3-8 陰陽の獣たち
右腕の包帯をほどき、猿神の力を解放する。
今回ばかりは油断ができない。俺は黒狐を倒さなければならず、あっちは鶴喰か春日井さんを倒しさえすればいいのだから。
鶴喰が俺の後ろを走る。憑神によって強化しているとはいえ、元となっている鶴喰は全力を出すことはできない。
ぎりり、と俺は包帯を握りしめる。
黒狐が吠えた。獣の鳴き声は時に、怪しきものを呼ぶ声となる。そしてそれは人を萎縮させるものだった。
その声を引き裂いて、吉暉は迫る。
右腕が唸った。まるで別の生き物のように吠えたける。異形の腕は、霊体であるはずの黒狐に触れることができる。
まるで砂を掴むように、可視化された霊力を削いだ。黒い気がいくらか霧散する。
だがこれはまだ序の口だ。一歩バックステップで引けば、続く追撃が俺の背後から迫る。鶴喰はその手に雷魔斬を持ち、横一線に振るう。電撃の形へと変化した霊力が黒狐を襲う。物理的な現象へとなった霊力は、地面すらも焦がす威力を持っていた。
黒狐が大きく飛び退いた。その肩がごっそりと削げていた。一瞥すると、瞬く間に姿が元に戻る。
回復能力というわけではないだろう。空中にある霊力を吸収し、自らの肉体へと変換しているのだ。
厄介だ、と言葉を漏らす。ここはカムイの本場である北海道だ。憑神とは天地からアイヌの民へと貸し出された力の一端でもある。
つまるところ、具現化した憑神を相手するということは、この土地と戦っているというようなものだ。
……怪我をさせるな、と鶴喰は言った。しかし、黒狐を抑え込むにはどうにか核となっている矢部さんを抑え込まなければならない。
そんなことは鶴喰も重々承知の上だ。俺も覚悟を決めなければならない。
「鶴喰、もう一回だ」
「今度は私に合わせてください!」
そう言うと、鶴喰は前へと出る。俺がその後ろについた。
「イメル、モス・モス」
アイヌ語の呪文が唱えられる。いまにその力を再現されるべく編み出された言葉は確かな力となって、鶴喰に雷神の権能を授ける。
電撃が走るが、黒狐はそれを咆哮でかき消した。力のある声で、霊力を霧散させたのだ。
それでも鶴喰は止まらない。その身を低くし、黒狐の脇を抜けて背後へと滑り込んだ。
タイミングは自然と合う。俺が右腕を槍のように見立てて突撃すると、鶴喰が雷魔斬を構えてその身を反転させた。
前後からの挟撃だった。何度も練習した型のひとつでもある。
黒狐は俺たちの攻めを宙へと跳ぶことで逃れる。だが、それは織り込み済みだ。
俺は鶴喰と衝突する瞬間に、身を屈めた。右手に鶴喰の足がかかると同時、大きく空へと放り投げる。
甲高い音が鳴った。空中で鶴喰の擬神器と、黒狐の頭に不自然に浮かび上がっている骨とがぶつかったのだ。
地面に同時に着地する両者であったが、膝をついたのは鶴喰の方だった。
無理もない。万全からは程遠い身体を押して戦っているのだ。
そこへ黒狐が飛び込んでいく。鶴喰の反応は遅い。このままでは彼女は食われてしまうだろう。
「……いや!」
鶴喰の向こうに見えるのは、春日井さんだった。黒狐の狙いは鶴喰ではなく、春日井さんだ。なにせ鶴喰を殺すために、鶴喰を殺める必要はない。呪いによって春日井さんへの痛みなどは、鶴喰に直接伝わるようになっている。
俺は右腕の包帯をさらにほどいていく。猿神の封印がさらに解けていくが、構うものか。
野性を理性で押さえつけながら、俺は包帯を放った。荒ぶる神たる猿神を封じるだけの呪具は、並の妖であれば簡単に封じこめることができるほどの代物だ。
霊気を帯びて伸びていく包帯は黒狐に巻きつく。その腹に、脚に、なにより顎門を絡めとり、動きを封じた。
俺と黒狐は静止する。黒狐の牙は春日井さんに届くことはない。しかし、いまも一歩を踏み出そうと力を込める。俺はそれを、猿神の力で引っ張って止めた。
八尺様のときとは違う。物理的な綱引き勝負だった。
「ぐ、う、くそっ、なんて馬鹿力だ!」
「ぱいせん、いま助けます!」
「アホか、助けるのはお前の友達だろ!」
鶴喰の言葉に怒鳴り返す。はっとした鶴喰は、黒狐へと駆け寄った。
だが、黒狐は全身から邪気を発した。黒い靄となった霊力は悪臭のように精神を不穏に掻き立てる。
春日井さんの意識が朦朧としていくのがわかる。それと同時に、鶴喰もまた苦しんでいる。憑神による防御があるとはいえ、樹木の腐食のように内側から蝕む呪いに対抗するのは困難のようであった。
そして、霊気は俺の包帯をも呪っていく。黒狐の霊気が白を黒へと染めていき、俺の右腕をも呪わんと迫ってきていた。
解くわけにもいかない。かといってこのままでは、俺も鶴喰も呪い殺される。
パンッ、と大きな音が鳴った。発砲音であるとすぐに気づく。見れば、こちらに駆け寄ってくる人影があった。
坂芝さんだった。手に持っているのはSAKURAの名を持つ警察の通常装備たる回転式拳銃だった。
有効射程はさほど長くはない。しかし、坂芝さんの腕がいいのか、あるいは黒狐の中にいる、ただの中学生である矢部さんの影響か、黒狐がわずかにたじろいだ。
それから二発、立て続けに坂芝さんは拳銃を撃つ。一歩、二歩と黒狐は後ずさる。
「いまだ、鶴喰!」
俺の声に頷く間もなく、鶴喰は黒狐の懐に潜り込み、両手を差し込んだ。
ぬるりと引き摺り出されたのは矢部さんの姿だった。鶴喰の腕の中に収まっている。救出は成功したのだった。
けれど、黒狐は、矢部さんの憑神はなおも吠える。その動きはより激しく、獣らしいものになっていく。
鶴喰のノンノのように、矢部さんの憑神は元は善良な存在、すなわち守護霊的な存在であり、悪神ではなかったはずだ。コックリさんの影響で無理やり引き摺り出されたから、怒りに染まっているのだと、俺の右腕に宿る猿神が直感していた。
核である矢部さんを喪失したことから、その身体は急速に綻んでいき、物理的な存在ではなく霊的存在へと戻っていく。本来、肉を持たない式神が形代や人間を元にこの世に現れるように、矢部さんの憑神としての元のあり方に戻ろうとしているのだ。
しかしそれよりも早く、再び霊気が撒き散らされる。さっきよりも広い範囲へ、激しい攻撃だった。
邪気にあてられ、俺の腕が緩んだ隙に黒狐が包帯から解き放たれる。
「ノンノ、お願い!」
鶴喰の言葉と同時、その身体から一匹の白狼が現れた。狼の神である。鶴喰と離れてしまえば、物理的干渉を行うことはできない。
しかし、いまの黒狐の神は霊体である。その首筋にノンノが噛み付いた。黒白の大きな獣同士が絡みあう。黒狐もまた、ノンノの首へと牙を立てる。
二匹の神同士の衝突による、激しい霊気の嵐が砂塵となって野球場を包んだ。
視界は悪い。けれども猿神を大きく解放した俺には、二匹の動きが的確に見えた。
「ぱいせん、額にある頭蓋を!」
声が聞こえた。黒狐の額に埋め込まれている獣の頭蓋骨のことを思い出す。
俺は陰陽の獣たちの中へと飛び込んだ。そして黒狐の背中に跨ると、包帯を再び巻きつかせる。馬の手綱のように、あるいは命綱のように俺は懸命に包帯を掴んだ。
左腕を伸ばす。黒狐の額まであと少し。文様のようにも見える白は、間違いなく動物の頭蓋のものだ。
身を乗り出すが、踏ん張る力が失われていく。真っ黒な霊気が俺の意識を奪っていく。
それでも、と腕を伸ばすと、灰色の瞳が見えた。ノンノの瞳だ。
犬猿の仲という言葉の通りいつもはいがみ合うしかない俺たちだが、鶴喰を守るためであるならばと息を合わせる。
ノンノが黒狐の首を再び噛んだ。今度は致命的な一撃だったか、首を大きく持ち上げて苦悶の声をあげる黒狐。
その隙を縫って、俺は額の頭蓋を掴み、思い切り引き剥がす。
途端、霊気が爆発的に散っていく。それは糸玉を崩すかのようであった。
俺は地面を転がる。どうにか着地をした先で、消えていく黒狐の姿を見た。
首を持ち上げたまま、黒狐の霊力は霧散していく。姿が少しずつ小さくなっていくのが目に見えてわかる。
そしてその目がじっと鶴喰の腕の中にいる矢部さんを見ているのが、妙に印象に残った。




