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青い景色に空いた穴  作者: 香久山ルイ
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高嶺の花

「ただいまー」




 家に入ると、何かの出汁の匂いがする。味噌汁だろうか。

なんとなく、母の匂いとは違った。

 



「あ、おかえり、兄貴」




 台所にいたのは紺色のエプロンを着けた哀音がいた。




「今日は母さん遅いんだっけ」

「ん」




 「ん」って何だ「ん」って。もう少し反応があってもいいだろう、と思ったが、食欲をそそる匂いに負ける。

 母さんには悪いが、哀音の料理は美味い。たまにこうして母さんが遅い日は哀音が作って待っている。僕が作ることもあるが、悪くもなければよくもないという微妙さなので、大抵哀音に任せている。

 近くに行くと芳ばしい香りもした。




「鮭あるっていうからムニエルにした」


 味噌汁にムニエル。和洋折衷というやつか。違うか。

 素直に焼き魚にしない辺りが哀音らしい。




「美味しそうだね」

「兄貴のためだからな」

「たまには父さんや母さんにもやってあげなよ」




 そう言うと、哀音は拗ねた。


 僕が近づくと、哀音はふとすんかすんかと鼻を動かす。




「兄貴? なんか別なやつの匂いがする」

「匂いって何さ。哀音犬じゃあるまいし」




 腑に落ちないという顔をされたが、僕は別段気にしなかった。

 哀音が仕方なさそうに調理に戻り、そういえば、と切り出す。




「兄貴今日遅かったな。何かあったの?」

「勉強。家帰るとやる気なくすから」

「精が出ますね」




 弟の見事なまでの片言に僕はじとっとした目を向けるけれど、哀音はしれっと無視して、へらでフライパンの魚を返していた。バターの豊潤な香りが広がる。

 途端に食欲が戻ってくる。




「早く食べたい」

「すぐできるから。兄貴は日課、やってきたら?」




 おおっと忘れるところだった。

 哀音の言う僕の日課とは、花の世話だ。

 庭の片隅で育てている。季節ごとに違う花を見られるようにしているのだ。

 庭に出ると、月明かりが草花を照らしていた。


「シロタエギクは季節を問わず面白いよねぇ」




 水をやりながら、きらきらとした細い枝のような葉に目をやる。花がなくてもどこか華やかなのがシロタエギクだ。

 時期は徐々に夏に向かう頃。思い切って向日葵を植えたが、ちゃんと咲くだろうか。




「楽しみだなぁ」




 そういえば、学校の花壇はどんな花を咲かせるのだろうか。


 物思いに耽るうちに、哀音が呼びに来た。




「おーい、兄貴ー……って、また花のこと妄想してんの?」

「妄想とは失礼な。想像だよ」

「変わりゃせんだろ。晩飯できたぞ」




 哀音はとうとう僕にまで反抗期か。違うか。

 とりあえず、いい匂いのする方向へ向かっていく。食事は既に並んでおり、哀音はエプロンを丁寧に畳んでいた。

 兄弟二人きりというのが物寂しいが、哀音の料理は美味しそうだ。


 翌朝。




 早めに登校すると、教室には幸葵くんの姿しかなかった。




「おはようこう──」






 びりっ






 明るく呼び掛けようとしたところを引き裂くような音。なんだか、空気が読めなかったみたいな雰囲気になって、僕は口をぱくぱくと間抜けに開閉させた。

 朝日照らす教室の中、音源は教室のほぼ中央に立つ麗人、幸葵くん以外にあり得ないだろう。はらはらと陽光に紙片が映えて、白い花びらのようだった。

 幸葵くんは落ちていくそれを冷めた目で見ていた。






 数十秒の沈黙。






「ええと……」




 気まずいながらもなんとか会話しようと試みた結果、話題がないことに気づいて、なんとも締まりのない声が出た。そこで幸葵くんが振り向き、微かに瞠目する。




「相楽、いたんですか」

「うん、まあ」




 気まずいままに、紙片を示して問いかける。






「それ、何?」


 幸葵くんはきょとんとした後、僕が指し示す先を追い、ああ、と口にする。




「これですか。

 なんでもありません。敢えて言うなら下らない文の連なりだったものを無意味以下のものにしようと試みた結果です」




 なんだか小難しい言い回しをするなぁ……

 僕はひとまず、彼の後ろにある自分の席へと向かう。まだ拾われていない紙片は、僕の席の方まで散らばってきていた。

 その中にふと、白以外の色彩を見つける。赤だ。赤いハートのシール。

 想像するに、元々は便箋だったのではないだろうか。便箋……手紙、というと、なんとなく女子が浮かぶ。




 女子、手紙、赤いハート……






「ラブレター?」


 僕が予測すると、幸葵くんの肩がびくんと震える。それから、やけに不安げな眼差しで、自分の椅子に寄りかかり、立ちんぼの僕を見上げる。




「相楽はこういうの、気にしますか?」


「えっ」




 唐突といえば唐突な問いに僕は戸惑う。

 ラブレターが気にならないと言えば嘘になるけれど、この場合ラブレター単体に対しての問いなのか、破り捨てた彼の心情に対する問いなのか判別がつかない。




「ラブレターは気になるっちゃ気になるかな。一応年頃の男子だし?」




 ラブレターを破るのはどんな心境なのだろう、と気にもなったが、蛇が出てきそうな藪であるため、つつくのはやめて、話をもう一方の方へ逸らす。喧嘩になるのも嫌だからね。

 僕の返答に、幸葵くんは微妙な表情をする。

 欲しい答えではなかったのだろうが、出た言葉は返らない。

 幸葵くんが、しばしの躊躇いの後に、重たそうに口を開く。




「どうせ、俺の表面しか、見ていないんでしょう……」




 散らばる紙片を見下ろして告げた一言は、まだ二人しかおらず広すぎる教室に重々しく落ちた。


 表面しか見ていない、と幸葵くんは嘆いた。……いや、嘆いたのだろうか。

 何に対して? ラブレターに対してだろうか。告白してきた女の子に対してだろうか。それとも、ありきたりな返答をした僕に対してだろうか。




 ひとまず、花びらのように散り、床に着いた瞬間に「ごみ」と化した憐れな紙片を一つ拾う。他に誰か来たときにはちょっとした事件になってしまうだろうから、なるべく事は穏便に済ませようと片付けることにした。




「あ、すみません、相楽」




 幸葵くんも気づいて、拾い集める。文字の連なりだったそれは見事にばらばらで、何と書かれていたかはわからない。ただ一つ、確かなことは、これを書いた手紙の主は、振られたことになるのだろう。

 幸葵くんは気難しい顔をして、紙片を集めていた。




「このことはあまり言い触らさないでくださいね」




 幸葵くんも自分の成したことが気になるようで、僕は無言で頷いておいた。


 幸葵くんにラブレターが来るのは仕方ないことだと思う。顔もいいし、成績もいいし、きっと、その傍らに立つことができただけでもいいことずくめだろう。女子が狙うのもわかる。

 男の僕でも、綺麗な人だなぁ、と思うくらいだ。ついでに言うと、夜空を思わせる容貌は幻想的にも見えた。




 ただ、何がよくたって、人間性がなければその先に待つのは混迷だろう。

 僕は見方によっては、その「人間性」というのを垣間見てしまったのかもしれない。白崎幸葵という人物の。






 ラブレターを無意味以下のものにしようと破り捨てる心境。そこに潜む人間性、あるいは本性。




 駄目だ。

 深く考えようとしても、なんだか靄がかかっている。判然としない。

 たった一つの行動だけで、その人の本性を理解できるなんて、あるわけがないのだ。


 ラブレターをごみ箱に捨て去れば、心に凝る「何か」ごと、朝の一連の全てを忘れることができるような気がした。

 幸葵くんにラブレターを送った誰かさんには悪いけれど、これでいいのだと思う。

 これは幸葵くんとその人の問題であって、僕が首を突っ込む必要のない話だ。




 その日、朝の出来事が、僕と幸葵くんの間で話題になることはなかった。






 が。




 それは僕と幸葵くんの間でだけであって、他と幸葵くんとは違う。

 昼休みのことだ。




 「白崎くんはいますか?」




 若干僕には見覚えのある女の子が、幸葵くんを呼び出した。幸葵くんは僅かに目を細めたが、その少女の元に行く。

 眺めていた教室の男子がざわついた。




「あれ、二組の鈴ちゃんじゃね?」

「やっぱ可愛い」




 そう、去年クラスが一緒だった。可愛い系の美少女として学年でそこそこ人気のある四宮鈴音さんだ。


 廊下で二人は話しているようだった。内容はさすがに聞こえない。

 ただ、教室のガヤがひどい。主に男子。




「くっそぅ、白崎め」

「鈴ちゃんはみんなの鈴ちゃんだぁぁぁ……」

「でも頑張れ鈴ちゃん」




 状況はなんとなくお察しである。

 校舎裏とか、中庭とか、少女漫画のお決まりのような場所ではないが、昼休み、可愛い女の子が緊張気味に男の子を一人で呼び出しに来る。緊張気味がなければなんでもあり得そうだが、緊張気味で頬が赤らんでいた気がするから……やはり、告白だろう。




 応援する男子の声や女子の黄色い歓声が騒がしい中、哀音お手製の卵焼きにぶすりと箸を刺して持ち上げ、僕は淡々とそれを口に運ぶ。




 なんとなく、だが。






 鈴音さんの一世一代の告白は、失敗に終わるような予感がしていた。


 理由は二つ。




 一つは、今朝の出来事。

 もしかしたらだが、あの手紙の主は鈴音さんだったのかもしれない。




 もう一つは、行く前の幸葵くんの表情の揺らぎ。

 そんなにあからさまではなかったが、嫌悪、もしくは不快と取れる感情が滲んでいたように思う。

 その悪感情と破り捨てた手紙を繋ぐのは、あまりにも容易な気がして、僕は約束通り、言い触らさないように昼食に集中した。

 何も知らない知らない。




 そんな顔で食べた昼食は、料理上手な哀音が作ったはずなのに、味がしなかった気がする。




 しばらくして、鈴音さんは廊下を駆けて去っていく。教師に「廊下を走るな」と注意されやしないだろうか、とずれた観点から様子を見ていた。

 やがて、幸葵くんが無表情で席に戻ってくる。未だざわつく教室の中であるにも拘らず、つかつかという足音が明瞭に聞こえるような気がした。


 幸葵くんは何事もなかったかのように座り、昼食を再開する。本を片手に持って、読みながら食べているため、なんだか行儀が悪い。




 ただ、それを軽口がてら指摘できるほど、空気は軽くなかった。例えるなら、幸葵くんの周りには「ムカムカ」やら「イライラ」やら文字が見えそうなくらいの雰囲気になっていたのだ。




 空気は読めているものの無神経な輩は、声を潜めて話す。




「マジかよ、鈴ちゃんの告白断るとか……」

「でもみんなの鈴ちゃんは守られた」

「いや、鈴ちゃん可哀想だろ」




 というのが男子。

 女子はというと。




「やっぱり白崎くんって高嶺の花なのね」




 とのこと。




 高嶺の花ってこういうときに使う言葉なのか?






 こうしてずれたことを考えていないと、訊いてしまいそうな気がしてならなかった。

 ただ、何も言わない代わり、昼休み中ずっと、幸葵くんに視線を向けていた。

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