傷つけること
俺は正式に引っ越して、相楽と二人で暮らすことになった。初恋の人と一つ屋根の下で暮らせるなんて夢のような話だ。
ただ、お互いまだ一人暮らしだったときの癖が抜けていないらしく、相楽は店じまいするとすぐに夕食を作ってしまうし、俺は大学のラボにこもって帰りが遅くなってしまうことが多い。
相楽は二人分作って、食べないで待ってくれている。それを思うと、悪いなぁ、と思いつつ、けれど、ラボにこもってしまう癖は抜けない。
ラボにこもる癖というか、一人になろうとする癖だ。いつからかついていて、相楽と交流したときにその距離感が狂って、それから17年かかって、ようやく落ち着けるようになった。……と思いたい。
希望的観測になってしまうのは17年前の事件から僕についてしまったもう一つの癖にある。
僕は左手首を見た。そこにはびっしりと傷痕が残っている。
手首を切り刻んだ痕だ。
再会してから、俺は既に二度も同じ過ちを犯している。相楽は許してくれたけれど、それだけで全て許されていいようなことでもない。
あれから、弟の哀音くんと出会すことはなかった。哀音くんが避けているのかもしれない。
汀さんが来なくなったなぁ、と相楽が悩ましげにしていたけれど、こればかりは俺にはどうしようもないし、俺が関わっていいことでもないように思う。
哀音くんは俺の望むように俺を許してはいないだろう。その証に会えばまた殴られるのだろうな、というのは想像がつく。
それを見るのも、相楽は嫌がるだろう。無闇な揉め事は増やさないことにした。
ただ、俺は相楽が笑うことを望む傍ら、相楽が客に見せる微笑みにまで嫉妬してしまって……そうすると、自動的に自制がはたらく。
自制がはたらくようになったのはいいことだろう。だが、その分、視界が暗転して、俺は落ちていく。
意識の奈落へ。
これもある種の二重人格というのだろうか。俺の意識は俺のものではなくなって、俺は俯瞰するような形で、自分の行動を見ている。
相楽の家の自宅部分に入り、奥の狭い寝室にこもる。ベッドを汚してしまうのは忍びないため、一度ぽすんと頭を預けると、しばらくぼんやりする。それからむくりと起き上がり、鞄から何かを取り出した。
見慣れた黒い物体。ぎちぎちと刃が出される。カッターナイフだ。いつの間にか、俺の自傷専用になっていたもの。
それを、予想に違わず、俺は左手首に当てる。もう幾重にも傷痕の残る手首に、新しい赤い筋が生まれる。
意識は浮遊して俯瞰しているのに、手首を伝い落ちるその赤い液体の生ぬるい感覚が生々しく伝わってくる。
意識が浮遊しているためか、痛みという感覚はないが……
夕陽に染まる部屋の中で赤い液体がぽたりと床で弾けた。
一度刃を入れてしまえば、躊躇いなんて微塵もなくなる。
ずさずさと手首に刃を入れていく。そこから流れる赤く生ぬるい液体を映す瞳には狂気すら宿っているような気がした。自分で言うのはおかしいような気がするが。
「は、はは……」
意味のない笑みをこぼして、俺は血溜まりの上に身を落とす。
今度こそ、意識は完全に闇に染まった。
何故、こんなことになってしまったのだろう、と夢の中で考える。映画のテープのように張り巡らされた過去の映像。そこには当たり前のように相楽と過ごした楽しい高校時代の映像があれば、相楽の首を絞めた苦々しい思い出もある。
そこから、相楽にとっては空白であろう17年間。
警察に出頭し、精神診断をされ、結果異常が発覚し、俺は精神病院を転々とするようになった。
父さんは特に俺を心配してくれて、医師も俺になるべく寄り添ってくれるようになった。
現状に、何の不満もなかった。
何の不満もないというより、不満の持ちようがなかった。俺は罰されて、投獄されることさえ想定していたのだから。
殺人が未遂で済んだこともあるのだろう。……情状酌量というやつもあったのだろうか。
そんなもの、必要なかったのにな、と17年を振り返り、思う。
相楽は記憶がなくて、17年が空っぽなのならば、俺は生活の中から「相楽」がなくなったことで空っぽになった。
相楽はどこだ、と暗闇の中、俺は無意識に探していた。俺の周りは俺の傲慢が生み出した「闇」で埋め尽くされていた。相楽くらいの光がなくては、俺は歩いていけなかった。
「相楽……」
「幸葵くんっ」
無意識に呟いたはずの名に応える声があった。
その声は険しさを宿していた。
ゆるゆると瞼を上げると、そこには、相楽のいつ見ても美しい鶯色の瞳があった。
そこで間抜けにも俺は自分の失態に気づく。
もっと見つからない場所でやればよかったのに、寝室なんかで自傷したから……すぐに見つかってしまった。
朦朧とする頭で申し訳なく思って謝る。
「ごめんなさい。床を汚してしまいました」
「そういう問題じゃない」
俺の肩を抱く相楽が呆れたような溜め息を吐く。はて、呆れられるようなことをしただろうか。
と、頭を悩ませていると、不意に手首がじくりと痛んだ。痛みが頭を貫いて、思わず声が零れる。
見ると、傷ついた左手首を相楽ががっちり握りしめていた。その白い手が俺の穢い赤黒い色に染められていく。痛みで脳を焼かれ、上手く止めることもできない。
「痛いでしょう?」
珍しい、相楽の怒ったような口調に俺はよく考えることもできないまま、こくりと頷いた。
「だったらやらない」
子供が当たり前の倫理を説かれている。そんな心地がした。
「自分で自分を傷つけるのはやめて。僕を傷つけるより、よっぽどひどいじゃん」
相楽は、そう言うけれど……
「お、れは、相楽を、傷つけたく、なくて……」
「お馬鹿」
ぺしんと額に小気味のいい音を立ててしっぺが当てられる。ちょっと痛かった。
そのおかげか、なんとなくぼんやりとしていた意識が明瞭になって、相楽の表情がはっきり見えた。
その表情に俺は瞠目する。
相楽は今にも泣きそうなほどに顔を歪めていたのだ。
「相楽、なんで」
「幸葵くんが自分を傷つけるからだよっ!」
相楽は涙をこぼさない代わりに叫んだ。
「幸葵くんがこうして傷ついたって、誰も喜ばない。僕だって、嬉しくない。幸葵くんは僕を傷つけるよりましだっていうけど、僕を傷つけない代わりに自分を傷つけるんだったら、そんなの……一緒だよ……」
そこまで言うと、相楽は泣き崩れた。俺はおろおろとするばかりである。
相楽を求めないための自制の行動で、まさか相楽に泣かれるとは思っていなかった。
相楽はそうやっていつも、俺の思考を凌駕していく。
「幸葵くんが傷ついた方が僕が傷つくのっ。そんなこともわかんないの? 馬鹿!」
鶯の瞳にいっぱいに溜めたものを相楽は溢れさせていた。
好きな人を泣かせてしまった。
自分のために泣いてくれているのだと思うと、嬉しくもあるが……なんだろう、心に凝るものがある。
「ごめん……」
結局、かつて神童と謳われた俺が口にできたのはそんなありきたりで陳腐な言葉だけで。
手首以上に痛む胸を抱えながら、泣きじゃくる相楽を抱き寄せた。
「ごめん、ごめん」と無意味にも思える言葉の連なりを繰り返して。
「……もうしないでよ」
相楽がようやく泣き止む頃には日がすっかり落ちていて、暗がりでもわかるほど、相楽の目は腫れぼったくなっていた。
相楽は俺には勿体ないくらいに涙を流してくれたのだ。
「ごめん……でも、無意識で、つい」
「無意識でもなんでも、幸葵くんが傷つくのは嫌で、僕の心も確かに傷ついたんだからだめなのっ!
だから今晩の夕食一品抜きね!」
なんて優しい罰なのだろうか。俺はつい、笑ってしまった。
それに相楽が不満を抱いたらしく、ぷくっと頬を膨らませる。
「幸葵くん、反省してないでしょう?」
「してますって」
「目が笑ってる」
だって相楽の顔が面白い。
そんな言い合いをしているうちに、相楽もけらけらと笑い始めて、最終的に二人で笑い合っていた。
笑いが収まる頃、二人で立ち上がった。
「そろそろ晩御飯にしよっか」
「ああ、そうだね」




