠退いていきそうな中、俺はたった一言、確実に彼に伝えなくてはいけない言葉を口にした。




「相楽は、死にました」


 そう告げたのを最後に、俺は意識を閉ざした。

 ああ、これで君の元へ逝ける、なんて夢物語をまだ俺は見ていた。


「え、死ん……?」


 白崎の答えにおれが呆然としていると、貧血からか、白崎が気を失い、思わず力を抜いてしまった手の中から白崎の手がすり抜けていく。

 とさりと倒れた白崎を気にかける余裕もなかった。兄貴が死んだ。兄貴が死んだ。それだけでもう頭がいっぱいだ。

 兄貴が、病院に運ばれて、死んだ。




 あまりにも現実味がない言葉だった。だがそれは単におれが信じたくないだけで……おれは残った理性で、きっと兄貴の後を追おうとしたのであろう白崎の手当てをした。

 かなり深くまで切っていたため、止血が大変だった。

 それから少し呆けてから、携帯端末を手に取る。近くの病院の電話番号を思い浮かべ、プッシュする。コール音がやけに無機質に聞こえた。


「はい、総合病院受付です」

「あの、すいません、先程運ばれた汀相楽の弟ですが、兄は……」


 少しの間を置いて、現実が語りかけてきた。


「先程、お亡くなりになりました」


 受付から代わって医者から放たれた現実という言葉は重かった。ずしり、と胸に重りを埋められたようだ。


「そう、ですか……」

「あの、相楽さんのご家族でしたら、相楽さんの死因についていくつかお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「はい」


 医者の言葉に頷くしかなかった。その先に絶望しかなくても。

 兄の死因は脳の疾患によるものだった。特に記憶を司る部分がひどく損傷していたという。

 記憶というワードにおれは顔を歪めずにはいられなかった。──記憶喪失とは切っても切れない関係だろう。

 兄貴が記憶喪失だった原因は、白崎に裏切られた精神的ショックではなく、その頃から疾患が始まっていたからなのだ。

 ……気づかなかった。他人のふりであっても、ほぼ毎日顔を合わせていたというのに。

 兄貴の変調に、何も気づけなかった。


 ……白崎も後を追いたくなるわけだ、とおれは寝室のベッドに横たえた人物を見やる。その人物は気を失ってはいるが、間一髪で一命をとりとめたらしい。呼吸が安定している。

 おれも白崎のことをああだこうだと責められない。おれだって今、兄貴の後を追いたい気持ちと必死に戦っているのだから。

 おれをこちら側に押し留めているのは、「兄貴はきっとそれを望まないから」という気休めの想像だ。けれどきっと、兄貴に記憶があったなら、家族にも友人にも、後追いなんてされたくないと言っただろう。兄貴はお人好しだから。お人好しすぎて、こちらの苦しみまでわからない人だから。

 けれど、おれは苦しみを選んだ。それがおれの義務であり、責任だからだ。それはおれ以外の家族と交流を絶ってしまっていた兄貴の葬儀をするため、ももちろんあったが……

 おれは白崎の眠る横顔を見た。




 おれにはもう一つ、義務があるのだ。


 深い深い眠りの中で、俺は相楽の姿を見た。白く、何もない背景は純真な相楽によく似合っていた。

 そんな相楽に手を伸ばすが、触れようとすれば、彼は遠ざかってしまう。


「何故!?」


 俺は叫んだ。けれど、相楽が何か答えることはなく、ただ生前の微笑みをそのままに、首を横に振るだけだった。

 それから、徐に相楽の方から手を伸ばしてきて……俺からは触れられなかったのに、相楽はいとも容易く俺に触れて、肩をとん、と押し、両手で突き放した。

 相楽の最初で最後の拒絶。

 俺は、涙が込み上げた。


「君を追いかけてはいけないの!?」


 泣き叫んだ。しかし、相楽が答えることはない。ただ、悲しげに笑みを浮かべて、白の向こう側に消えていく。


「待って……!」




 そう手を伸ばしたところで、俺の意識は覚醒した。

 手を伸ばした先にあるのはただの天井で、あまりにも無慈悲だな、と思った。

 ──俺は、死ねなかったのだ。


 ベッドの傍らには机に出しっぱなしになっていた日記帳を読んでいる哀音くんがいた。……彼に生かされた。生かされてしまった。

 相楽から、遠ざけられてしまった。

 そう思うと恨み言が口を衝いて出る。


「どうして俺を助けたんですか? 生かしたんですか?」


 彼の耳には届いているはずだ。日記帳のページをめくる手が、一瞬止まった。だが彼は答えようとしない。

 俺は憤慨した。


「貴方にとって、俺は害悪以外の何者でもないでしょう!?17年前に、君の兄である相楽を好きだと言って殺しかけた異常性癖の、異常性愛で、兄を愛していた君にとっては邪魔以外の何にもならなかったはずだ!

 なのになんで生かした? なんで俺を相楽のところに行かせてくれなかったんだ!?」


 俺が叫び終えると、哀音くんはがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。

 低い声で、告げる。


「そんなの、兄貴が望まないからに決まってるだろ」


「相楽が望まないから? その相楽はもうこの世にはいないというのに? 君に相楽の何がわかるっていうんだ。弟とはいえ、所詮は他人に過ぎないくせに!」


 俺は裡に籠った感情を吐き出すように言い返す。すると哀音くんは無表情になり、ぱたんと日記帳を閉じて机の上に置いた。

 その目は仄暗く、光が宿っていない。


「所詮は他人? その通りだな。だが、お前こそ、どの口が言うんだ? おれ以上に他人のくせに」


 ぎりり、と音がした。哀音くんの拳が握りしめられた音だ。


「お前に兄貴の何がわかるのか以前に問題がある。お前、忘れてるだろ。自分が罪人であるということを」


 指摘され、ごくりと生唾を飲み込む。……俺は一度、相楽を殺しかけた罪人。その事実が荒波のように押し寄せてきて、決壊する。


「お前ばっか泣きやがって……!」


 呪詛の滲むような声で哀音くんは言った。


「泣きたいのはおれの方なんだよ!」


 泣きたいのはおれの方。

 それはそうだろう。肉親を亡くしたのだから。家族以上に愛していた人がいなくなったのだから。

 俺はそこでようやく、哀音くんが無理をしていることに気づいた。一滴たりとも、彼はまだ涙を流していないのである。


「兄貴には忘れられるし、結局思い出してもらえないまま死なれるし、最期を看取ったのがよりによって、一番憎むべきお前なんだからな。不満や恨み言なんて、山のようにあるんだよ。今だって、兄貴を追いたい気持ちと、お前を殺したい気持ちと戦ってんだ。

 でもなあ? なんでおれがそれを実行しないか、あんたにわかるか?」


 わからない。わかるわけない。哀音くんだって、俺にとっては一人の他人に過ぎないのだから。

 俺はふるふると首を横に振って、「わかるわけないでしょう」と呟いた。


 途端に、哀音くんが乱雑に俺の襟首を掴まえ、ぐいっと顔を引き寄せる。一発殴ってから、逃れようのない距離で、俺への罰を口にした。


「お前はなぁ、兄貴の17年分の人生を奪ったんだ、そんな、兄貴の分まで、生きやがれ!!」


 生きやがれ、生きやがれ、生きやがれ……


 哀音くんの台詞が頭の中で谺する。

 俺はあの事件からずっと、俺なんていない方がいいと思っていた。死んでしまえば、誰の害悪にもならない、と。それで罪を帳消しにできると思っていた。

 けれど、違った。罪はあがなわなければならない。俺は相楽の時間を奪った罰を、受けなければならなかったのだ。

 すとんと臟腑の奥にすんなり落ちるような気がした。


「そう、ですか」


 それで罪が償えるのですか。


 俺は哀音くんを見つめて、真っ直ぐに言った。


「君がそういうなら、俺は、生きます。相楽が生きて生きて生きられなかった分を、俺が生きる。それが答えで、償いなのなら……」


 白崎の野郎の言葉に、おれは安堵する。

 これで、おれのもう一つの義務は果たせる。


「そう決めたんなら、お前が死ねないように、おれがずっと見張っといてやる。お前が勝手に死なないように」




 それが、兄貴の望みだから。

 そして、おれの心の中のけじめだから。

 白崎と一緒に、おれは兄貴への贖罪をする。ずっと、ずっと。

 生き続けて生き続けて、そうして死んだら、ようやく兄貴に顔向けできる。

 死は楽で、逃げ道だ。

 生は苦で、逃げられない。

 そうして、苦しい方を選んで、兄貴の見られなかった景色を見て。

 死んだ後にでも、笑って話せたらなんて思うんだ。

 だから、兄貴、待っていてね。

 兄貴の分も、おれたち、生きるから、さ。




 §fin§

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