思いがけない来客
「かなくんは誰かいい人見つけたのか? んん?」
「春さん、あんたそれわかってて言ってるだろ」
カウンターを隔てて向かいに座った彼女はカウンターから乗り出しておれをからかってくる。この人は誰よりもおれのことを理解しようとし、実際今も理解しようとしているのだろう。八割くらいは理解されている気がする。
春さんは、わかっているはずだ。事件の概要を。あの日の放課後、兄貴の代わりに花壇に水やりをしていたのは他でもない春さんだ。校舎へ駆けていくおれも見ていたというし、救急車が到着したときなんか目を剥いただろう。
あれから春さんには世話になった。入院した兄貴の見舞いにも来てくれたし、兄貴の代わりに花壇を見てくれた。
兄貴が記憶を失ってから、少しだけ、ほんの少しだけ、俺に肩を貸してくれた恩人でもある。
兄貴の卒業式のときまで世話になった。兄貴が出ることはなかったが、兄貴の高校生活、最後の最後まで世話になりっぱなしだった気もする。
そんな間柄の人だ。おれの気質はよく理解している。
おれが兄貴に執着して惚れた腫れたどころではないことだって、わかっているだろう。
春さんは苦笑する。
「会話くらいしておくれよ。きみはあたしを覚えているんだろう?」
「っ……」
春さんのその一言が胸に刺さった。
春さんは一応、兄貴が記憶喪失なのを知っている。会ったことはないが知っている。
だから、その言葉はおれの胸を突き刺す。
「ちゃんと喋ってくれよ。あんたからあたしが失われてないって証を……くれよ」
「はる、さん」
喉から絞り出すように声を出した。掠れた声で何か言葉を形にしようとした。
そのとき。
ちりん
やけに涼やかな来客の鈴が静寂の中に谺した。
「いらっしゃいま、」
息が止まった感覚がした。たぶん客である彼もそうだっただろう。
そいつは少し手当てのされた頬で、それでも身なりは整えて入ってきた。おれと合った琥珀色のいやに綺麗な瞳は見開かれ、端麗な唇は何かを紡ごうとして、音にできずにいた。
さすがの春さんもこの「再会」は予想していなかったらしい。静かに驚いている気配が背中にある。
そう、背中。
おれは驚いて立ち竦むなんて阿呆な真似をできるほど、心穏やかではなかったし、そいつを目の前にして、心穏やかでいられようはずもない。
迷いなく、進んだ先にはそいつが立っていて、体は自動的にそいつの襟首を掴まえた。春さんが何か叫んだ気がするが、おれは止まらない。──おれは止まれない。
「お久しぶりだな、どの面下げてここに来た? 白崎幸葵サン?」
「な、なんで君がここに……」
白崎の野郎が絞り出したのは至極どうでもいい問いだった。
「俺はただ、紹介されたクリーニング屋に来ただけなんですが、ね」
「ほぉ?」
紹介とは、兄貴にされたのだろうか?
まあ、兄貴はおれの勤め先なんて知らないし、言っていても覚えられないだろう。おそらく近くのクリーニング屋の名を口にしたに過ぎない。兄貴の近くにいたいがためにここを選んだことが裏目に出るとは。
ぎりぎりと苛立ちが襟首を掴まえる手に力を込める。入口の柱に押し付けられて、こいつもそこそこに苦しいはずだが、何も言ってこない。
その目にあるのは、懺悔。
許されたいわけではない。ただ、犯した罪に対してのせめてもの贖いがこれだとでも思っているのだろう。……気に食わない。
こんなことで償えるわけないだろう!?
「哀音」
叫びそうになったとき、静かに名前を呼ばれた。その声は春さんのものではなく、もっと冷たさを孕んだ──おれの雇い主・由良さんのものだった。
今は勤務中だ。上司に話しかけられたら、応じざるを得まい。
「はい、なんですか?」
「事情は知らんが客は客だ。丁重に扱え」
「……わかりました」
掴んでいた襟首を放す。無意識に緊張していたのだろうそいつが、体の強張りを解く様子に苛立ちを覚えないでもなかったが、叔母の言う通り、「接客」しなければならなかった。
叔母──由良さんには頭が上がらない。おれの我が儘を兄貴以外で初めてちゃんと聞き入れてくれた人だ。兄貴の傍にいたいからなどという不純な志望理由を斬って捨てることなく、このクリーニング屋に採用してくれたのは他でもない、由良さんだ。
由良さんが言うのなら、私情も何も飲み込まなくてはならないだろう。
おれは白崎の野郎から距離を取った。
「で、クリーニングの依頼かい?」
「はい、明日持ってきますが、スーツを一着」
「生憎と従業員が少なくてな。時間はかかるが」
「ちょうどもうすぐ夏休みなので、かまいません」
「ならいい。明日何時に来るかだけ教えてほしい」
由良さんは手際よく話を詰め始める。白崎も自分のテンポを取り戻したのか、淡々と話を進めていった。
おれはそれを横でただ眺めていた。おれにはできないことだと、ただ羨むばかりで。
ある程度話が煮詰まったのだろう。由良さんは小さくよし、と呟くと、次いで白崎にこう告げた。
「うちの店員と何か内々の事情があるようだけれど、そういうのは店先ではやめてほしいな。幸いにもそろそろ店じまいの時間だ。積もる話はその後にしてもらおう」
「申し訳ありません」
一言謝ると、白崎はそそくさと店を出ていった。
白崎を見送ると、特に温度のない目で由良さんがこちらに向かってくる。おれは思わず固唾を飲んだ。由良さんの手がゆらりと拳の形で上がり──
ふわりと、おれの頭を撫でた。
おれは撫でられた意味がわからずに、ただ呆けた。
由良さんは表情を変えないまま、おれを放って店じまいを始める。客である春さんを追い出すことはない。その気遣いが一つ締めなかったシャッターに表れていた。
由良さんはシャッターを締める棒を入口に立てかけ、役目は終わったとばかりに奥に引っ込んでしまった。あとはおれがやれということだろう。寡黙な人だ。
過干渉してこない辺りがやりやすくていい。おれはそれを好んでおり、きっと由良さんもそのスタンスを好んでいるのだろう。
おれは春さんの制服の件を軽く纏め、それから春さん共々外に出た。
「いい人じゃないか」
「由良さんですか? まあ、おれもそう思います」
「理想的な人間像だよ。あたしにゃなれそうにないけど」
「……そんなことないと思いますけどね」
由良さんと春さんの気質は近いものがあると思うのだが。
春さんはゆるりと首を横に振った。歩む先に人影が見える。
「あたしゃ不干渉じゃいられないさ。特に白崎の件に関してはね」




