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青い景色に空いた穴  作者: 香久山ルイ
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虚しい晩御飯

 帰ろうか、と言われて顔を上げると、春さんの悲痛な顔がそこにあった。

 同時、おれは失敗したことを悟る。この人にこんな顔をさせるつもりはなかった。完全に巻き添えを食わせてしまったな、と反省する。

 春さんは何一つ悪くないというのに。




 それから、春さんはおれに依頼の制服のことを一度だけ念押しして帰っていった。本来なら、女性の夜の一人歩きは危ないから送っていくのが筋なのだろうが、肩を借りた手前、それをするのは気まずかった。




 おれは圧倒的にあの人より弱い。

 17年前も思ったことだ。暴力なんかの力の強さじゃなくて、心の強さ。それが足りないのだと思う。

 心の強さがあったなら、今日おれは白崎を殴らずにいられただろう。胸ぐらを掴まずにいられただろう。




 今日の一連は全て、己の弱さが犯したことだ。

 いるかわからないが明日、見舞いの品でも持って兄の花屋を尋ねよう。そう決めて、おれは帰途に着いた。


 帰れば、既に夕食の支度はしてあった。昆布だしの利いた質素な豆腐の味噌汁に適当に焼いただけであろう豚肉のステーキと適量の野菜。いつも似たようなメニューだが、飽きが来ない。そこが由良さんの腕ということか、おれの気質もあるのか。

 由良さんはご飯の献立は同じでも、臨機応変な対処を取れる気の利いた人だ。五十過ぎた今でも、嫁の貰い手がないのが不思議なくらい。

 聞いてみたところ、由良さんは元々、結婚願望というのがなく、むしろ生涯独身を掲げているのだとか。その割に一端の男であるおれを身近に置いていることに疑問を抱くのだが、それはきっと、おれが恋愛対象外のような年齢で、ただの甥っ子に過ぎないからだろう。




 あとは密かに思っているのだが、おれは男避けに使われているのかもしれない。身内で気がなくて容姿もまあまあな男。それだけで大いなる意味を持っているのかもしれない。


 まあ、おれも叔母に邪な感情を抱くということはない。由良さんはかっこいい女の人だが、それだけだ。年は確か25も離れている。元々浮いた話の一つもない由良さんが今更色気づくなんて考えにくいし、おれも、相変わらず兄貴以外に気はない。






 そう、兄貴。


 記憶を取り戻した兄貴。でもおれのことは思い出さなかった兄貴。

 白崎のことしか思い出さなかった兄貴。


 兄貴を詰ることは容易い。だが、兄貴に通じることはないだろう。

 今日、一度だけ対面した兄貴の目を見てわかったのだ。


 白崎にとって、兄貴が大切な存在であるように、




 兄貴にとっても、白崎は大切な存在なのだ。

 守りたいと思うほどに。




 記憶が戻ってこれなのだから、到底敵うまい。




 現実逃避に一口白米を放り込んだ。

 何の味も感じられなくて、虚しかった。


「……明日」


 ほとんどない、食事時のコミュニケーション。珍しく会話を持ちかけてきたのは、由良さんだった。


「明日もまた、行くんだろう? 依頼人とは午前中に来るよう打ち合わせをした。午前中に行ってくるといい」


 由良さんにはまだ何も言っていない。

 だが、あのときのただならぬ雰囲気で、あまり白崎と顔を合わせない方がいいと察したのだろう。相変わらず気端の回る人だ、と感嘆しながら、「ありがとうございます」と口にした。




 事情を深く掘ってこない辺りもどことなく安心できる。寡黙だけど、この人は好きだ。人間として。見習いたいところなど、ごまんとある。

 けれどきっと、この人のようにはなれないんだろうなぁ、とおれは諦める。由良さんが持たない「執着」を、おれはとっくの昔からずっと持ち続けているから。


 兄貴を好きだということ。




 この執着は一生かかっても取れない気がする。依頼で来る頑固汚れの方がよっぽど可愛い。




 なんてことを考えながら、おれは箸を進め、やがてごちそうさま、と手を合わせる。

 勤勉な由良さんはすぐ立ちたがるが、食事の片付けくらいは住み込ませてもらっているのだからやろう、と早めに食べているのだ。手持ちぶさたになる由良さんは、一人仕事を片付けに行く。本当に職人気質な人だ。




 皿を洗いながら、ふと外を見る。曇りガラスで見えはしないがぽつぽつとガラスを雨が打ってきていた。

 明日、花屋は開いているだろうか、と思いを馳せながら、皿を洗っていく。

 不安になるのは仕方ない。兄貴の花屋は不定休だ。ほとんど毎日やっているが、兄貴の気分一つでそんなの簡単に変わってしまうのだから。

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