2-1 未知の領域
五月も中旬になればいくらか暖かくなるかと思いきや、いきなり暑くなっていく。
しばらく過ごして感じたのは、札幌という都市の気温は、天気に思い切り左右されるということだ。
晴れれば暑く、曇れば寒い。単純すぎるが、その上下の激しさは少し嫌になりそうだった。
「中間考査、終わった〜!」
だがまあ、学生には天気に関わらず清々しいことがいくつかある。
そう、それこそ、定期考査の終わりである。
成績なんて関係ない。次の試験が控えてるとか、知ったことではない。
俺たちにとって大事なのは、ただ否応無くやってくる試練を越えたという達成感だけだった。
後ろを歩く二人は見るからに晴れ晴れしい笑顔を浮かべている。
いつもなら、というより、俺が誰かと一緒にいるときは大抵、鶴喰と響子さんの二人であるのだが、このときばかりは違った。
ブレザーの同じ制服に、同じ色のネクタイとリボン。クラスメイトの近石と柊さんであった。
あの合コンと称した集まり以降、彼らは何かと気にかけて声をかけてくれていた。自分から話しかけることの少ない俺であったが、二人のおかげでクラスでも変な風に浮くことなく過ごせている。
友達だ、と彼らは言ってくれている。しかし、友と言うには受け取ってばかりで申し訳なく俺は思ってしまった。
それが運の尽きだったのかもしれない。
「……あのさあ、マジで俺の家に来るの?」
中間考査最終日。午前中で試験は終わり、寄り道はするなよ、などと先生に釘を刺されつつ、それを忠実に守るほど従順な生徒ではない近石と柊さんは、意気揚々と俺の家に来るのだと言い始めたのだ。
「いやいや、だって気になるじゃないですか。男子高校生の一人暮らしですよ。ねえ近石さん」
「まさしくまさしく。ここで遊びに行かないでどうするのか、というのが道理ですよ柊さん」
「息ぴったりだなお前ら」
普段は違うグループでつるんでいる二人であったが、俺のこととなるとどうにも意気投合するらしい。
俺としても、妙に落ち着く。ハマりがいいとでも言うべきか。
だが俺をイジるときに息が合う二人はちょっとウザい。
近所に住んでる同じ高校の生徒をまったく知らない俺の下校ルートは、いつも俺一人のものであったが、このときばかりは騒がしいものになっていた。
「昼飯はスパゲティとかでいい?」
「よっしーの手作り! ポイント高いよ、いいよ!」
「グラビアのカメラマンか」
ナイスツッコミ! といういつもの掛け声。もういいよ。
幸いにして、食材はけっこう残っているのだ。試験期間中は勉強とかで買い物はできないだろうからと買い溜めていたものの、冷凍食品で乗り切ってしまった。
思えば、友達を家に呼ぶなんてことはいつぶりだろうか。小学校の頃は多かった気がするが、中学校になれば減ってしまった気がする。猿神に憑かれて以降は、友達と呼べる人もいなくなってしまったから、けっこう久しぶりなのではないか。
俺の暮らしているアパートは、独鹿第一高校から北に二十分くらい歩いたところにある。それなりの距離を歩く羽目になるが、これでも通学している生徒の中では近い方だろう。
他愛ない話をしているうちに、アパートの前まで着いた。荷物を置いてから買い物へ行こう、ということになり、
「いやあ、しかし羨ましいな一人暮らし。友達とか呼びまくれるじゃん」
「彼女とかできたら連れ込んだり〜?」
「いいね、夢がある!」
「他の人もいるから静かにな」
あと女の子がそういうことを言うな柊さん。
階段を登り、二階へ上がる。その一番角の部屋が俺の家であった。
古いシリンダーキーに鍵を通せば、がしゃりと開いた。
……避け得ぬことであったが、俺は少しばかり後悔をした。あと少し注意深くしていれば覚悟ができていたかもしれない。
「あ、ぱいせん、おかえりなさい!」
そこにいたのは、鶴喰であった。
トレードマークの鉢巻、ひとつに結ばれた髪といういつも通りのスタイルに加えて、このときは水色のエプロンを身につけている。
おかしなことはない。彼女はかつて俺の監視役を担っていたから、俺の家の合鍵を持っているし、俺にも不都合がなかったからそのままにしていた。これまでも何度か……というか、何度も俺の家に来ているのだ。
だが、だがしかしだ。
よりにもよって、いま————!?
「つ、鶴喰、いまはちょっと」
「あれ、誰かいるの?」
「早く入れろよ〜」
柊さんと近石が俺の後ろから中を覗き込む。
時が静止したかのようだった。みんながみんな、目の前で起こっていることをどう受け止めようかと悩む時間である。
そして、その状況から真っ先に脱したのは柊さんであった。
「よっしーの妹さん? 初めまして、クラスメイトの柊です」
んなわけあるか、とツッコミたいのは山々であったが、それを受けた鶴喰は顔に笑顔を貼り付け、先んじて言葉を発した。
「いらっしゃいませ。鶴喰雪花と申します。ぱいせんのご友人ですか? いつもお世話になってます」
上品な言葉遣いながらも、「いらっしゃいませ」と「ぱいせん」のところをやけに強調する鶴喰に、背筋に寒いものが走る。
というか鶴喰の背後に何かが見える。あれは狼だ。いまにも飛びかからんとする獣の姿だ。よくわからないが怒ってる。
ここは俺の家だし、誰を呼ぼうが勝手で、この場合はむしろ俺の方に利があるはずなのに、申し訳ない気持ちになるのはなぜだ。
「あ、お客さんが来るなら、飲み物とか足りないですよね。私とぱいせんで買ってきますので、お二人はおくつろぎください」
そう言ってパパッと柊さんと近石を家にあげれば、俺を外へと締め出す。
目にも留まらぬ早業で、気づけば扉の前には俺と鶴喰の二人きりである。
「ど、どういうことだ」
「おもてなしの準備ですよ。そんな警戒しなくてもいいじゃないですか」
「その笑顔を見たら誰だって警戒する!」
だからなんで怒ってるんだこいつは。
一見、綺麗な笑顔だが、凄みを感じてしまう。その奇妙さというか、器用さは感心を覚えてしまうほどだった。
「ご友人を呼ぶなら先に言ってください。お昼ご飯まで用意してたんですよ、ミートソース」
「あー、うん、あの冷蔵庫の中身だとそうなるよな」
よくわからないが、監視役が解けたあとも鶴喰はたびたび我が家に勝手にやってきては、ご飯を作ったり掃除をしたりしていた。
まるで母親か何かのように、あれこれ俺の私生活に口を出すわりに、妙に尽くしてくれているのが気になっているところであった。
「お前もお前だ。ちょっとは誤魔化すとかなかったのか。一人暮らしの男の家に上がり込んでる女子っていうのは、あらぬ誤解を招くぞ。俺にとってもお前にとっても良くない」
「誤魔化すって、あの状況でどうしろって言うんですか」
「……イトコ、とか」
「そんなんで誤魔化せると思ってるんですか!? だいたい、ぱいせんだって私のこと苗字で呼んでますし、そんなイトコがどこにいます?」
「う、うっせ! というか、飲み物もあるだろ。大量に烏龍茶を買い込んだ記憶あるぞ」
「あれー、そうでしたっけ?」
「とぼけやがって……!」
そこまで話して、俺はふと思い出す。
財布をカバンに入れてしまったままだった。買い物に行こうにも、金がないのではどうしようもない。
まあ、どうせなら炭酸の飲み物だとか買ってくるか。おやつも必要だよな、と意識を切り替える。
俺は再び扉を開けると、そこでは柊さんと近石が必死に格闘している姿があった。
相手は俺のベッドの下である。
「……何してんの?」
「男子の部屋に来たらエロ本探すのが恒例かなって。首尾はどう、近石隊員?」
「目当てのものはございません、マム!」
「よろしい、調査は続行だ!」
「アホだ、アホどもがいる」
だいたい、スマートフォンやらが普及している現代にエロ本をベッド下に隠し持つ高校生がどれくらいいるのだろうか。
「いやあ、気になるでしょ。だって男子の部屋だよ!? 女子からしてみれば、未知の領域なんだからね?」
「そんなわけないだろ。……ないよな?」
俺が不安になって鶴喰の方を向けば、彼女はそっと視線を外した。