Ⅰ
生き延びたのは運が良かった。離れた場所から飛んでくる矢ならかわせるが、目の前で射られた矢はかわすことも斬り落とすこともできぬ。小男が贈物持ちであると考えなかったのが失敗だ。師匠が生きていれば、大きな拳骨を食らわされただろうよ。
道すがら、槍を担いだ男は考える。年の頃なら二十も半ば。美男子とはいえないが、なかなか男らしい面構え。先程まで、命のやり取りをしていたとはとても思えないほど冷静だ。
日は亭午を過ぎ、暑さ和らぐ頃に三叉路にぶち当たる。
三叉路の右はサンディア、左はアンダイエ。サンディアは街道沿いの町で、馬借の大親分ジョブロのシマだ。アンダイエは街道から離れた寂れた町のはず。
旅の垢を落としたいならサンディア、静かに過ごしたいならアンダイエだろう。
殺した三人から奪った金を数えると、正銀貨十枚はある。ひと月やふた月は楽に暮らせる額だ。
どちらに進むか思いあぐねた男は、槍の石突きを地面に突き立て、じっと待つ。
根が張ったように直立していた重い槍は、次第にゆっくりと傾きはじめ、右の方向へ倒れた。
「サンディアへ行けということか」
当て所のある旅ではない。行きたい場所があれば、ふらりと出向き、見たいものがあれば、足早に進む。頼むは己の槍の腕前ひとつ。いつだってそうして生きてきたのだ。
槍が右へ行けというなら、そうするのが天の導きだろう。どちらに行っても違いはない。
男は、ふらふらとサンディアの町へ歩みを進めた。
大きな街道にある町には、必ず大きな馬借がある。人が運ぶ荷には限界があるから、船がなければ馬を使うしかない。賊や怪物に襲われる危険がある中で、命をかけて荷を運ぶ荒くれ者たちに睨みをきかせられるのは、当然強面の親分ということになる。
男は<ジョブロ運送>という店の前に立ち止まり、あたりの様子を眺めた。
つながれた馬、積み上げられた荷。ほとんど裸の男たちが重い荷物を運ぶ。賑やかな事この上ない。
気の荒い男たちだ。普段なら店前で男がボケっと立ちつくしていれば、怒声のひとつもあげるのだろうが、尋常ならざる出で立ちに誰もが見て見ぬふりをする。
渡世人として、町の親分に挨拶しないのは仁義に悖る。その反面、仁義を切ると、いらぬ揉め事に巻き込まれるやもしれぬ。金がなければ親分に世話になるのもよいが、懐は温かい。
迷ったのは一瞬だった。殺した三人以外にも刺客がいるかも知れない。後になり、挨拶もできない男と侮られるのも癪だ。
荷物を運び込めるよう広くなった間口をくぐると、膝を曲げ、腰をかがめて槍を置く。
右手を突き出し、手のひらを上に向けた。
「軒先お借りして失礼いたします。こちら、ジョブロの親分さんのお宅でございましょうか」
手のひらを上に向けるのは、戦う意志がない証。口上をききつけて、すぐに一人の男が近づいてくる。
「確かにここは、ジョブロの店でございます。私は番頭のアルミロ」
アルミロは、腹こそ無様に出ているが、腕周りは女の胴ほどはある巨漢。膝を曲げ、腰をかがめて手のひらを上に右手を軽く突き出した。
「早速ながら、手前から発します。お控えなさって」
「いやいや、こちらはただの番頭。どうぞ、お控えなすって」
「お控えなさって」
「お控えなさって」
「お控えなさって」
どこの世界にも約束事がある。その約束を理解している者は同じ世界に生きる人間であり、理解していない者は部外者ということだ。一見無意味なこの譲り合いこそが、裏の世界の儀礼といえる。
「せっかくの厚情、それでは控えさせていただきます」
「早速お控えくださって、ありがとうございます。手前、生国と発しましてはモデナ山、名をウェイリン、通り名を孑孑と発します」
番頭のアルミロの表情が崩れる。自分で孑孑と名乗るなど、こいつは馬鹿じゃないのかという顔だ。
「お見掛け通り、しがない者でございます。以降、万事万端、よろしくお引き立てのほどお願いいたします」
「ご丁寧なごあいさつ、ありがとうございます。どうぞ、お手をお上げください」
「そちらからお手をお上げください」
「いやいや、そちらからお手をお上げください」
「それではご一緒に」
同時に腕を引く。
「親分は外に出ています。すぐに戻りますので、茶の一杯でも飲んでお待ちください」
仁義は切ったが、顔役に挨拶しないのは不調法になる。気は乗らなかったが、ウェイリンはジョブロを待つことにした。
扉が開く音で目を覚ます。いつの間にか船を漕いでいたようだ。
槍は預けているので得物は腰の剣しかないが、室内で槍を振り回すことは難しいはず。
「遠路はるばる、よく訪ねていらっしゃった。ワシがジョブロだ」
人当たりはいいが、目つきは鋭い白髪の男。怒らせると怖いだろう。
「お世話になっています、親分さん。ご当地へは初めてお目見えいたしました、孑孑のウェイリンと申します」
あわてて椅子から立ち上がる。無作法だったが、ジョブロは気にしていないようだ。
「孑孑とは面白い通り名だ。二つ槍のレッテの身内に、そういう通り名の御仁がいたと思ったが」
「二つ槍のレッテは、俺の師匠でした。孑孑っていうのは、師匠が俺を孑孑って呼んでいたからついた通り名です」
眉をひそめ、どう返事をすればいいか悩んだ顔のジョブロ。
「なぜ、孑孑と呼ばれるようになったか、教えてもらうことはできるかな。いいたくないのであれば、詮索はしないが」
隠すほどのことではないし、必要以上に強く思われるよりは都合がいい。能ある鷹は爪を隠すものだ。
「師匠にとっては、俺の腕前なんて子どものお遊び。棒振りしてるに過ぎない、いや棒振りどころか孑孑だというのが口癖だったんですよ。それでついた通り名が、孑孑のウェイリン」
ジョブロは大声で笑ったが、すぐに気遣いをみせる。
「二つ槍のレッテのような達人の直弟子が、孑孑な訳はないだろうよ。ここは自分の家だと思ってくつろいでくれ」
強者の弟子はまた強者。ジョブロは食客として遇することに決めたようだ。
それからしばらく、ただ飯、ただ酒にありついたのは、いうまでもあるまい。