2-3 定期検診
定期検診、というのは、俺の場合少し意味合いが変わってくる。
なにせ俺に取り憑いているのは猿神……かつては神の使いとして扱われた霊格の高い動物であり、それ自体が低位の神として在った時代もあるのだ。
ゆえに俺の検診は、果たして俺の中にいる猿神がどのような状態かを知るための行為、という意味になってくる。
病院の一室、目の前にはトランプが並んでいた。すべて裏返しであり、重ならないように散らばっている。
横には同じ数字のカードが二枚一組で重ねられている。それらは俺が、この裏返しのトランプの中から見つけ出した組み合わせだった。
いわゆる、神経衰弱というカードゲームだ。けれど俺がいまやってるのは、決して間違えることのできない神経衰弱である。
冷や汗が頭に滲む。第六感を働かせ続けているが、もはや集中力がもたない。
一枚はすでに表になっている。出てるのはスペードの6だ。
悩んだ末に俺が選んだ一枚を開いていく。
クローバーの8。
ハズレ、であった。
「合計で18組、新記録じゃないか」
満足げに頷いたのは、俺の検診をしてくれている石上孝太郎であった。
三十も半ばだという彼の本職は医者ではない。心理学の研究をしている大学の助教授だそうだ。病院での精密検査の前に、こうして俺の「能力」を診てくれているのだ。
俺の神経衰弱の結果を素早く書き留めると、メモを閉じる。
顎髭が特徴的だが、威圧感はなく、むしろ細い枯れ木のような印象がある人物だった。
「まったく、すごいな。どういう理屈でできているのか、また聞いて良いかい? 慣れてきて少しずつ掴めてきていることもあるだろう」
「……良いですけど、役に立ちますか?」
「もちろん! と言いたいところだけど、この分野の研究は表沙汰にはできなくてね。僕の経歴には載らないし、こういう合間にやってることでも、あんまりやりすぎたら目をつけられるんだ。だからこれは興味だよ」
へへ、と笑う彼は、研究者と言うより自由研究で張り切る小学生のようであった。
なんとなく、そのまま研究者になってしまったのだろう、という印象がある。
確かに、妖怪の力を持ちながらも人間の意識で会話できる存在というのは興味を惹くだろうとは思う。
俺は神経衰弱をやってるときの意識を語る。
「勘、というのが一番しっくりくるんですけど、一枚を選んだときに、これと縁があるなというのが頭の中に過ぎるんです。繋がってたり、光ってたり、いろんなイメージが出てきて、その中から正解だと思うものを探すという感じです」
「興味深いねえ。渡り鳥は地球の磁場を感じ取って飛ぶから迷わない、なんて研究もあって、これが人間にも備わっていて第六感として働いてるんじゃないかという話も出てきているけど、君の第六感はその先を行くのかな」
「……専門、心理学なんですよね?」
「もちろん! 精神と民俗やオカルトというのは切っても切り離せないんだからね」
例えばなんだけど、と石上先生は得意げに語る。
「君のような動物の霊に憑かれたというのは、かつて精神疾患に罹った人のことを言ってたんだ。その原因がどこにあるかわからなかったからね。逆に、本当に動物に憑かれた人だってきちんと精神を落ち着かせれば、その霊威を抑えることだってできる。いまの君みたいに」
「はあ、なるほど」
「結界だって人の意識から外す、という手法であるし、さっきの第六感だって脳がディープラーニングによって計算した結果だとも言える。君たちの分野だって科学することができるんだよ」
と、力説されたが、俺にはいまいちピンとは来なかった。現実として己の身に起こっていることがまるで自覚できない。
想像ができないのだ。熱が出ているのは体内で白血球が戦っている証拠だとでも言われた気分である。その理屈はわかっていても、実際に見ることのできないものまでは理解が及ばない。
まるで現実感のない出来事だ。
「と、まあ、第六感についてはこれくらいにしておこうか」
そう言って石上先生は別の書類を取り出す。精神鑑定、とまではいかずとも、精神の正常性を測るためのものだ。
むしろそっちが本題である。いまの神経衰弱はあくまで、石上先生の個人的興味と、俺自身の訓練のために行なっているものだった。
「ええと、一ヶ月前のは……なるほどね。問診を始めるよ。最近、妙にイライラしたりすることはある?」
「特にはないです」
「そうしたら、寂しくなったりすることは? 孤独感のようなものに襲われる、とか」
「少しだけ」
「オーケイ。うーんと」
石上先生は探り探り、様々なことを聞いてくる。彼なりの手法かもしれないが、大小様々な質問を投げていき反応を見ていくのだそうだ。
質問の回答もさることながら、どう答えたか、答えた際の顔や手の動きがどうだったかなども観察しているのだという。
むしろ顔の動きの方が大事だとも言われた。筋肉の緊張の度合いや、左右のどちらが動くかによって右脳と左脳のどちらが使われているかなどが判断されるらしい。
「変な夢はまだ見るかい?」
俺はふと、目を閉じる。
人はどうやら、寝てるときに夢を見る人間とそうでない人間に別れるらしい。
睡眠の質、ストレスの度合い、食事内容、そもそも夢を重視しているか、など様々な要因があるようだが、俺のような者は少しばかり違う。
もしかしたらその内容は、神を通じた夢なのかもしれないのだから。
「はい、見ます」
「どんな内容かは覚えてる?」
「……あまりよく覚えてません。このところいくつかの夢を見ます。以前は山の中でしたが、このところは海のイメージが強いです。あと、置いていかれる寂しさ?」
「新しい傾向だね。心当たりは?」
「あると言えば、ありますが」
「言いにくいならいいよ。そのまま海に飛び込んだりすることは?」
「むしろ、それができなかったから寂しかったんじゃないかと」
「まるで他人事みたいに言うね」
石上先生はくすりと笑う。彼がよく、俺にかける言葉だった。
自分のことをまるで他人事のように言うのはもはや癖になっているのだろう。
客観視しているわけでもなく、謙虚になっているわけでもなく、よくわからないけどそういうものだ、と思っているのだ。
「夢で経験した内容が、自分の肉体にフィードバックされることもある。夢の中で腕に火傷をした人間が、目を覚ませば同じ場所に火傷ができていた、というような事例もあるんだ。錯覚を起こして、自分があたかも怪我を負ったように感じてしまうこともある。もしかしたら、海に落ちたのと同じように、呼吸ができなくなってたかもしれない」
「それは、ゾッとしますね」
「もしかすると、そういう呪術的攻撃かもしれないよ? 実際に傷を負わせなくてもストレスを与えることができればいいんだから」
「割に合わなくないですか、それ」
「僕はそのあたりは詳しくないからわからないけどね。君の内側にいるなら、そういう攻撃手段も効果的なんじゃないかな、っていう素人の考察さ。でも見たところ、影響はなさそうだ。あちらも諦めてくれるといいんだけどね」
俺は自分の右腕を握りしめる。大丈夫、まだ主導権は俺にある。
幾度の戦いと訓練を経て、力の使い方を理解しつつあった。それは俺の肉体をめぐる綱引きである。よこせ、と引っ張れば、力抜けた瞬間には強引に猿神に引き寄せられる。その塩梅を探っていまはどうにか戦えるようにさえなったのだ。
まだまだ、鶴喰や響子さんと比べれば足手まといだが。
それからいくつかの問答を経て、石上先生はファイルを閉じた。
「うん、これで終わり。経過はいいみたいだね。肉体的な部分は血液検査とかの結果を待ってほしいのだけれど」
「ありがとうございます」
「いやいや、僕も勉強させてもらってるよ」
俺は一礼をして、荷物をまとめている石上先生を見ていた。このあとはきちんとした精密検査がある。看護師に声をかけられるまで、ここで待機することになっていた。
石上先生は、あっ、と忘れ物に気づいたように俺に声をかけた。
「そういえば、もうひとつ聞きたいことがあったんだ」
「なんでしょうか」
「咲楽井さんはご機嫌いかがかな?」
「…………」
この人には、まあ、見た目からしていろいろ欠点は見え隠れするんだけど。
年下趣味というか、広義のロリコン的な嗜好を持っているのを、男の前だと隠そうともしないのだ。本人曰く、女子大生から女子高生まで。
本当に助教授なんて任せて大丈夫なのか。
そしてPIROの北海道支局と交流を持つ中で、いまは響子さんが気になる、というところか。
「前の彼女はどうしたんですか」
「いやあ、きみ、高校生のうちからそんなお硬いと、好きな子を逃しちゃうよ? それに、きちんと別れたからこうして声をかけているのだし」
「この三ヶ月で三人目ですけど」
「ははは、まあ、いいじゃないか。よろしく伝えておいてくれよ」
そう言って石上先生は診察室を去っていった。
彼は、さらに女癖が悪い。
ダメそうな雰囲気を持っているあたり庇護欲を刺激されるのがたぶん特定の女性のツボに入るんだろう。きちんとお金はある、というのがひどい。
心理学を勉強しているだけあって、駆け引きもさぞ上手かろうと思うと、なるほど女の敵というのはああいうやつなのか。
ちなみに響子さんは「早く学会を追い出されてしまえ」の一言だけ放っていた。
幸いにして、俺の周りはそういうダメ男に騙される女性はいないはずだ。
ふと、石上先生が座っていたデスクを見た。置いてある鏡が、寝不足な俺の顔を映していたのだった。