2-4 心臓は凍りついた
病院からPIROの事務所へ向かう。けれど、ちょっとだけ寄り道をしたい気分だった。
大通公園をまっすぐ抜けていけば、PIROの北海道支局があった。
広大な北海道という土地を監視する役割も果たしている北海道支局の一大拠点であるというだけあって、交通の便がいいところに構えている。
公園はすでに以前の姿を取り戻していた。怪獣災害のことは忘れないように、しかし悲劇に負けないように、と。
自分たちの街が傷ついてしまうことの恐ろしさは俺にはよくわからない。
昨日と同じ日常を過ごすはずが、ちょっとだけ変わり続ける時を受け入れるだけの毎日が、崩れてしまう恐怖が理解できない。
……いいや、本当はわかっているのだ。俺の日常だって妖なんてものに変えられてしまったのだから。
ただ理解ができなくなっているのは、俺自身が壊す側にいるからに他ならない。
ふと目をやれば、光景がよみがってくる。怪獣の爪や脚がつけた傷跡だけではない。シアンカムイの能力によって、氷の柱がいくつも生み出されていた。物体を瞬間凍結させるほどの呪力のある光線を撒き、対抗しようとする者たちを圧倒したのだ。
冷凍怪獣、と名付けられたシアンカムイはアイヌ由来の神獣である。
とは言うが、元は小樽の赤岩山で白龍権現の名で祀られていた存在だった。いかにも和人がつけた名だ、と横浜で風水屋を営んでいるという卜部凜さんは言っていた。
アイヌ語由来の名付けではないし、かつて江戸時代に多くの和人が北海道にやってきて根付かせた信仰もあるだろう。例えば、平取にある義経神社などはそうで、ハンガンカムイの名で義経に対する信仰を広めようという意図があったようだ。
背景には国際情勢などがあったようだが、この話とは外れてしまうので割愛する。
いずれの文化にしても、途中から生まれたものであっても、いまではきちんと信仰されているものもある。迂闊に踏み入るのは避けるべきではあるが、本来の姿がどのようなものであったが想像するのを難しくしているのも事実であった。
ともあれ、白龍権現という名ではなくアイヌ語で「真の神」と名を呼ぶのは、その怪獣の本来の姿を見ようという姿勢からだった。
そして、その名を知っていたのは唯一その伝説の真実を語り継いでいた人物である、鶴喰雪花のみであった。
彼女の血筋は、アイヌに語られる女神のものであった。そして女神とは白龍権現……シアンカムイを打ち倒したという少女の名である。
「そういえば、ちょうどこのあたりだったか」
そこは札幌市資料館の跡地だった。
大通公園の西端にあるそこは、更地となってしまっていた。
シアンカムイが討ち果たされたとき、最後に立っていた地はここだった。
因果によって、シアンカムイは仇敵の血筋に討たれた。その手に握られていたのは夷虵斬という霊剣であり、それは女神がかつて振るった小刀だった。
俺は結局、シアンカムイの最期を見ることはなかった。最後という最後、俺は意識を手放してしまっていたし、テレビに映るその姿しか印象がない。
凍気を蓄える器官が破壊されたことによって、体内から瞬間的に凍結させられた、という末路のようであった。
この場所にいたシアンカムイは自衛隊によって解体され、どこかへ運び込まれたようであったが、その行く末を俺は知らなかった。
暴虐と破壊の限りを尽くした怪獣とは言っても、その末路について思うところはあった。
それはシアンカムイに、自分自身を重ねてしまっているからか。
俺は自分の心臓を押さえる。
決戦の折、シアンカムイの呪いによって俺の心臓は凍りついた。神獣滅びた後であってもその呪いは俺を蝕んでいて、響子さんが重ねがけした呪術と、猿神由来の回復能力でどうにかバランスを取っている状態なのだ。
もしかすると、神や妖というものは、滅ぼされたとしてもそうやって生き残るのかもしれない。
神社お寺にその信仰が残り、文献に名や姿の畏怖が残り、口伝でその恐怖がずっと伝わっていく。
そうした「感情」こそが妖の拠り所であるならば。
「……急ごう」
どうにも、思考の海に沈んでしまうようだ。
血を抜かれたからか、ぼーっとして仕方ないし、急いで支局へ行って昼寝でもしよう。
歩き始めると、しかし視界には見覚えのある人物がいる。
シアンカムイが大通公園を破壊し尽くす前から設置されていたベンチである。もちろん、ベンチ自体も破壊されたのだから改めて設置されたものではあるが、このあたりの光景が変わらない要因になっていた。
そこにひとり、男子が座っている。寝顔は初めて見たが間違いない。あれは近石だ。
私服でこんなところにいるのは初めて見たが、今日は休日だ、買い物とかあるんだろう。
俺はそっと近く。すやすやと眠っていた。いい夢でも見ているのだろうか。
だが今日は肌寒い。外で昼寝をするには少々凍える。
「近石、起きろ。風邪引くぞ」
そう声をかける。だが反応はない。どうも寝つきはいい方なようだ。
肩に手をかけて揺さぶる。これでも近石は応えない。
普段から寝不足なのだろうか。いいや、近石は学校でも真面目に勉強するやつだ。休み前だからと夜更かしでもしてしまったのか、とも思うが、それにしては顔色がしっかりしている。
……まさか、気を失ってるわけじゃないだろうな。
首に軽く触れて脈を測るが、心拍の速さは正常だ。なんら問題はない。
問題がなさすぎる。
嫌な予感がした。俺は周囲を見渡す。
「誰も、いない? この時間の大通公園に?」
俺と近石を除いて、誰一人としてここに人はいなかった。
気配すら感じられない。音すらも消えている。
車の音もなく。葉の擦れる音もない。
ただ、聞こえたのは。
「その脚をくれませんか」
女の声だ。低く、柔らかい。お願いをするようで、その実、俺の脚へ意識を向けさせるような。
目線を向けた。その女は寝ている近石の背後に立っている。
反射的に近石の腕をひっぱりあげる。持ち上げた近石を地面に転がすと同時に、ベンチの脚が崩れて落ちる。
見事な断面でベンチの脚が切断をされていた。人の脚でさえ、一瞬で断ち切られるだろうと思うほどに。
ようやく、その女の全貌が見える。
メガネをかけた、痩せている女の人だ。
手には大きな鎌が握られており、それでベンチを切断したのは明らかだろう。
そして片方の脚が失われている。
その気配から、その女は何者かであるかは明らかだった。
「妖……!」
俺の声が聞こえたわけではないだろう。しかし、その女妖怪はにやりと笑ったのだった。