1-10 花が咲く頃
ずいぶん遅い桜の季節がやってきた。
札幌ではゴールデンウィークに差し掛かった頃に桜が咲く、という話はまったくその通りで、この日は五月七日であったが、ようやく満開の桜を見ることができた。
俺はと言えば、花見の場所取りのために北海道神宮を抜けて円山公園にやってきていた。事前に渡されたブルーシートを広げて、石で四隅を止めて寝転ぶ。
広々とした空間を独り占めして桜を眺める。聞こえはいいが、五月と言えど札幌は寒いし、風もすこしあった。厚着をしてきてはいるが、さすがに凍える。
時刻にして午前十時。かれこれ一時間強、ここで待機している。
北海道支局の花見の席を確保する話はマジで言ってたらしく、気づけばこんなことをする羽目になっている。
散っていく桜を見る。色の濃い花弁をしている。エゾヤマサクラという種類らしい。花弁の濃さは寒さが厳しかった証拠だ。
それもそのはず。この冬は、冷凍怪獣と称されるシアンカムイまで現れたのだから。
寒さも厳しいを通り越した。文字通り、心臓も凍る思い、というやつだ。
まあ、あの怪獣についてはいずれ語る機会があるだろう。
「ぱいせーん!」
声が聞こえる。体を起こすと、そこにいたのは鶴喰だった。
やめろ、小っ恥ずかしい。と思いながら、俺も小さく手を振り返す。
このときの彼女の服装は、珍しいものだった。
いつもはブレザーの制服だし、たまにの休日はパンツスタイルがメインの彼女であったが、今日に限って言えばワンピースにカーディガンというザ・女の子とでも言うべき服装だったからだ。
鉢巻も身につけているけど、いつものポニーテールは解いていた。
新鮮なようで、どこかで見たような気がする。
なんだよ、八尺様の真似か。
嫌なことを思い出してしまった。ひとことぐらい文句言ったって、いいだろ。
駆け寄ってきた彼女は、これまた珍しいヒールの靴を脱いで俺の横に座った。
「……本当に八時からいたんですね」
「いいや、九時前くらいだけど」
「そうなんですね。はい、お茶です」
「気が利くな、ありがと」
水筒の蓋をコップにして、鶴喰はお茶を注いでくれた。湯気がのぼる。
俺が寒がりなのを知って持ってきてくれたのだろう。早めに来たのも、きっと気遣ってのことだ。
本当に優しい子だ、と思う。つい憎まれ口を叩いてしまうけれど、本当に嫌なやつだったらそんなやりとりだってできやしない。
ひとくち飲む。麦茶だ。身体の内側から温まる感覚がする。
「生き返るわあ」
「それ、温泉で言うことですよ」
そう言うと、くすり、と鶴喰は笑う。
なんだ今日は。服が違えば性格も違うのか。
それともそういうところばかりに目がいってしまっているのか。
休日にも関わらず早起きをしてしまったからか、俺はいまいち調子を取り戻せていないらしい。
風とともに、鶴喰の髪がなびいた。それを押さえる彼女はどうしようもなく女の子だった。
あまりにも眩しい光景にすこし見惚れる。
鶴喰が首を傾げた。ちょっとあざとい。
コップを突き返せば俺は再び寝転んで、強引に彼女を視界から消した。
「新人さんもいらっしゃるそうです」
「事務のアルバイトの人か」
「そうです。大学生だそうですよ。まだお会いできていませんが。あと、すぐに道東の方の駐在所に行ってしまいますが、もうひとり退魔師の方も」
「人員が増えるのはいいことだ」
「私たちの負担はあまり減りませんが」
「支局長の心労が減ればいいだろ」
と言っても、支局長が頭を悩ませるのは、俺たちの扱いだろうが。
さすがにそれくらい自覚はある。
すると、鶴喰は俺の顔を覗き込んできた。彼女の髪がカーテンのように垂らされて、視界が暗くなる。
けれども顔だけははっきりと見えていた。
大きな瞳、すっと整った鼻立ち、小さな唇。小綺麗な顔。普段の態度も相まって、誰も寄せ付けない高嶺の花とも言うべき女の子が目の前にいる。
「いまさらですけど、ぱいせんはよかったんですか」
「話が読めないんだけど」
「その退魔師の人、本当はぱいせんが抜けたときのための応援のつもりだったそうです」
「抜けるって……」
「ご実家の方へ帰ってもよかったんですよ」
「本当に今更だな、それ」
それは以前、俺に提示された選択肢だった。猿神の制御がある程度できるようになった段階で、俺は実家のある岡山へと帰ってもいいと言われたのだ。
高校入試の出願変更もギリギリ可能だったし、どうだろう、と聞かれた。
あのとき、俺は何を考えたんだったか。いまとなれば、くだらないことで延々と悩んでいたような気もする。
ただ、やっぱり帰りにくかったのはあった。猿神に憑かれた俺を見られていた、周りに恐怖を与えてしまったという負い目もある。
帰ったとして、かつてのような生活もできないだろう。地元のPIROに協力をしなければならないだろうし。
けど、そんなことは後付けだ。帰ってみたらどうなるだろう、という思いよりも、帰りたくないと思ってしまった理由は目の前にある。
鶴喰の吐息がかかる。髪の毛の先が頬に触れてくすぐったい。あと、何だかいい匂いがする。
俺は息が止まりそうだった。歯磨き、ちゃんとしてきてよかった。
「よかったんだよ。めっちゃ寒いし、ひたすら広いし、桜も変な時期に咲くけど、俺は北海道が好きらしい」
「そ、そうですか」
鶴喰は俺から離れて、照れ臭そうに髪の先を指でいじっていた。あんだけ顔を近づければ、そりゃあな。
かく言う俺も心臓の鼓動が激しい。悟られないように、鶴喰に背を向けた。
「桜、綺麗ですね」
ようやく俺たちは、桜のことに触れた。花より団子とはこのことか。目の前にこれだけ綺麗なものがあっても、話すことを優先してしまったのだ。
「花見にはもってこいだ。花びらも思ったより散ってないし、これならゆっくりご飯も食べられる」
「散らないでほしいなあ、って思っちゃいますけど」
「それは、わかる」
桜は散り際が美しい、なんて言うけど、そんな風流はわからなかった。
むしろ、花の散る様は寂しいものだった。せっかく綺麗に咲いたのに、それがなくなってしまう定めにあるだなんて。
もののあはれ、とでもいうべきものだろうか。そういうものへの思いはあっても、散ることよりも咲くことも表裏に過ぎない。
寂しさも喜びも、すべて等しく、どちらもあっての花なのだ。何かが偉大で、より大切なんてことはないだろう。
そして、その気持ちを隣の人と分かち合えたなら……。
「ちょっと寝る」
「朝も早かったですしね。私がいますから大丈夫ですよ。みなさんが来たら起こしますから。おやすみなさい」
「そうだな。お前がいるなら、安心して寝れる」
瞼を閉じる。ゆっくりと俺の意識は沈んでいく。
こんなにゆっくり眠れたのは、久しぶりだった。