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青い景色に空いた穴  作者: 香久山ルイ
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花屋の店主

 いつからだろうか、こんなに記憶が曖昧になるのは。




 僕、(みぎわ)相楽は、あまり羽振りのよくない花屋を営んでいる。

 まあ、稼ぎがなくても、父と母が支えてくれているらしいので、なんとか生活は成り立っている。

 35歳にもなって親に頼っているというのは情けない話だけれど。




 話に聞くに、僕は子どもの頃から花屋に憧れていたらしく、ちょうど引退時期だった伯父が、このまま潰すのは勿体ないから、と高卒の僕に店を譲ってくれた。




 が、問題は当人である僕がそのときのやりとりを全く覚えていないということだ。店の受け渡しなんて、考えなくてもわかるくらい重要なことなのに。

 どうも、いつからかなのか元々なのか、僕は忘れやすい性質で、昨日の客の顔もまともに覚えていない。客商売だというのに、困ったものだ。そもそも覚えるほど数は来ていないのだが。


 まあ、周りは常連さんばかりで、この店もやって長いため、僕が忘れっぽいことへの理解はある。それが救いだった。




 とはいえ、改善できるものなら、改善したい。せっかく手塩にかけて育てた大切な()たちを買い取って行ってくれるのだ。常連さんの顔と名前を一致させるくらいは礼儀だろう。

 そう思っているのだが、思うことは簡単でも、実行するのは難しい。

 一応、常連さんが来たときは、手帳にその人の名前と、その人が何の花を買って行ったかメモはしている。しているが、それで改善されるかどうかは別の話だ。

 顔写真でも貼っておけばいいのだろうが、警察じゃあるまいし、いくら常連さんでも「写真を撮らせてくれ」なんて、そう軽々しく言えたもんじゃない。




 故に、名前は覚えてもそれを顔と一致させる、ということがなかなかできず。

 お客様には申し訳ないが、常連さんでも初対面のような対応になってしまっている。


 そんな、毎日のように考える悩みを携えて、僕は朝食の鮭を口に放り込んだ。

 いつも通り、一人の食卓。寂しいと思ったことはない。

 僕は気がついたらこの店で花屋を営んでいて、親元から離れていた。幼い頃の記憶が曖昧なのはまだわかるが、昨日のことも満足に覚えていない。いや、生活に多大なる支障を来すほどではない。その証拠に、昨夜食べた白身魚フライが美味しかったことをよく覚えている。タルタルソースはつけなかった。節約のために極力調味料は使わないようにしている。おかげでほうれん草のおひたしに醤油をかけなくても食べられるようになったくらいだ。




 日常生活に支障がない程度の知識は保有している。なんだかんだ言って花を育てる知識はあるし、花の名前もちゃんと言える。




 僕の奇妙なところは僕が僕として生きた証である……謂わば思い出といった類のことを綺麗さっぱり忘れているところだ。


 考え込んでも思い出せないし、時間が浪費されていくだけなので、あまり悩まないようにしているけれど、やっぱり気になることは気になる。

 僕の記憶の欠落というのは、一般人からしたら、おかしいものなのだ。




 未就学児だった頃の記憶を30歳過ぎても覚えている人はなかなかいないだろう。特に印象的なことがない限りは。

 そこは覚えていなくても不思議ではないのだ。

 問題は……俗に青春と呼ばれる年代の頃だ。




 高校時代のことなんか、さっぱり覚えていない。




 まあ、それくらい印象の薄い時代だったんだろうな、と捉えているけれど、たまにお年を召した常連さんが語っていく青春時代は、とても幸せそうで羨ましい。

 店の前を通りすぎていく女子高生だって、そんなに簡単に忘れたりしないだろう。高校からの友達です、と一緒に店に来る人もいる。






 僕には、友達と言える人がいなかったのかな。


 ……って、さっきも言ったけれど、悩んだって仕方ない。僕はこういう性質なんだ。

 言うなら、そう、人が赤ん坊の頃の記憶から順番に記憶が薄れていくのが、僕の場合はちょっとペースが早くなっただけのことなのだ。

 ただそれだけ。




「ごちそうさまでした」




 沈思黙考だった今日の朝食は、正直よく味を覚えていない。ただ鮭の身を解すのが以前より上手くなったかな、という程度だ。

 こうやって日常は消費されていく。




 僕は朝食の食器を提げ、洗面所に向かう。髪の襟足が外側に跳ねているのはいつものことで、幼い頃からこういう癖がついていたのだ、と聞かされた気がする。誰にだったか忘れたけれど。






「やっぱりまた抜けてるなぁ……」




 髪の毛そのものではない。髪の色のことだ。

 黒髪だったらしいのだが、まばらに茶髪っぽくなっており、ところにより赤っぽくなっている。

 ドライヤーのかけすぎみたいな感じだ。


 もちろん、これはドライヤーのかけすぎなどではない。ドライヤーのかけすぎだったら自業自得だ。文句など垂れない。




 いつからなのか知らないが、どうやら僕の髪色は脱色しているかのように薄くなっていっていた。

 そんなに気苦労が絶えないのか、と常連さんに心配されるが、むしろ気苦労は感じたことがなく、幼い頃からの夢を叶えさせてもらっているので充実している──はずだ。

 それとも、僕は知らず知らずのうちに精神的負荷を溜め込んでいるのだろうか?






 だめだ。こんなに忘れっぽい頭で考えたって思い当たる節があろうはずもない。

 そう、この記憶力欠如の良いところは、辛いことでも綺麗さっぱり忘れてしまえることだ。

 忘れたのに精神的な負荷って残るものなのだろうか。




 まあ、これは一つの可能性であって、原因は他にもあるかもしれない。

 それに髪色が茶色で困ることはないわけだし。






 今日もそんな風に前向きに流す。


 淡い色のTシャツにだほっとした作業ズボン。そこに緑色のエプロンをつければ、「花屋のお兄さん」という僕の完成だ。




 ……35でお兄さんもないか。




 でも、あまりおじさんと言われたことはない。髪色を抜けば、僕は実年齢より幾分若く見えるようで、同年代からは羨ましがられる。

 あとはおそらく、日本人めいていない僕のこの目が、年齢不詳にしているのだろう。




 鏡に映る自分の目に湛えられた色は綺麗な鶯色。




 これで本当に記憶がなんにもなくて、日本語が喋れなかったなら、僕は自分が何人かさぞや悩んだことだろう。そして適当なことを吹き込まれれば、簡単に外国人になっていたにちがいない。




 ──と、冗談みたいなことを、毎朝思っている。

 目の色は覚醒遺伝なんじゃないか、と言われている。国際化社会が広まりつつある世の中だ。そのうちこの目も珍しくなくなるだろう。


 顔を洗い、身なりを整えて店の方に向かう。不定休の僕の花屋は僕の気紛れが起きない限り、ほぼ毎日営業で、基本的に午前9時開店だ。

 自宅と店を繋ぐ通路を歩いて、店の戸の鍵を開け、外のシャッターを持ち上げる。

 がらがらという重々しい音を伴い、緞帳のように上がっていくシャッター。太陽はさしずめスポットライトといったところか。スポットライトよりかなりの広範囲を照らす太陽は、いつ見ても偉大だな、と思う。

 太陽を出来損ないの敬礼のような形で見上げ、今日も一日が始まったな、と思う。





 さて、客が来ない。

 まあ、平日だから仕方ない。

 そんなときは何をしているかといえば、薔薇の棘を取る作業である。

 これはわりと重要で花屋の品位を左右するといっても過言ではない作業だ。

 花の中でも最も人気のある薔薇は、その美しさの影に棘を孕んでいる。自然界を生き残るため云々といった謂れがある。

 そんな薔薇を売るに当たって、棘を取るのは常識中の常識だ。


 薔薇を花贈りに使う人は多い。それは薔薇が人気であると同時、有名であるからだ。


 薔薇そのものが「愛」という言葉を表すこともあるし、色によって意味が変わってくるし、本数によっても変わる。

 そんな詳細まで全てが一般的とまではいかないが、薔薇が愛の象徴であることは間違いないだろう。




 しかし、人に贈る花に棘がついていてはいけない。

 触れたら傷つくというのが当然あるが、相手に「棘がある」という意味を与えてしまうからだ。

 内面的に棘があると言われて心地よい人はなかなかいないだろう。

 故に棘は取っておかなければならない。






 誰かに正しく愛を伝えられるように。






「痛っ……」




 薔薇の棘を刺したわけではない。長年花屋を営んでいるのだ。今更そんなぽかはおかさない。

 痛んだのは、胸。






 何故だかわからないけれど今、愛という言葉に胸がひどく痛んだのだ。


 汀相楽、35歳、独身。




 自分が独り身であることを不思議に思ったことはないし、悲しく思ったこともない。

 だとしたら何故、「愛」という言葉に胸が痛んだのか。

もっと言うなら、「正しく愛を伝えられるように」という言葉に、痛みを感じたのか。






「わからないや……」




 やはり、僕の過去には何かあるのだろうか。僕が忘れてしまったのは、辛いことがあったからだろうか。

 いっちょまえに恋でもして、破れたのだろうか。




 ちょっと鼻で笑ってしまった。恋が破れたくらいで忘れるとは軟弱な精神だ。




「何がわからないんですか?」

「わおっ」




 唐突に第三者の声がしたため、奇声を上げてしまった。お客様だ。来ていたのか。そして独り言を聞かれたのか。恥ずかしい。




「ただの独り言ですよ。

 いらっしゃいませ。どのような花をお求めですか?」




 切り替えて僕は笑顔で応対した。


「今日は、ビオラを」


 今日は、ということは、この人はいつも来てくれている人なのか。


「すみませんね、名前覚えてなくて。毎日伺っていますが、お名前を教えていただけますか?」


 そう訊くと、僕より短い髪をしたその男の人はくしゃりと顔を歪める。

 こう毎日やりとりをする僕の記憶力を憐れんでいるのだろうか。それとも、覚えてもらえていないのは、辛いのだろうか。




「申し訳ありません」




 込み上げてきた気持ちをそのまま口に出すと、その人は何かをぼそぼそと呟いた。聞き取れなくて、首を傾げると、今度ははっきり告げた。




「汀哀音です」

「汀……僕と同じ苗字ですね」


 そう笑うと、哀音さんは更に顔を歪めた。

 何か、悲しそうだ。

 けれど、その悲しみの理由が僕にはわからない。

 汀ってよくある苗字でもないけれど、全然ないわけではないのだなぁ、と思うのだけれど。


 ビオラの鉢植えを手渡されながら、汀哀音は本心を心の奥に仕舞い込む。




「なんでも、ありませんから」




 努めて笑顔になる。けれど、おれはちゃんと笑えているだろうか?

 ……少なくとも、この目の前にいる人物ほど、上手くはないだろう。






 おれの兄である相楽のようには。

 これ以上いたら、惨めになるだけだ。おれはもう帰ろう。




 背を向けて歩き出そうとすると、相楽から声がかかる。




「あのっ」

「……なんですか」




 声に険が滲むのを抑えられなかった。

 お人好しの兄貴は、自分が覚えていないせいだと、罪悪感を抱くだろう。




「大丈夫です。貴方のせいじゃ、ありませんから」

「あ、えと……」


 思っていることを先んじて言われたからだろう。兄貴が狼狽える。




「大丈夫ですから」




 ちゃんと笑えただろうか? 自信はない。

 けれど、本当にもうこれ以上は苦しくて仕方ないから、おれはお代を払って踵を返した。


 腹立たしくて仕方がない。

 兄貴には何の罪もない。おれという存在を忘れてしまったことは悲しいことだが、仕方ないことだ。




 全部悪いのは、おれでも兄貴でもなく、今もどことも知れない場所でのうのうと生きているあいつが悪いんだ。

 兄貴があいつと、もう二度と出会いさえしなければ、それでいい。

 兄貴がいつも通り笑顔で過ごせればそれでいいんだ。それ以上のことは望まない。




 笑顔を失っていたあのときのことなんて、覚えていなくていいんだ。兄貴は笑顔が一番似合う。あの鶯色の瞳が笑っているのが、おれは一番好きなんだ。






 それを守るためならば、おれ一人の犠牲なんか安いものだ。




 ビオラの鉢植えを抱きしめる。






 それでも、少しだけわがままを言っていいというのなら……






 ビオラの花言葉。

「私を忘れないで」


「みぎわかなとさん、ビオラっと」


 泣きそうな顔をして去っていったお客様の名前をメモする。

 今日のお客様はあの人一人だろうか。

 過去のメモを振り返ってみると、やはり、ちらほらと「みぎわかなと」の名前はあった。結構な頻度で来てくれているから、やはりあの人は常連さんだ。

 やはり馴染みの店の店主に顔を覚えてもらえないというのは悲しいものなのだろうか。




「それにしても、汀さんかぁ……ご縁があるのかな。ちゃんと覚えないとな」


 まさか自分と同じ苗字の人に出会うとは思っていなかった。それに常連さんだから、やはりちゃんと覚えないと。

 ……とは思えど、努力でどうにかなるのなら、とっくにどうにかなっている。




 実際前日の夜に記憶するために何度もメモを読むのだが、からっきしだし……

 こんな性質がなければ苦労しないだろうになぁ。


 今日、他に来たのは、やはり近所の常連さんだけだった。試しに聞いてみる。




「そういえばこの辺に汀って苗字の家があるの知りませんか?」

「え? 汀さんって言ったら貴方のところ一軒じゃないですか?」




 ふむ。

 哀音さんは常連さんだけど、近所の人じゃないのか。

 不思議な人だなぁ、と思う。近所でもないのにこんな辺鄙な店に足を運んで。まあ、僕の稼ぎになってくれているのだから、有難いことだが。




 さて、だいぶ日も傾いてきた。

 そろそろ店じまいにするか。




 店の前を下校途中の女子高生が通るのを見ながら思う。

 いつも基準にしているのは、夕陽と女子高生だ。近くに高校があり、文化部や帰宅部の子なんかが帰る頃にはちょうど5時6時くらいで店じまいにはちょうどいいのだ。

 営業時間の拡張も一時期考えてみたけれど、一度体に刻んだ一日の日程というのはなかなか離れてくれないため、諦めた。






 がらがらと、朝開けたときと同じようにシャッターを閉めた。


 夕食を作る。鮭の切身を焼いて、解して、サラダに混ぜるのだ。この上ないずぼら料理だが、これがなかなか美味しいのだ。そう簡単にはやめられない。

 野菜を摂るのは大事だし。

 洋風な感じに仕上がるだろうから、主食はパンかな、と考える。

 そのときふと、特に意味もなくカレンダーに目を留めた。




 今日は金曜日。

 すると、明日は土曜日。世の中休日だ。

 ……稼ぎ時、という言葉が頭をよぎる。




「明日はいつもより早めに店を開けてみようかな」




 そうしたら、お客様の入りもいいかもしれない。よし、やってみよう。

 いつものタイムテーブルでも朝8時なら余裕を持ってやれる。

 テレビを見る時間を削ればいいのだし。






 そのとき、僕は無意識のうちに予感していたのかもしれない。明日、起こることを。

 覚えてはいない、再会を。




 そうと決まったら張り切っていくぞ、なんて、お気楽に考えていたが。



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