雨の日
暑さと雨の音に気付いてハールは目を覚ましました。
真っ白で静かだった外の世界はすっかり模様が変わり、様々な雨音と鬱蒼と茂る森が織りなす熱気で溢れかえっていました。
「おはよう。ハール」
食事の支度をしていたセンセイは、すっかり顔色の良くなったハールを見るなり安心したようでした。
「おはようございます。センセイ」
ハールはかしこまった言い方をしました。
「……にゃはは、そんなかしこまった言い方しなくていいよ。なんかこっちが変に気を使いそうだから……」
「ごめんなさい……あ、そ、それで何か手伝えることはあ……ある?」
とりあえず敬語を使うことに慣れてしまったハールにとって、そう言われると返って慌ててしまうようでした。
「うーん。そうだなあ。あ、その前にその服を替えたほうがいいね。ちょっと待ってて」
センセイは部屋の奥に引っ込みました。
「おまたせ」
センセイに用意してもらった服はとても着心地のいいものでした。着ているのが感じられないほど軽くなめらかで、ひんやりしていました。けれど、これまでに着てきた服とは何か違うものも感じました。うまく言えないのですが良すぎるのです。肌にその服が触れたときの満足感は何も考えずに浸れるようになってしまうと危ない気がする。そういう類のものでした。服を着ているのではなく、たくさんの命を纏っているような漠然とした怖さがありました。
「いいでしょ。それならどんな季節にも持ちこたえられるからね」
センセイはハールのそんな心配をよそに着てもらえることが嬉しそうでした。
「う、うん」
ハールも気のせいだと思うことにしました。
「それじゃあ、その人参の皮を剥いてくれる」
「うん」
ハールは丸い柄のついた小さな刃物を手に取りました。
「それで今日はどうするの?」
「とりあえず、僕が来たあの岩の場所まで行ってみようかなって」
「いいよ。でも一つだけ注意してほしいことがあるんだけど、どこに行ってもいいけど西の方の森には行かないこと。特に夜はね。わかった?」
「うん」
ごはんを食べ終えると、ハールは雨具を貸してもらい、岩のある所まで向かいました。その途中、この前と同じようなことが起こりました。雨が降ったかと思うと雪が降ったり、暑くなったり、冷たい風が吹き付けて寒くなったりと、そんな具合でした。けれど、センセイから貰った服のおかげでそれほど体が堪えることはありませんでした。
ようやく岩のある所へ辿り着くと、センセイの言った通りその先に道はなく、むしろいっそう茂った木々たちによって森がさらに深くなったようでした。先は真っ暗で進むことはできそうにありませんでした。しかたなくハールは引き返すことにしました。途中、雨の音とは別にさーっという音が聞こえてきました。そこには小屋がありました。
(なんだろう)
雨に似た音を不思議に思いながらその小屋を通り過ぎました。
家に戻るとセンセイは植物の蔓で縄を編んでいました。
「どうだった?」
「……」
ハールは黙ったまま首を振りました。
「そうかい。それじゃあせっかくだから、この縄を編んでくれないかな。別にしなきゃいけないことがあるから。編み方は教えるよ」
センセイは一通り教えると外へ出ていきました。
ハールの編み方はセンセイのよりも、汚く、遅くてひどいものでしたが、少しづつ慣れてきてようやく形になっていきました。植物の匂いと茎から生える少し硬い繊毛の感覚を楽しみながら編みこんでいきました。
そうしてハールがせっせっと編んでいると、あの小鳥がやってきました。ハールはこの小鳥のことを便宜上「コトリ」と呼ぶことにしました。単純ですが、それがふさわしい気がしました。コトリはハールの頭に乗っかかりコツコツとつつき始めました。
「ごめんよ。センセイから言われてるから、かまってやれないよ」
コツコツ
「……」
コツコツ……
「なんだよう」
ハールは我慢できず、頭上を振り払いました。コトリはハールが届かない位置まで飛び去りました。そしてまたクエークエーと鳴きました。ハールは縄を放り出してコトリに向かっていきました。
「……仲、いいね。君たち」
いつの間にか戻っていたセンセイは、少しあきれながら笑っていました。
「あ、そうだ。ハール、これを持って行ってきてほしいところがあるんだ」
センセイは言いました。
センセイにそう言われてハールが持たされたのは大きな袋でした。中からはガサガサとなにやら少し硬そうなものの音がしました。中を覗いてみるとたくさんの葉っぱが入っていました。
向かったのは先ほど雨のような音が聞こえてきた小屋でした。戸を開けると途端にさっきの雨の音がさらに強く聞こえてきました。好奇心と恐怖にかられながらも中に入っていくとそこには細長い台がありました。台には白い布が掛けられ、その上にたくさんの植物が敷き詰められていました。そして何かがもぞもぞと動いているようなので近づいてみると、カリカリと音を立てながら葉っぱを食べているたくさんの白い幼虫がいました。
ハールがどうしていいのか分からずオロオロとしていると、一匹の幼虫がハールに向けて語りかけてきました。
ーその葉っぱをこの台の上に敷き詰めてくれないかー
ハールはその言葉に従い、大きな袋から葉っぱを掴み出しました。
ーそう、それでいいんだ。ありがとうー
「どうしてそんなに葉っぱを食べるの?」
どうして意思疎通ができるのか、気にすることなくハールは語りかけました。
ーそれが僕たちの仕事だから
たくさん食べて脱皮して糸を吐かなくちゃいけないー
「それからどうなるの?」
ーそのあとは……実際に見てごらんー
そう言うと、また葉っぱを食べ始めました。雨の音が一層強くなったように感じました。体の奥が透けて映ってしまいそうな白い皮膚をくねらせ、一心不乱に食べ続けている姿にハールは不気味さを超えて美しさのようなものを感じられずにはいられませんでした。
ハールが小屋を出ると外はすっかり晴れていました。真上にいる太陽からの強い日差しがハールに降りかかりました。光に目を慣らすためにしばらくじっとしました。足元の植物たちは表面に付いた水滴をぽたぽた落とし、ハールの靴とズボンの裾を濡らしました。
コトリがぱたぱたと音を立てながらやって来ました。コトリはハールの頭に乗っかかりコツコツ頭を突きました。どうやら何かを催促しているようでした。
「どうしたのさ」
コトリはくちばしでぬっと方向を差し、そっちの方へ行けと言わんばかりでした。ハールはその方向へ歩き出しました。違う方向へ行こうとすると、コトリがコツンと突いて指示を出しました。そうやって進んでいくと、白い小さな花を咲かせている植物の群落が見えてきました。そこでコトリがハールの頭から離れて花の方に向かっていきました。ピョンピョンと跳ねながら何やら様子を伺うような仕草をした後、花を突きはじめました。
「その花が好きなの?」
コトリは頷くように鳴きました。
ハールはその花の群落に近づいて行きました。よく見ると白い花は五枚に分かれていて星のような形をしていました。茎と額片が織りなす緑色とぽつぽつ散らされた白色の光景に見とれていると、コトリが頭に乗っかかってきてまた突きました。どうやら気に入らないようです。袋と花を差し、なにやら訴えかけているようでした。
「その花を持って帰れってこと?」
ハールが花を摘み始めるとコトリは満足したのかたちまち静かになりました。
家に戻るとセンセイが、
「ありがとね」
「ねえ、センセイ。あの虫たちはどうなるの」
ハールはさりげなく尋ねました。
「もうすぐしたら見せてあげる。それじゃあ昼のごはんにしようか」
そう言ってセンセイは台所に向かっていきました。
ありがとうございました。