Ⅲ
森を奥に奥に分け入っていく。迷わないように木々には印を刻むことは忘れない。
あれから猿の襲撃はなく、日が暮れたので野営の準備に取りかかる。大木に筏を斜めに立てかけると、即席の屋根が完成。これで、木の上から手矢をばら撒かれても問題ない。
蒸した芋があるので、今日は火を使わなくていい。芋を頬張り、水筒から水を飲む。腹がくちくなると、外套に包まって目を閉じる。暗闇の中で、自分を薄く広げていく。意識の結界ができたところで、闇の中に落ちた。
意識の外壁に、なにかが触れる。
敵意ある存在。
目だけを開き、外套の中に入れた柄の長い剣を握る。大身槍は、夜に振り回すには長すぎた。
枯れ葉を踏む音。左右から挟み撃ちか。すでに剣は鞘から抜き放たれている。
こちらが動かないので、ジリジリと左右から近づいてくるのがわかる。
どうするつもりだ。
左の敵が我慢しきれずに地を蹴った。
外套を抜け出だすと、剣で薙ぎ払う。
しまった。
猿とはいえ、なにか武器を持っていると勝手に考えていた。両手でつかみかかろうとする猿の動きは速く、薙ぎ払った槍は、その胴を貫くことになってしまったのだ。
これで剣は使えない。まさか、身を挺して剣を使えなくしたのか。いや、そうではあるまい。
だが、これで身につけている武器は短剣だけになった。
筏を盾にして、右側の敵が直接攻撃できない場所へ身をひるがえす。腰の短剣を抜き放った。
ドスンという音とともに筏は地面に倒れ込み、それを飛び越えるように、もう一匹の猿が躍りかかってくる。かわすことは不可能だ。
ならば――と、大きく踏み込んで猿の左胸に短剣を突き出す。刃は横に寝かる。肋があるなら、その隙間を狙うために。
衝撃、手応え。
背中から叩きつけられ、息が止まる。目の前に猿の黄色い牙が見えるが、幸いにもピクリとも動かなかった。生暖かい液体が胸を濡らす。
もう一人、いや一匹いれば殺されていた。猿の死体から這い出すと、剣を引き抜き、うつ伏せになった死体を仰向けにして、深く突き刺さった短剣を外した。できるだけきれいに刃先の血を拭うと、鞘に戻す。また鞘を変えなければならないかもしれない。
トボトボと筏を引くと、別の大木に立てかける。血まみれの上着と肌着が気持ち悪いので、脱いで体を拭い、上着と肌着を新しいものに交換する。早く血を洗い流さないと、これも捨てなくてはならなくなるが、今はそれどころではない。少しでも体を休めておこう。外套に入り、もう一度目を閉じた。
最後の芋を、水で流し込み出発。
俺は何がしたいんだろう。たった一人で森に踏み込み、猿と戦う。この行動に意味があるのだろうか。
だが、そうしなければならないのだ。微かな記憶が、この森の中へ進むことを命じている。
奥へ奥へ。
水の香りが漂ってきたので、そちらへ向かう。
泉だ。
奥深い森の中に、ひっそりと佇む澄んだ泉。流れ込む川も、あふれ出す小川もない。
深く澱んだ池ならわかるが、こんな透明な水を湛える泉の存在は異常だ。
小石を拾い上げると、泉の真ん中に放り込む。
石が起こす波紋は、すぐに目に見えない何かを呼び寄せて、水面が透明なまま盛り上がった。
触らぬ神に祟りなし。
こんな気持ちの悪い泉に関わるつもりはない。元の道へ戻ると、さらに森の奥へ進んだ。
猿の襲撃があるかと思ったが、杞憂にすぎなかった。
突然森が終わって、中央に一軒の小屋がある広場に出くわす。小屋に手入れが行き届いてることはひと目でわかる。猿たちに手矢を教えたのは、この小屋に住む人物だろうか。
まあいい。考えていても仕方ない。腰を落とし、手のひらを上に向ける。
「軒先お借りして失礼いたします。こちらの親分さんにお目通りさせていただきたく参上いたしました」
仁義を切ることに、意味があるのかどうかはわからない。だが、他に挨拶の方法を知らないのだ。
「軒先お借りして失礼いたします。どちら様かおられませんか」
小屋の中で人が歩く音がして、扉が少しだけ開く。
「早速ながら、手前から発します。お控えなさって」
扉がもう半分ほど開き、男が顔をのぞかせた。白髪、白髭、ジジイか。
「手前、生国と発しましてはモデナ山、名をウェイリン、通り名を孑孑と発します。万事万端、よろしくお引き立てのほどお願いいたします」
高笑いとともに、扉が開かれた。
「どこの、おあ兄さんだ。仁義なんて三十年ぶりに耳にした。こんな森の奥に、どんなご用があるのかな」
殺気なし。
目つきは鋭いが、武に優れたという雰囲気ではない。
第一印象は悪くないはずだ。殺しあいよりも話しあいといこう。




