再会
朝5時、起床。今日も日差しが眩しい。
よく眠れた。今日は朝早く開店。よし、覚えている。
覚えているなら気合いを入れなくては。
さっと朝食を済ませ、洗面所に向かう。鏡に映るのは、やはり褪せた色をした自分の髪と、いつもと変わらない鶯色の瞳。にっこり笑ってみる。我ながらいい笑顔だ。
と、自画自賛はさておき。
顔を洗い、髪を整え、エプロンをつけて、店を開けに行く。がらがらという音が、まだ静かな街に響いた。
通りすがりのご老人が、おやまあ、とこちらを見る。
「汀さん、今日は早いね」
「土曜日ですから、稼ぎ時です」
「若いもんはええなぁ」
この距離感から察するに、この人は近所の常連さんだろう。例によって名前は覚えていないが。
それでも朝から人と会話できるとなんだか清々しい。なんかいいことあるかな。
そう思って、太陽が照らし始めた空を見上げ、息を吸い込んだ。
「お花はいかがですか?」
午前9時。いつもの開店時間くらいになってくると、土曜日だからか、俄に人通りが多くなってくる。
ただ、元気よく呼び込みをしても、立ち止まってくれる人がいない。やはり休日だから、前もって予定とか決めてしまっているんだろうか。独り身で一人暮らしなものだから、そういう感覚がわからない。
学生とかは友達と遊んだりするのだろうか。学生時代の記憶もない僕には当然、遊ぶ友達もいないわけだが。
「お花はいりませんか? 花束、鉢植え、種や苗など色々取り揃えておりますよ」
自宅で栽培して売っているため、そんなに数があるわけではないが、種類は豊富だ。
花に興味を示してもらえればいいのだが、近頃は百円均一なんかで綺麗な造花を置いているからなあ……
店の中に新しく置いたリナリアをちょんちょんと弄り、また呼び込みをかける。
すると、突然、腕を掴まれた。
「っ、君は……!」
濡れ羽色、と言ったらいいのだろうか。それくらい綺麗な黒髪。……男の人に使うのはおかしいだろうか。
その人は琥珀のような透き通った瞳に僕を映して、目を見開いている。どうしたんだろう? 拐かすわけでもなさそうだから、とりあえず、不審者とかそういった類の人ではなさそうだ。
「どうかいたしましたか?
……あっ、もしかして花をお求めですか? ではこちらにどうぞ」
逆にこの機会を逃すまいと店に引っ張り込む。「ちょっと」とお客様は戸惑っていたが、僕の商売魂の勝利である。
店の中に入ると、戸惑いで強張っていたその人の手から力が抜け、自然に「わあ……」と感嘆の声が零れていた。
その様子に僕は少し満足した。
「どれかお気に召したものはございますでしょうか?」
花に感動してくれただけで嬉しくて、僕はとびきりの笑顔で問いかけた。
「え、ええと……」
自分から腕を掴んできたくせに、店に引きずり込まれるのは予想外だったのだろう。その人はあたふたとし始める。こう言っては悪いが可愛い。
この店を見てこんなに挙動不審になる理由は一つしかないだろう。
「初めてのお客様ですね?」
「えっ……」
あれ? 違っただろうか。
訝しんで見ていると、混乱を極めていた目の光はようやく正常に戻り、納得したように「はい」と頷いた。
当たった。
「なら、まずはゆっくりご観覧ください」
「は、はい……」
その人はどこか緊張しているようだった。動きがぎこちない。
そういえば僕を掴まえて、何がしたかったんだろう。もしかして、世に聞くスカウトとかいうやつだったんだろうか……いや、それにしては動きがぎくしゃくしている。
じゃあ、もしかして、
昔の知り合い?
昔の知り合い。
だとしたら、残念ながら僕は覚えていない。
僕の記憶にないこともそうだが、僕の父や母という人が、僕の記憶や思い出に関する記録を、捨ててしまったらしいのだ。
僕は一時期完全な記憶喪失状態だったため、記録を抹消した両親を偽物じゃないか、と思ったほどだ。
物理的にも、僕には思い出がないのだ。
おかしな人生だと思う。けれどこれが残念ながら僕の現実なのだ。未だに両親という存在にすら、実感を抱けない。──欠落者とでも言えようか。
「あの」
「あ、はい」
遠慮がちにかけられた声にはっと我に返る。いけないいけない、接客中だというのに物思いに耽ってしまった。
記憶のことは考えても仕方ないのだ、と放っておく。
見ると、男の人はリナリアを指差していた。
「これを、花束で、ください」
「かしこまりました」
今日置いたばかりのリナリア。
早速買い手がついて、「よかったね」と心中で呟いた。
手早く花を包装しながら、なんとなく言葉を投げ掛けてみた。
「贈り物用ですか?」
リナリアの花言葉は確か、「私の恋を知ってください」──告白にうってつけの花だ。
おっと、下世話なことを考えてしまった。
「まあ、そうなりますかね」
困ったように俯き加減で答えた彼に思わずにやりとしてしまう。
彼の容姿なら、引く手あまたにちがいない。この花をもらう人は幸せ者だろう。なんとなく心が弾んで、包装をてきぱきと進める。
「まあ、相手が俺をどう思っているかは、わからないんですけどね」
自信なさげな彼を元気づけようと僕は言葉を連ねる。
「自信持ってくださいよ! 貴方は格好いいんですから、絶対大丈夫ですって!」
そう言って、花束を差し出す。
だが、それが受け取られることはなかった。
男の人が低く、何事かを呟く。泣きそうな声で。
「それを、君が言うのか……!?」
「……え?」
何を言っているのかわからない。
僕、何か悪いことを言ってしまっただろうか。
「申し訳ございません。何かお気に障ることを口に」
「その口調、その顔、その姿!」
責め立てられるように続けられた言葉の数々に、僕は口を挟むこともままならず、そのまま閉口してしまう。
花束の向こう、彼の表情は窺い知れなかった。俯いてしまっている。
「君は何もかも、変わってしまった!」
その言葉に、胸がずきんと痛む。
そうだろう。
きっと、そうなのだろう。昔の写真なんて見たこともないがきっと目の前にいる人物ほどではないにしろ、今より綺麗な髪色だったにちがいないのだ。
口調は……接客中だからだろうが、そんなによそよそしく聞こえたのだろうか? ……聞こえたのだろう。親しい間柄だったのなら、申し訳ない。
懸命に頭の中で考える。
考えろ、考えろ、この人とは一体いつ、どこで知り合っていた? どんな関係だった?
考えても考えても、答えは出ない。考えて記憶が戻るなら、もうとっくに、戻っているはずなのだから。
「まさかと思ってずっと見ていたけれど、君は本当に俺のこと、覚えてないんだね」
「ごめんなさい……」
大切な友人とか、そんな感じだったのだろうか?
大切な、友人──?
その単語が頭に引っ掛かるが、その引っ掛かりが取れないうちに、僕を衝撃が襲う。
彼の人物がカウンターを飛び越え、僕に掴みかかってきたのである。
何の用意もなく押し倒された僕は、カウンターを飛び越えた彼の身体能力に感嘆することと、無残にも地面に落ちてしまった淡い青の花束たちを憐れむくらいしかできなかった。
どうやったって思い出せないし、広がるばかりの「覚えていない」という事実があるだけ。
そんな中、僕はぼんやりと彼を見上げた。深淵のような黒髪に、琥珀の瞳。先程は透き通って僕を映していた瞳は、今はよくわからない感情に支配されて濁って見える。
琥珀の原石は透明じゃないものもあるらしいから、彼の目はまさしく琥珀色なのだろう、とぼんやり考えていると、首にひやりとした感触が当たる。
その感触に肩を跳ねさせる。
淀んだ瞳のまま、彼は言った。
「以前と同じ状況にすれば、思い出してくれますかね?」
そう宣う彼の目には狂気の光が宿り、首にあてがわれた手が、ぎちぎちと喉を絞めていく。
僕は息苦しくなりながら、彼の顔を見た。
ぼんやりと頭に浮かぶのっぺらぼう。黒髪をしていたそれに、次第に彼の顔が重なっていく。
「幸葵、くん……?」
首を絞められて、意識が薄れていく。
自然と口からぽろりと出た名は、誰のものなのか。酸素が不足した頭で考えるのは、難しい。
けれど、
その名前を呟いた瞬間、首にかかった手の力が緩んだ。
「相楽……?」
不安そうに震える声。けれどそれは確かに僕の名前を呼ぶものだった。
聞いて、懐かしいと思える声。
僕の中の仕舞われた記憶を呼び起こそうとする声だ。
そう、その声も、名前も、僕の記憶に呼び掛けてくるもの。記憶は固く封じられていただけで、忘れてしまったわけではない。忘れたと勘違いするほどに、強固な鍵で固められていたのだ。
意識が薄らいでいく代わりに、少しずつ記憶の扉が開いていく。
白崎幸葵。
記憶の中で彼は、やはり辛そうな顔をして、僕の首を絞めていた。