敵に回してはいけない神童
なんと、幸葵くんが数学の教科書を僕に差し出してくれた。
が、しかし、問題がある。
・そもそもクラスメイトに見せてもらうのは駄目。
・幸葵くんと僕の席は前後で、隣同士のように教科書を共有できない。
・幸葵くんが僕に貸したら、幸葵くんが忘れたことになってしまう。
以上の三点において問題があると思うため、反論を試みる。
「気持ちは嬉しいけど、それじゃあ幸葵くんが……」
「俺なら心配はいりません。教科書の内容なんて夏休み前に全部覚えました」
「確かに幸葵くんなら当てられてもすらすら解くだろうけど…………ええっ!?」
これには僕ばかりでなく、クラス中がどよめいた。聞いたことないぞ、教科書の内容覚えたなんて。
やはり神童。スペックが違いすぎる。
「というか覚えてしまったから持っている意味もないので相楽にあげますよ」
その発言には先程と違う意味のどよめきが走った。
一部は黄色い歓声。何故かは不明。
一部は悲鳴のような女子の声。おそらく神童でイケメンな幸葵くんの数学の教科書は卒業式の第二ボタンくらい意味があるものなのだろう。ここで確認しておくが、僕は男子だ。……まあ、友人にしては距離が近いかもしれないが。
幸葵くんの噂をふと思い出す。どれも根も葉もない噂らしい噂だった。夏休み前にばらまかれて、意外と長く息をする噂に僕はもやもやとした感情を抱いていた。
噂ではほぼ完全に幸葵くんは悪役だった。そんなんじゃない、と心の奥で叫ぶ自分がいる。それは幸葵くんの傍らにいたからこそ言えることだ。
そもそもそんな悪人だったら、オニセン教師の授業前に「数学の教科書あげる」なんて太っ腹な発言なんてできるはずがない。神童だというのもあるだろうけれど。
僕はその厚意に甘えて、オニセンの授業に挑むことにした。
よし、上手くいった、と思ったのは相楽が教科書を受け取り、本鈴が鳴ったときだった。
実は俺が相楽に教科書を「あげる」とまで言ったのには理由がある。
相楽の数学の教科書は今、俺の鞄の中にある。──変わり果てた姿で。
もちろん、俺が盗んで何かをしたというわけではない。盗んだのは第三者だ。誰かは特定できないが、首謀者の特定はできている。
北見ゆき。
相楽の数学の教科書はごみ箱で発見された。埃まみれ粉まみれ、果てには牛乳を拭いた雑巾から水分を吸い取ってぐちゃぐちゃに。中身は当然ながら読めない。かろうじて教科書の裏表紙にあった記名欄から相楽のものだと特定した。
北見のわざとらしい行動と計算高い行動は昼休み中に行われた。まず相楽の教科書をひっそりごみ箱に入れ、日直が黒板消しクリーナーを掃除してごみ箱に捨てるのを見越していた。あとはわざと牛乳をぶちまけ掃除、ついでに気になった自由箒の埃を捨てる。実に計画的だ。
もう夏休み前の脅しを忘れたのか、と呆れた。
さすがの相楽もこれを知ったらショックを受けるだろう、と思い、俺はすぐには教科書を見せなかった。
だがここで問題が発生した。
昼休み明けの授業が鬼のようと形容され、恐れられる教師の担当だったのだ。それで相楽に教科書がないとバレたらどうなるか。あまりにも可哀想である。
相楽の成績は悪くないがよくもない。ほぼ一時間の指名地獄に晒されるのは不憫だ。しかもいじめが原因なのだから、理不尽とも言える。
というわけで俺が考えた案が、俺の教科書をあげるというものだった。
ぐちゃぐちゃになった教科書を返しても相楽は困るだろうし。
あまり好きではない神童と呼ばれる才能が珍しく役に立った。教科書を丸暗記できていたから、何のてらいもなく、相楽に教科書をあげることができたのだ。
それにしても、と俺は隣の席をちらりと見やる。隣の少女は涼しげな顔をしていた。
その蛮行は俺に筒抜けだというのに。
北見ゆきは難度断ってもしがみついてくるしつこい人物、という認識だ。以前相楽が倒れたときのこともあるから警戒していたが、まさか、ほとぼりの冷めた頃に再び嫌がらせを始めるとは。俺にマークされているとか思い至らないものだろうか。
というかこの計画犯行を俺が見抜けないとでも思ったのだろうか。俺が気づかないはずがないだろう。
俺はずっと、相楽を見つめ続けているのだから。
私は冷や汗がたらりとこめかみを伝うのを抑えられなかった。
バレている。
優秀な白崎くんのことだ。私の挙動くらいには注意を払っていたのだろう。
実際汀くんの教科書をごみ箱に放ったのは協力者だが、主犯が私であることは見抜いているようだった。一瞬、鋭い眼光で貫かれたから。
それでも、譬一瞬でも、私を見てくれる。
私はそれだけで満たされた。
譬、歪んでいたとしても──




