4-6 氷の百合
『君ひとり、なのかい?』
俺が空間に戻ると、石上先生の声がした。どこにいるかはわからないが、式神かそれに類するものを通じて見ているのだろう。機械の音声ではなかったから、近くにはいるのだろう。
見ればわかるだろう、と思い言い返しはしなかった。
右腕の包帯を解いていく。顔にまで、赤い筋が走った。力のほとんどを解放している。これでは俺の意識も長くは持たないだろう。
俺が伝えた作戦を完遂するために、鶴喰が提示した時間は三分だった。
全力を出し続けて、俺が俺でいられる限界だろう。
猿神を抑えるのはもうやめていた。俺の内にある獣性が暴れ出している。
対するはリョウメンスクナだ。響子さんに言われたことを思い出す。なるほど、天竺……インドの女神たちを参考にしている、というのは間違いではないだろう。
けれど、あまりにも歪だった。本来は繋がらないものを繋げている。苦悶の声がいくつも聞こえた。自分は自分なのだと叫ぶあまり、破壊衝動にも似た、自滅願望にも似た思いから、その牙を剥けてきている。
刀が、槍が、鎌が、槌が光った。霊力の輝きだ。まともな理性があるようには思えないのに、それは俺を殺すための最適解を探していた。
足が竦む。怖い、という感情はない。でもそれ以上踏み込めば、引き戻せない感覚がある。
……リョウメンスクナは、いつか俺が成り果てる姿なのだろうと思う。
神の力に飲まれ、何かを壊すことでしか満足のできない怪物になってしまうのだろう。自分の未来は想像できないくせに、最期のときは容易に想像ができた。
だから、これは俺の手で終わらせないといけないことなのだ。
「——イメル、モス・モス」
声が響いた。それは戦いの開始を告げる号砲でもある。
霊力の高まりを感じたリョウメンスクナが動き、同時に俺も前へと跳んだ。
リョウメンスクナと空洞内を並走する。やはり速い。黒狐の比ではない。瞬きをしてしまえば、見失ってしまうのではないかと思うほどだ。
槍が振るわれた。突きが視界の真下から跳ね上がってくる。俺はさらに前へと出て、槍を躱した。
次いで横薙ぎに迫ってきたのは刀だった。大きな刃が目前を通る。
前へ、前へと踏み込む。一歩迫るたびに、リョウメンスクナは武具を振るった。
視界の完全なる外側、すなわち俺の背後から鎌の刃が迫った。引いたときに最大の切れ味を発揮するその刃物は、さながら断頭台のように俺の首を寸分違わず断つ軌道を描いていた。
身を屈めて刃を避けるのと同時に、リョウメンスクナの背後に回り込む。
右腕から取り出したのは丹塗矢だった。それを短刀のように突き刺す構えをとる。
途端に、脳裏に警報が響いた。空気が痺れるような感覚とともに、右から殴るような衝撃が迫る。
構えた右腕を引き戻して盾にしつつ、あえて吹き飛ぶことで衝撃を受け流す。
金槌が振るわれたのだと空中で見て取った。関節の可動域が外見からは読めず、武器の軌道が想定とはまったく違う。歯噛みしながら、俺は壁を蹴ってリョウメンスクナと再び相対する。
「——アペ、モス・モス」
鶴喰の詠唱が続く。地下空間であり、霊気の流れも向いていないという悪条件下では満足に擬神器”雷魔斬”の能力を発揮できない。霊力を練り上げるのにも時間を要し、威力も不十分だ。
まして、相手は圧倒的な速力を誇るリョウメンスクナである。雷は見てから避けられるようなものではないが、詠唱の最後、擬神器を振り下ろす瞬間まで誰かが止めなければならない。
あるいは、絶対に避けられないようにするのだ。
俺が提案したのはまさに、必中の一撃を食らわせるというもの。
地下空間という限定された場所で丹塗矢を用いて、”雷魔斬”の雷を誘導しようというのだった。
……その第一段階として、俺は丹塗矢をリョウメンスクナに当てなければいけないのだが。
目の前にいるそいつに丹塗矢を突き刺す隙はない。腕の四本は巧みに俺を追い込んでいくのだ。
槍と刀で挟み込むようにし、俺の逃げ場を封じる。金槌を振るった後の大きな隙を別の腕で埋める。脚も速いし、素人目に見ても体術は図抜けていた。
リョウメンスクナの攻撃を何度もくぐり抜けるが、終わりが見えない。
「——カンナカムイ、モス・モス」
鶴喰の詠唱も半分まで終わった。時間がない。
再び槍が迫った。一か八か、俺はその槍をはたき落とす。普通だったら、武器を落とせば隙になるだろうが、リョウメンスクナの四本の腕はかえって俺を追い詰める。
次に迫ったのは鎌だった。むしろ、それこそが俺の狙いである。リョウメンスクナが手にしている武具で一番厄介なのは、その鎌だった。
振るわれる前に鎌の柄を掴んだ。次いで迫る刀を鎌の柄を軸にし回り込んで避ける。
丹塗矢を突き刺そうとするも、リョウメンスクナの判断は早く、鎌を手放して俺の腹を蹴り飛ばした。
「がっ、ぐううっ、げふっ」
口から漏れたのは人のものとは思える苦悶の声だ。初めてまともに食らった一撃は、内臓に響くほどのダメージだった。
膝をついた俺に、リョウメンスクナが駆け寄る。上段に振り上げられた金槌が目に入る。
解けていた右腕の呪具を引っ張る。その包帯の先には、先ほどまでリョウメンスクナの手にあった鎌に巻き付けられていた。
俺の手元に収まる傍で、鎌はリョウメンスクナの足首を裂いた。今度はリョウメンスクナが膝をついた。
「だあああっ!」
俺は裂帛の声とともに鎌を振るった。今度はリョウメンスクナが防御へと向けた槍の柄を引き裂く。
「——ピウキ・カムイ・イメル」
あと少し。間に合わせなければ。
そう焦ったのが悪手だった。リョウメンスクナの刀が幹竹割に振るわれる。鎌で防いだはいいが、力任せの一撃によって鎌が滑り落ちる。
金槌を拾ったリョウメンスクナの二連撃目。左腕で受け止める。嫌な音が響いた。膝をついて致命的な隙が生まれるのを防いだが、かえって狙いやすい的になってしまう。
俺は右腕を構えた。これが最後のチャンスだ。丹塗矢の切っ先がリョウメンスクナへと向いた。
『躊躇わずに投げなさい! オン、バザラユダ、ソワカ——急々如律令!』
俺の右腕に絡みついた響子さんの式神が真言を唱える。
木行の霊気へと変換された式神は姿を消すが、代わりに丹塗矢《火雷》がその機能を励起させる。
言葉に従って思いっきり放る。弓でなくとも、この距離ならば手裏剣のように飛ぶはずだ。
だが、リョウメンスクナは丹塗矢を、身体を捻ることで回避してみせた。
見抜かれていたのだ、俺の狙いは。
なにせこのリョウメンスクナは、八尺様すらも取り込んでいる呪術生物だ。俺の心を読み取る神通力など、当然のように使える。
外れた丹塗矢は、勢いそのままに壁へと突き立つ、はずだった。
軌道の先に現れたのは真っ暗な穴だ。その穴に吸い込まれていく丹塗矢は、次の瞬間にはリョウメンスクナの背に突き立った。
「ガギャアアアアアアアア!」
二つの口から響き渡る絶叫。それは獣の本能を刺激し、俺の脚を竦ませるが、かろうじて残っている理性が次にすべき行動へと身体を動かした。
「鶴喰!」
名前を叫ぶ。鶴喰が門のひとつから姿を表した。
手に握っている擬神器には霊力が充填されている。残されている詠唱は最後のひとつだ。地下空間にある霊力を無理やり集めて雷撃へと変換した鶴喰は、大きく擬神器を振りかぶる。
リョウメンスクナが鶴喰の方へと跳んだ。だが、足首を切られたリョウメンスクナの移動速度は先ほどの比ではないほど遅い。
俺はリョウメンスクナの後頭部を踏みつけ、鶴喰の隣へと跳んだ。
すれ違うのと同時、鶴喰は大きく頷く。そして最後の言葉を唱えた。
「—————シモントゥム・カフプカル・クス、ケイノンノ・イタック!」
雷撃が放たれた。かつてシアンカムイと戦った際に放ったほどの威力はなく、霊力にも乏しい。だがリョウメンスクナを屠るには十分な威力があった。
擬神器から飛び出した雷の刃は、龍に変換され地下空洞を駆け抜ける。リョウメンスクナは回避を試みるが、背中に刺さった丹塗矢が避雷針のように雷を吸い寄せていた。
次の瞬間には眩い閃光と、圧倒的な熱量が炸裂する。それは俺たちの身体すら溶かすほどの力があった。
「俺の身体が欲しいと言うなら、応えろ!」
俺は左腕をかざす。祈りにも等しい叫びだった。
果たして、それに応えてくれたのか。
血が凍りつく。比喩などではない。腕から滴っていた血が凍結し浮かび上がる。
それは周囲に溜まっている霊気を凝固させ、門を覆うほど広がり、巨大な氷の百合を咲かせた。
シアンカムイと戦った際に神竜が操っていた力。黒田清隆の逸話に曰く、シアンカムイ……白龍権現は眠っていてもなお、寝床であった赤岩山へ向けられた砲撃を逸らしたのだという。
この花はその防壁の再現だった。
光と熱とを受け止める。俺も鶴喰も、まともに目を開けていられない。
左腕だけではない。全身が悲鳴をあげている。心臓の音が大きくなり、それ以上に雷の音が響いた。
雷の落ちる瞬間は一瞬であるはずなのに、とてつもなく長く感じられた。
光が晴れるのと同時に、氷の花は散っていく。
空洞への景色が開けた。
そこに立っていたのはリョウメンスクナであった。真っ黒に焦げ、大きく口を開けている。
しばらく立ち尽くしていたが、ぎぎぎ、と音を立ててこちらを振り向いた。
俺も鶴喰も、目を大きく見開いた。まさか、あの一撃を受けてなお戦意は衰えず、立ち向かってくるのかと。
一歩、こちらへ踏み出そうとする。しかし、俺が断ち切った足首では踏ん張りが利かず、倒れる。
同時にリョウメンスクナが纏っていた気配が消え失せる。今度こそ事切れたようで、ぴくりとも動かない。
「……勝っ、た?」
鶴喰はそう呟くのと同時、霊力を使い果たしたからか、気を失って倒れる。
俺はその小さな身体を受け止める。すやすや、と眠る様を見つめて、ようやく自分たちの勝利を確信したのだった。




