あなたの名前はセンセイ
そうしてハールが途方に暮れていると、何かが遠くから近づいてきました。何かはハールのいる木まで来ると、木の根元にいるハールに気付いて立ち止まりました。
「ありゃ、めずらしい。人の子だよ」
何かはハールに呼び掛けました。
全く気付いていなかったハールは涙も拭かず顔を上げると、目の前には大きな袋を肩に担いでいる、ずんぐりとした形の影が立っていました。
影は、涙と真っ赤な瞼でひどくなってしまった顔を見せるハールにたじろいだ後、ハールの返答を待つために、そのままじっとしていました。
立て続けに不思議なことが起きたため、状況が飲み込めないハールはただただ、その影を見上げ続けました。
「どうしたの、こんなとこで?」
ハールが何も言わないので、影はそう切り出して大きなふくろを下ろしました。
「あ、あなたは、誰?」
落ち着きを取り戻し始めたハールは震えを抑えながら聞き返しました。
そのとき、雲の隙間から光が差し込んできて影に当たりました。ピンと立つ耳に口元から生えている長い髭。丸っこい体つきにふわふわとした目。それは猫のように見えました。けれど、猫にしては太りすぎ……大きすぎる変わった生き物だとハールは思いました。
「ありゃ、まあいいや。わたしに名前なんてないよ。だから、君の好きなように呼んだらいい。ご覧の通りふくよかな猫だけどね。それより君、ここで迷ったんでしょ?」
ハールは素直に答えていいのか迷った後、こくりと頷きました。
「それなら付いてきなさい。じゃないとここで凍死しちゃうよ」
ふくよかな猫は袋から暖かそうな上着と、円盤状のものを取り出し、ハールに身に着けるよう指示しました。
「これは、なに?」
ハールは持ち上げた円盤を覗き込みました。
「それは足に取り付けるんだ。そうすると深く積もった雪の上でも歩けるんだ。さあ行くよ」
丸い猫は不思議なことにあれだけ重たそうに見えるのにも関わらず、雪の上を沈むことなく歩いて行きました。ハールもその後をぎこちない足取りでついていきました。
猫の後をついていくと開けた場所に出ました。その先に小さな小屋が見えました。
「さあ着いたよ。あそこがぼくたちの家だ。んしょ」
猫はふくろを下ろし、足に着けた円盤を取り外しました。ハールも手間取りながらもなんとか取り外すことができました。
開けたところには、田んぼや畑があって、その中心を一本の細長い川が通っていました。その川を中心に植物の根のように分かれてできた支流があり、田んぼや畑の側を通っていました。
「さあ着いた。着いた。今、火を起こすからそこで待ってて」
ハールは火を起こしている猫の姿を眺めていましたが、その姿がだんだんぼんやりしてきました。そしてそのまま眠ってしまいました。
しばらくしてハールが目を覚ますと、猫が食事の用意をしていました。
「あ、起きた。起きた。さあ温かいうちに食べて。冷めちゃうから」
猫はハールにごはんと焼いた魚、そして温かいスープを運んできました。
「い、いただきます……」
ハールは猫の顔をちらちら伺いながら、ゆっくりと食べ始めました。
すると、ハールの頭上からぱたぱたと空気がはじけるような音を立てながら小鳥が舞い降りてきました。小鳥は驚いて目を瞑っているハールを横目に羽根をばたつかせながらゆっくりと床に近づき、静かに着地しました。それから鳥はとっ、とっ、と小さく跳ねながらハールに近づいてきました。
「わっ!」
鳥と触れたことがないハールはびくっとして仰け反りました。小鳥も一瞬たじろぎましたが、かまわずさらにハールに近づいてハールの腕に乗っかかりました。頭をキョロキョロさせながらハールの食べている魚に興味津々といった様子で近づき、つつき始めました。2、3回つつくと、ばさばさっと飛び上がり今度はハールの肩に乗っかかりました。それから鳴き声を上げました。ハールはその音の大きさに驚きました。まるでリコーダーがトランペットの音を奏でるかのようでした。
「大丈夫だよ。『ようこそ、歓迎している』と言ってるから」
猫はそんなハールと小鳥のやり取りを楽しそうに微笑んでいました。
ハールは恐る恐る手を近づけて頭を撫でようとしたら、カッとくちばしを突き出されてしまいました。慌ててハールは手を引っ込めました。
「恐る恐るやろうとするから危ないんだ。何も考えずに撫でてあげればいいんだよ」
猫にそう言われて、怖い気持ちをぐっと抑えて、余計なことを考えないようにして手を差し出しました。すると、小鳥は頭をかしげて受け入れてくれました。
小鳥の頭は温かくてふんわりしていました。鳥の頭はもっとザラザラとして痛いと思っていたので触れるのが怖かったのですが、いつまでも撫でていたいと思えました。
鳥はもうすっかり気持ちよさそうに頭をハールの掌にこすりつけ、ごろごろと喉を鳴らしていました。
そのとき、ハールはその猫の呼び名にふさわしいものが思い浮かびました。
「ありがとう、先生」
「ん? センセイってなに?」
「あなたの呼び名です。僕たちはものごとを教えてくれる人のことを先生って呼ぶんです。」
「へー、面白いね。わかったよ。僕の名前はセンセイだ」
「それで、君はどうやってここに来たの?」
「ごめんなさい。よくわからないんです。学校のみんなとこの森に来て、はぐれたら、いつの間にか……」
「そうか……それで、君は帰りたいのかい?」
「……わからない。帰りたいと思った時もあったけど……戻ってもまた、みんなにいじめられるかもしれない……から」
「そうか。それなら、しばらくここで過ごすといいよ。どのみち帰れないだろうから……」
「どういうことですか?」
「うーん。いま、言っても無意味かな? ええと、ここに来るまでにおかしなことはなかったかい?」
「え、えっと、引き返すために目印にしていた大きな岩があったんですけど、その先にあったはずの道がなくなってました」
「……なるほど。あと、ほかにはなかったかい?」
「あ、あと、僕がおかしいのかもしれないのですが、いきなり森が熱くなったり、寒くなって雪が降りだしたり……」
ハールは自分が何を言ってるのか自信が持てなくて、話の途中で声が出なくなりました。
「そう」
けれど、センセイはなにもおかしなことはないといった様子でハールに言い聞かせました。
「今の、君の季節はバラバラなんだ。帰りたければこれを元に戻さないといけない。春の次は夏で、秋が来て冬を越したら次の春が来るように。だから君が見ているもの、感じているものは、なにもおかしくないよ」
「……」
ハールは信じられないといった様子で黙り込んでしまいました。
「まあ、ゆっくりしていくといいよ。ぼくたちにとっても久しぶりのお客さんだから」
暑い日が続く中、冬をイメージした話になるのもどうかと思いましたが、いかがでしたでしょうか?
センセイの可笑しさが伝わればいいな、と思います。
作中では冬ですが、暑い日が続いているので熱中症には気をつけてください
それではまた。