アヤマチ
振り払われて呆然としていたのも束の間、おれは兄貴を追いかけた。
直感が告げる。──兄貴は死ぬ気だ。自棄になっているのがわかった。
急がないと、と廊下を駆け抜け、兄貴が上った階段を駆け上がっていく。上方からばきぃっと快音がした。おそらく、扉が壊された音だろう。階段で上方で扉ときたら、屋上しか考えられない。
ドラマやアニメなんかで病院の屋上にいるシーンなんかがよくあるが、実際は病院の屋上なんて開け放っているわけがない。
絶好の飛び降り場所にしかなり得ない。
おそらく、兄貴の病室の異変はナースセンターとかに伝わっているだろう。だから、本当は病院の人たちに任せなきゃいけない。
でも、それでは間に合わないような気がして、おれは自分の体力を最大限に出して三段飛ばしで階段を駆け上がった。
拓けた視界。目にまず飛び込んでくるのは、胸の透くような青い青い空。
普段なら気持ちのいい空だが、今日は何故か痛々しく見えた。
おれはすぐさま兄貴の姿を探した。すると兄貴はフェンスをよじ上っていた。もう頂上に近い。
おれは咄嗟に走った。フェンスに辿り着くのと同時、兄貴の体がフェンスの頂上から傾ぐ。
ちょうど、フェンスには穴が空いていた。少し赤いものがついている。兄貴がここを上ったのかもしれない。
幸いなことにその穴は手を伸ばせば落ちてくる兄貴を受け止められそうな位置にあった。
そこそこのスピードで落ちてきた体を、おれは咄嗟に掴まえた。重力に逆らわない体重はおれの細い両腕でやっとこさ支えられるものだった。
気づいたら、穴を大きくして、自分もずたぼろになっていた。
ずたぼろといっても、服が破けた程度だ。人一人の命を救ったと思えば安いもんだ。
おれはその後駆けつけた人々に助けられて、兄貴をこちら側に引き戻した。
──よかれと思って。
目を開けると、また知らない天井。目を開けるという行為を行った時点で、僕は生きているということが確定していた。
その事実にぞっとする。大切な人に首を絞められて、死にきらなかった自分。自分から命を絶とうとして、まだ生きている。
……誰に助けられたかは、大体見当がついている。その人物を責めるつもりはない。
ただ僕は戦慄しただけだ。自分が生きているという事実に。
体を動かそうとすると、以前より束縛感がある気がする。どうやら首やら足やらに包帯が巻かれているらしい。足はともかく、首?
疑問に思って、開けた視界をぐるりと見回す。すると傍らには哀音がいた。
哀音は僕と目が合うと、とても嬉しそうに目を輝かせた。それは嬉しいのだが、死にたかった自分としては複雑な心境だ。
哀音に訊いてみる。
「哀音、この首の包帯は、何?」
「それは……」
哀音が言い淀む。それから、意を決したように口を開くが、タイミング悪く医者が訪れる。
「ああ、汀さん、お目覚めになったんですね」
安堵する医者に曖昧な頷きを返しながら、哀音に目をやる。哀音は少し苦い面持ちをしていたが、やがて答えようと口を開き、
「相楽、目を覚ましたのね」
またもタイミング悪く訪れた両親に遮られる。なんだか苛立たしくなってきたため、僕は全員に問いかけた。
「この首の包帯はなんですか?」
すると、哀音以外の全員が凍りつく。僕が目覚めたことを喜んで賑わいでいた室内が水を打ったように静まり返る。
そこで僕は想像する。きっとこれはどうあっても隠したいことなのだろう、と。
そんな、誰も返事をしない中、哀音だけが動いた。
他の人々が哀音を制止する。だが、いずれわかることだ、という一言で哀音は反論を封じ、僕の首の包帯をほどいてしまった。
「覚悟くらいは決めといてね」
哀音はそれだけ言うと外した包帯を持つのとは逆の手で、僕に手鏡を渡してきた。一瞬、意図が読めなかったが、見ろということなのだろう。
僕は手鏡を覗き込んだ。
僕の首筋には、はっきりくっきりと赤黒い手形が残っていた。ホラー映画もびっくりな不気味さだ。みんなが見せたくなかったのもわかる。
これが彼が残した爪痕。
そう考えると、少しずつ、息が苦しくなってきた。別に彼はここにいない。だというのに、あのときのようにきりきりと僕の首を絞めてくる感覚がして、酸素を欲した脳が、空気を求める。
上手く、息ができない。まるで何かの暗示にかかってしまったようだ。……あのときの続きのような気がして、僕は苛まれる。
「兄貴?」
僕の様子がおかしいことに気づいたのだろう。哀音が手を伸ばしてきた。肩を叩くか背中をさするかして宥めようとしたのだろう。
ぱしぃんっ
しかし僕はその手を拒み、振り払った。
手を振り払われた哀音は呆然とした顔で僕を見ていた。まるで、何が起こったかわからないみたいに。
どうして拒絶されたのかわからない哀音はもう一度僕に接触しようと試みる。けれど僕は同様に払った。
わけがわからない、というような表情を哀音は浮かべていた。答えを求めるように僕を見る。けれど、僕は答えを知らない。だって、僕も何故そうしているのかわからない。
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイわから、ナイ……
「うああああああっ」
途端に僕の頭の中で何かが弾けて、僕は暴れ回った。
かしゃーん、という点滴台が倒れる音を最後に、僕の耳は音を拾わなくなった。
「僕に触るな、僕に触れるんじゃない、もう、誰も!」
あんな思いをするのは御免だ、と僕は叫んだ。誰がどう反応したかはわからない。僕が見ていたのは、過去の幻影。
「愛してる……」
そう狂ったように呟きながら、僕の首を絞めてきた彼──幸葵くん。
信じていたのに、
信じテイタのニ……
何故、彼は僕を信じてくれなかったの?
何故、彼は僕の首を絞めたの?
何故、彼は僕を……殺そうとしたの?
何もかもわからない。ワカラナイわからナイ。
一番近くにいたよね。一番傍にいたよね。ずっと一緒だったよね?
それが、なんで、どうして?
「相楽をオレダケノモノに……」
記憶の中にその答えがあることにさえ、僕は目を向けることもせずに、僕は暴れて暴れて……やがて幻影さえも途切れて、僕の意識は闇に閉ざされた。




