僕の青春
高校生のとき。
小学校、中学校の頃のこともぼんやりと思い出してきたけれど、今語るべきは、高校時代のあのときだ。
入学当初から、その生徒の噂は立っていた。
一言で言い表すなら、神童。
入学試験で全教科満点を採ったり、他にも様々な検定試験で資格取得していたり、雲上人のような噂が飛び交っていたのが、僕と同い年らしい「白崎幸葵」という人だ。
僕は最初、噂は噂に過ぎないと思っていた。何故ならば、あまり頭のいいとは言えない僕が入学できた学校にその人がいるのだという。頭がいいのなら、もっと有名な学校があるだろうに、と思って僕は噂を信じなかった。
風の噂も七十五日。そんな感じでいつか消える都市伝説みたいな噂だろう、と思っていた。
だが、その予想は七十五日も経たないうちに裏切られる。
中間試験で成績の芳しくなかった僕は教師に呼び出され、ちゃんと勉強しなさい、というのと共に、その名前を耳にしたのだ。
「白崎くんを見習いなさい」と。
興味もなくて、見ていなかった順位表。どうせ赤点を採るような自分が載っているはずもないのだ。見る必要はない、と思っていたのだが、赤の他人の名前を出されたのが気になって、順位表に「白崎幸葵」の名前を探しに行った。
探すまでもなく、あった。
「白崎幸葵」の四文字の明朝体はどの教科においても一番上にあったのだ。しかも満点のものがほとんど。
そんな人物が同じ人間だとはとても思えず、しかも同い年と信じられず、戦慄したのを覚えている。
というか、あの都市伝説は本当だったのか。
そんな馬鹿みたいなことを考えていた。
先生曰く。
「白崎くんは神童と称えられながらもそれに傲らず勉学に励んでいるからこの成績を保っている」
のだそうだ。
とはいえ、僕だって、勉強をしていないわけではない。
そんなに簡単に満点が採れる頭なら、今このとき、苦労はしていないのだ。
僕の試験の結果が芳しくないのは、両親も予想済みだったらしく、赤点の試験用紙を見せても、少し苦笑いされるだけで済んだ。
ふと、考える。
これが一般家庭だと、「なんでこんな点数採るのよ!?もっとちゃんと勉強しなさい!!」とかガミガミ言われるのが普通なのだろうか。
僕は親にテストで悪い点数を採っても、何か言われることはない。うちの親は海のように心が広いからだろう。身内贔屓ではない。両親の知り合いが言っていたのだから間違いないだろう。
僕には三歳年下の弟がいて、彼の成績はいいのだが、比べたりすることもないし、絶賛反抗期中の弟の態度に対しても、何か厳しく言ったりすることはない。
随時平穏な家庭である。
まあ、反抗期中の弟が時々父や母のやらかしたことに苛ついて怒鳴り散らすことはあるが、そういう時期なのだろう、と両親が流しているし、僕も流している。
そんな家庭だから、親に怒られるなんて滅多になかったのだ。
少し自分に甘かっただろうか。
でも、僕とて万年赤点というのはよくないと思っている。受験勉強のときは誰に言われなくても勉強したし、試験前は勉強している。
普段もやった方がいいのか。
とても簡単な結論に行き着き、僕は毎日勉強をすることにした。
白崎幸葵という雲上人には到底及ばないだろうが、赤点地獄からは脱出すべきだろう。
幸い、僕は部活に入っておらず、放課後の時間は有り余っていた。
やることといえば、誰に頼まれたわけでもないけれど、花壇の整備くらいなものだ。
時間はやはり、たくさんある。
今までだらだら過ごしていたが、その分を勉強に回せばいいのか、と僕は画期的なことに気がついた。
勉強って何をやったらいいのかわからないけれど。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
家に帰ると、母が出迎えてくれる。
うちは一応共働きだが、母はパートなので、早めに帰ってきている。その分、父の帰りが遅いことがしばしば、といった感じだ。
「母さん、哀音は?」
「もう帰ってきているわ。何か学校でやらかしてきたみたいで、ふててるわね」
いつものことだが、今度は一体何をやらかしたのやら。
哀音は成績もよく、運動神経も抜群で、顔もいいし、はっきり言ってモテる。恋愛的な意味を抜きにしても、引っ張りだこなのは間違いない。
だが、反抗期に入ってから……中学に入ってから、部活は文芸部という部員のいない部活に入り、勧誘に引っ張って行こうとする他の部活の人をこてんぱんにするのが習慣になっている。
こてんぱんといっても、暴力をはたらくわけではないのでまだいいが。
とにかく、堅物なのだ。
「哀音、私では反応してくれないからねぇ……悪いけど相楽、様子を見てやってちょうだい」
「了解」
僕には訪れなかった反抗期というやつが、どうやら哀音にはしっかり訪れたらしく、両親は戸惑っている。ただ、僕にはやたら甘えてくるので、可愛いっちゃ可愛い。
ちょうど哀音に聞きたいこともあったし、と軽い調子で僕は哀音の部屋をノックする。
「哀音、ちょっといい? 僕だよー」
「俺詐欺か」
「相楽だよー」
間髪入れずに食らったツッコミに兄ちゃん若干ショックだよ、と思いつつ、扉を開ける。鍵はかかっていなかったようだ。
……と。
「兄貴っ」
ぽすん、と僕の腕の中に飛び込んでくる男の子。僕の肩くらいの背丈で「背が低い」とぼやいていたが、おそらくまだ伸びざかりなのだろう。そんな彼こそが、弟の哀音だった。
父や母に甘えなくなった今……というか、元々人に甘えるという行為をしない弟の哀音が甘えてくるのは、ちょっと兄の特権で嬉しい。前は「お兄ちゃん」と呼んでくれていたのが、「兄貴」になったときは、僕も両親と同じように遠ざけられるのか、と危惧して落ち込んだものだが、むしろいっそう甘えてくるようになって嬉しい。役得ってやつだ。
胸元に顔を埋める哀音が可愛くて、よしよし、と思わず頭を撫でる。ひとまず、扉をぱたんと閉めながら、何があったのかを訊く。
「今日も学校で何かあったんだって?」
「……お袋から聞いたの?」
おおっと、哀音の目が据わった。でも安易に嘘を吐くわけにもいかず、僕は首を縦に振る。
すると、哀音は怒った様子もなく、少し溜め息を吐いて説明した。
「将棋部のやつが図書室に乗り込んできたから将棋で勝負して返り討ちにした」
わお、神童くんに負けず劣らずな弟だ。
「ったく、図書室は学校の聖域だっつうのによ……騒ぎやがって」
聖域という表現に中二感を感じなくもなかったが、少し目を瞑っておこう。
「図書室で騒いだんだ、将棋部の人たち」
「将棋部に限んないよ。おれが今まで返り討ちにした連中みんな図書室で騒ぐから黙らせてやったんだ」
なるほど。
「哀音は図書室が好きなんだね」
「学校の中で公共の決まり事で静かにしなきゃならないのってあそこくらいだろ? だから騒いだやつを注意したって悪くない」
よく考えているなぁ、と思う。
騒いじゃいけないところで騒いだやつを黙らせる。なんか正当防衛っぽいところがあるね。
ぐうの音も出ない論理に僕はちょっとだけ返した。
「程々にね」
「……兄貴が言うんなら」
俯き加減でそう頷く哀音は、やっぱり可愛かった。
「それで、兄貴何か用があって来たんじゃないの?」
「あ、そうそう」
哀音ははっきり言って、僕より勉強ができる。要領もいいし。
勉強すると決めたはいいが、何からどう手をつけたらいいかわからない僕としては、助言が欲しかった。
兄としては情けないことではあるが、弟から助言を得ようと考えていた。
まだ入学してから間もなくて、こういう相談ができる友人もいないし。
「兄貴、勉強やるの?」
「うん、赤点続きはどうかと思ったしね。今は哀音しか頼れる人はいないし」
少し哀音の目に輝きが灯る。たぶん、「哀音しか頼れる人はいない」というのが効いたのだろう。純粋でやっぱり可愛い弟だ。
「何から始めたらいいかな」
「ええと……やっぱり、勉強って予習復習が大事だから……兄貴の場合は復習から始めた方がいいんじゃないかな。テストで駄目だったとことか」
「なるほど、ありがとう!」
こちらも笑えば、哀音も笑ってくれる。本当、いい弟だ。
復習を始めると、少しは点数がましになった。といっても下の下だった成績が中の下に浮上したくらいで、そんなに成績が極端に上がったわけじゃない。
噂の神童くんなんかは、ずっと順位表の頂点に君臨している。ここまで違うと嫉妬する気も起きない。
きっと、頭の作りから違うのだろう。
なんとか進級に支障のない程度まで成績を上げた僕は、無事に高校二年生になった。
当然、クラス替えがあって、大きく同級生の顔ぶれが変わったようだが、あまり僕の生活に支障はなかった。一年生では、ついぞ友達ができなかったのだ。
ちょっと寂しいので、二年生では友達の一人も作っておきたいものだ。
クラス表に貼り出された中で、ふと、目に留まった名前があった。
「白崎幸葵……同じクラスだ」
少し気になった。
白崎くんが誰かというのは、言われなくてもわかった。
夜空のように真っ黒い髪に、星みたいな琥珀色の瞳。
聞きしに勝る美貌だ。見ようと思わなくても目を惹き付けられる。
この顔に、成績優秀か……聞いていないけれど、運動もできるのかもしれないな。
なるほど、THE完璧人間って感じだ。
大きなクラス替えがあったため、自己紹介の時間が設けられた。
自然、教室のみんなの目は白崎くんの方に集まる。
出席番号順に始まった自己紹介はやがて白崎くんの番になった。
誰もが彼に注目した。僕も彼がどんな言葉を発し、どんな人となりを見せてくれるのか気になった。
す、とほとんど雑音を立てずに起立した白崎くんが口を開く。
「白いに山に奇妙の奇と書いて白崎、幸せに葵で幸葵です」
そして、同じようにほとんど雑音を立てず着席した。
辺りががやがやと騒がしくなる。
それはそうだろう。期待した自己紹介が10秒も経たないうちに終わったのだ。しかも内容は名前だけ。
そりゃびっくりだ。
けれど本人は何食わぬ顔。なかなか進まない自己紹介に少々苛立っているように見えた。
どうにか自己紹介はホームルームのうちに終わった。
白崎くんは相変わらず何食わぬ顔だ。休み時間になって、周囲から質問責めに遭っている。まあ、あんな自己紹介だったのだ。気になる周りの気持ちもわかる。だが、群がることもないんじゃないか。
まあ、今まで違うクラスで、都市伝説並の人物だったのだ。珍しがるのは仕方ないだろう。
しかし、群がっているなぁ、と苦笑する。僕も気になるんだけど、あの人の群れの中心で、彼が渋い顔をしているのがなんとなく目に浮かんだ。
交流はしたいけれど、困らせるのはなあ、と思っていた僕が、白崎くんと話す機会は案外と早く訪れた。
中間試験を挟んですぐ後、席替えで前後になったのだ。
「後ろの席の相楽だよ。よろしくね」
「何故俺が君とよろしくしなきゃならないんですか」
「席前後だから?」
「そんなのただの偶然でしょう」
「偶然の中でも運命かもよ?」
ちょっとふざけて言ってみると、あからさまに呆れられた。深々と溜め息まで吐かれた。
「俺は運命なんて不確かなものは信じません。それにどちらかというと世話になるのは隣でしょう」
「隣の人とはもう挨拶済ませたもの」
「……」
あれ、もしかして僕論破しちゃった? 白崎くんが黙り込んだ。
しばらくすると、白崎くんが、やはり溜め息を吐いた。
どうでもよさそうにぼそりと、
「よろしく」
と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。